弦の波紋

秋月 糸

第1話 確信


喉を通る空気が刺すように冷たい、冬の日だった。

竹下志乃たけした しのは、急ぎ足で市立総合運動公園へ向かっていた。


駅に向かって歩く下校途中の高校生集団に逆らうように、長いコンクリートの道を登っていく。

十数年ぶりに歩くその道は、先程までは思い出せるかどうかすら不安だったが、歩いてみれば、まるで昨日歩いていたかのように鮮明に思い出すことができた。

すれ違う高校生達は、志乃が通っていた頃とは違ったデザインの制服を着ている。


(時代に合わせて制服も変わるものなのね)


今の感想はちょっとババくさかったかな、と苦笑いしながら、坂を登っていく。

それにしても、この坂道はこんなに長かっただろうか?

それとも、私の気が焦っているのかな……。



志乃の目的地は、総合運動公園の一角にある、市立弓道場だ。


誰に会うでもない、弓を引こうと思っているわけでもない。

ただ、高校時代に毎日通っていた道場に、ふと行ってみたくなったのだ。

ただ消費するように過ごす毎日から抜け出して、あの静かで張り詰めた、心洗われる空間に身を投じたかっただけかもしれない。



単なる時間の消費に逆らうことで、もしかしたら、私の人生の何かが変わるかもしれないと、漠然とした期待も抱いていた。



30歳を越えてからと言うもの、自分を見失ってしまった感覚があった。

そもそも『自分』などというものがあったのかどうかすら定かではない。

抱いていた夢や目標も、いつの間にかはじめから無かったもののように忘れ去ってしまった。

雲を掴むように就職して、良しとも悪しともせず毎日を過ごしている。

仕事に慣れることや、人間関係を築くことに神経を尖らせていた期間が過ぎ、立ち止まって思うのだ。


「私は一体誰なんだろう」


同世代の友人が、結婚や出産をしていく中、何も変わらない自分がどうしようもなく『何者でもないもの』のように思えた。

そしてまるで自分が、未完全な何かの半分であるかのような気がしてならなかった。


きっと私は孤独なのだ。

どうしようもなく──。


これまでの人生にこれと言った不満はなかったし、それなりに生きてきたつもりだった。

でも、どうしても心の穴を埋められない。

得体の知れない真っ黒な渦が、心の中をじわじわと侵食していくような危機感を感じていた。



「着いた……」


冷たい澄んだ空気の中に静かに佇む弓道場を前に、志乃は足を止めた。


あぁ、ここは、何も変わっていない。

不思議と道場の周りの空気はピンと張りつめ、自らが吐く息の音が気になるほどだ。

その張りつめた静けさを消しとばすような破裂音が、突然響き渡る。


パーーン


この独特な音は、矢が的を射た音である。

(あれ、今日は休館日だったはず……。)

週に一度の休館日は、道場内に立ち入ることもできないはずなのだが、今日は違ったようだ。


母校であったあおい高校には、弓道部は存在したが道場がなく、近くにある総合運動公園内の市立弓道場を時間貸しで使用していた。

もちろん一般の使用者との兼ね合いもあり、いつでも好きなように使用できるわけではなかったが、限られた時間の中でやりくりしながら