第5話 真田幸村⑴

 真田幸村は、テレビの時代劇でも人気の人物である。大敵に立ち向かい最期を遂げるが、其の生き様、そして最期まで諦めずに目標に向かっていく様に判官贔屓的な日本人としての美なるものを見出している。


 真田幸村という名は広く世間に流布するのは、大坂の役から5、60年ほどたった軍記物で登場する。当時としては、信繁が本名であり、一族の間では源次郎、役職名では左衛門佐で通っていた。残っている文書でも、信繁の名であり、幸村で残っているものはないという。出てきたものは、偽書と言われるものばかりである。しかし、物語と書く上ではやはり幸村の方が馴染みが良いと思うので、小生も幸村でいこうと思う。


 さて、真田幸村といえば、大坂の夏・冬の陣の活躍と、関ヶ原における父昌幸とともに徳川秀忠の軍勢との上田城での戦いの活躍が有名である。昌幸のことと、第1次上田合戦から、関ヶ原の戦いまでは、拙著「六連銭はためく」(パブー内 無料配信)をご覧いただきたい。また、このカクヨムサイトでも「義に逆らうことなかれ」の中でも第2次上田合戦はとりあげているので、ぜひ参考にしていただきたい。


 家康が関ヶ原後の賞罰を井伊直政、本多忠勝、榊原康政らに命じて議論させた。当然、上田城の昌幸父子の処分についても話が出たのは当然だった。なにせ、秀忠軍を籠城戦により、合戦に間に合わせなかったどころか、上田城を落とせなかったことへの悔しさであった。


 直政が言った。

「此度の戦は特に賞を厚く致し、罰は之を軽く致して、十分に天下の士心を収め、漸次お家万代のもといを固めてこれを行うべしとの事から、伊豆守をして降参の儀を取り扱わせしめたが宜しかろう。如何か」

 忠勝と康政は仰せの通りでよろしいのではないかとしたが、正信は反対した。

「いいや、いやしくも西軍にお味方いたした者共は、この際厳罰に処すべきと存ずる。豊臣氏の勢いを弱め、天下の政権を悉く徳川家の手中に握ってしまうのが肝要でござる。宋襄そうじょうの仁は禍の種に蒔くに等しい。ことに西軍の中で安房父子は、治部や刑部に劣らぬ謀主であり、一度ならず二度までも徳川家に仇する逆賊と言ってもよい。ここは安房父子には断罪を命ずべきと存ずる」

それがしも正信の意見に同意いたす」


(宋襄の仁とは、中国春秋時代のこと宋の襄公が、敵に無用の情けをかえけたため、大敗を喫した故事による)

 『春秋左氏伝』「十八史略」


 宋子姓 商紂庶兄微子啓之所封也 後世至春秋 有襄公茲父者 欲覇諸侯 與楚戦 公子目夷 請及其未陣撃之 公曰 君子不困人於阨 遂為楚所敗 世笑以為宋襄之仁


( 宋は子姓 商紂しょうちゅうの庶兄子啓しけいの封ぜられし所なり 後世春秋に至り 襄公茲父じょうこうじふという者あり 諸侯に覇たらんと欲し 楚と戦う 公子目夷もくい 其の未だ陣せざるに及んで之を撃たんと請う 公曰く 君子は人をやくに困しめず 遂に楚の敗れる所と為る 世笑いて以て宋襄の陣と為す )


 大久保忠隣と徳永壽昌としまさは断罪に同意した。これでは意見は二つに別れた。ここは秀忠が決済を下すこととなった。秀忠としては、真田父子への恨みは根深い。当然許せるはずはなく、家康としても断罪を容認する形となった。


 この断罪のことを聞きつけた信幸は血相を変えて舅の本多忠勝の屋敷へ駆けつけた。


「舅殿、わが父と左衛門佐のことを聞き及び早速駆けつけいたるたる段ご容赦くだされ。父弟の別心についての御憎しみは、元より承知いたすところなれど、そこを曲げて御助命下されるならば、この上なき仕合せでござる。何卒我らこのたびの手柄に代えて、この儀幾重にもおとりなし願う限りにございます」

「そうよな、子として尤もの願いじゃ。だが、安房父子は、治部少同様謀反の張本人ゆえ、助けようにもそのすべがない。ことに御両所は佐渡の味方じゃで、難しいのう」


 忠勝はどうすればいいかと頸を捻り、腕組みをしながらしばし考えていた。

「ところでじゃ。伊豆殿、たとえ助命嘆願が叶うとの御沙汰があったとして、安房父子がそれを拒み、降参しなんだら如何いたすや。御事引き受けて降参さする算段があると申すか」

「その儀ならば御懸念なく存じます。我らこの儀に関しましては、心得違いなきようにと、申し遣わしてございます」

「なるほど。うーむ。助命のこと、我が力にても難しきことかもしれぬぞ」

 信幸は両手を突き出すようにして力を込めて言った。

「如何ようあっても、おゆるしないとならば、諏訪八幡、我ら一日たりとも、生永らえておる所存ございません。父、左衛門佐が生きておらねば、我とて生きる希みござりませぬ」

「よう言うた。さすがは我が婿殿、見上げた覚悟と感じいった。かくなる上は成否はともかく、力の及ぶ限り尽くしてくれよう。で、その手立てだが、おことと我とは婿舅の中にて、聞く耳は持たれまい。ここは一つ兵部と式部とに肝煎を頼むといたそう。それが良い試案じゃ」

「舅殿、いや忠勝殿、是非に頼み入ります」

「伊豆殿、決して短慮は無用じゃて。心して吉報を待たれよ」

「はっ、ありがたき仕合せにござる」

 信幸は少しは気が晴れた気持ちになった。この時ほど本多忠勝が舅でよかったと実感していた。 


 忠勝はすぐに支度を整え、直政方に赴き、信幸の嘆願の存念を伝えた。

「伊豆は左様に覚悟を決めておるのか」


直政は忠勝の話を聞きながら感心したように聞いていた。忠勝は続けた。

「繰り返すようでござるが、お聴きいれられぬときは、腹きって不孝の誹りを免れる心底だとその意志は固うござる。このこと我が婿だから言うのではない。その孝心の厚さに感服いたしたゆえ、如何にしても助命の儀とりなしてやらねばならぬと思うたのじゃ。だが、伊豆と我とは舅婿の間柄ゆえ、おことが我らに変わって肝煎りくれまいか。もし出来ぬとあらば、伊豆ばかりに腹を切らせられぬ。我もその覚悟を持たねば、武士の道が立たぬではないか」

「ようわかった。そこまでの孝心の覚悟があるのならば、我、もいちど両御所に注進いたそうではないか」

「かたじけのうござる。我が願いお聴き賜り恐縮至極でござる。これより式部殿にも頼みいるつもりでござる」

「左様か。式部殿もおそらくおことの頼みごと嫌とは言わまい。二人で嘆願いたそう。我ら切に説得致せば、両御所もお許しになるであろう。安心するがよい」

「よろしく頼み入り申す」


 忠勝は榊原康政方にもその後立ち寄り、同じように存念を伝えた。直政と康政は互いに請け負ったけれども難しい難問だと感じていた。秀忠は親子の情と忠義を訴えれば何とかなるかもしれないと思ったが、内府だけは無理かもしれぬと思った。なにせ二度に渡って煮え湯を飲まされており、内府にとって殺してやりたいほどの武将であることに違いないのである。それを命乞いなど、もっての外の論理である。しかし、忠勝の伊豆を思う心を察するに、まだ内府と秀忠を説得してみる必要性を感じていた。忠勝も同じ内府と戦乱の中をくぐってきた四天王と呼ばれる一人だったから、また格別の思いがあるのだ。まして四天王の一人酒井忠次は四年も前に鬼籍に入っており、今は三人衆となっているのだ。我らが訴え続ければ、考えが折れるかもしれないのだ。やってみる価値は十分にあった。そうでなければ、これから徳川家の忠義、孝心の心得は言えなくなってしまうからだ。


 直政は家康に言上のため、康政は秀忠のところに行った。

家康は

「安房めは、年来我らに盾突きおる痴れ者ぞ。たとえ赦したところで、大人しく兜をすておき、蟄居いたすや。そのような願い捨て置け!」

 と、怒りをあらわにして、さっさと奥へ退がってしまった。


 康政は秀忠に願い出たが、やはり

「伊豆の願い、子としては無理もないこと。安房がそれほど命乞いを欲するのであらば、上田において使者を遣わしたる際、神妙に降参いたしておればいいものを、謀りおって心の心底はかり知れぬ。関ヶ原に間に合わなんだも、安房のため。それを以て助命を乞うとは思いも寄らぬこと。これ以上重ねて申すでない」

「しかしながら・・」

「これ以上聴く耳持たぬ。退がれっ」

 康政もこれ以上返す言葉もなく、虚しく立ち返った。


 不発に終わったことを聞き及んだ信幸は、最後のことと思い言葉を発した。

「方々の並々ならぬご配慮、我ら心根に徹し忝く存じ上げます。ご両所御赦しないはご尤もと存じ上げますが、いささか御恨み申し上げます。ご助命の儀ひらにお願いいたす所存にございます」

と述べて、深々と頭をこすりつけ、顔をあげてさらに言った。


「つきましては、我ら一期いちごの願い。父安房守御仕置に砌、何卒我らに切腹仰せつけられたく、この儀改めてお取り持ち願い奉ります。我ら父に背いて、御方に願い参ったはご恩を重しと存じての事なれど、所詮は不孝の誹りを免れぬこと。しかるに今また父のお仕置きを仰せつけらるることを其のまま見過ごし申すならば、世人は何と嘲笑いましょう。御敵の倅となれば、お仕置きを受けましても、掟に背く訳ではございません。さすれば君の重恩にも報い、親の恩をも忘れぬと、武士の面目あい立ちまするゆえ、ぜひ切腹の儀お願い申し上げまする」


 これには直政も康政も驚嘆した。

「豆州、よう言うた。天晴れじゃ。それでこそ孝心者じゃ。源義朝とは大違いの見事な武士じゃ。我ら感服いたした。必ず助命の願い叶うまでじゃ」

「ありがたき仕合せにございます」

 

 二人は再度、内府と秀忠に助命を懇願した。しかし、やはり家康は「その話し無用」とだけ言って、また奥へ入ってしまった。今度は秀忠への懇願だった。秀忠の言葉は以外にも穏やかであり、信幸の孝行心を感じ入っていたようで、

「父上に異議なければ、助命の願い聴き入れてもよかろう」

ということになり、一同の出仕の際に、信幸同道の上、裁決となった。


 やはり本多正信は反対であった。場は一発触発の状態になった。家康は最後は「秀忠が決めよ」ということになり、秀忠が裁決した。


「伊豆の忠義万人のみる所じゃ。その伊豆が己の手柄に代えても、まして一命を投げ出してもとの訴え、今の乱世の時代にあって見事なほどの孝心じゃ。父子ともに赦されよう。これを赦さなんだら、この秀忠後々まで誹りを受けよう。安房父子は死罪一等を減じて、浅野左京大夫に預ける。伊豆には上田の城受け取りの役目を仰せつける」


 この一言で真田昌幸・幸村の死罪はなくなったのである。信幸の大手柄であった。

このことがなければ、大坂城での幸村の伝説は無論発生しない。運命の時であった。


 信幸にとっては、名を変更するよう申し渡されたが、幸の字は真田家の筋を示す字であってこれも捨てがたいことであったが、命よりもと「之」に改めた。 


 昌幸父子は、昌幸の長子信之(信幸改め)と舅本多忠勝と井伊直政、榊原康政らの尽力により、死罪は許され、高野山への配流と決まった。

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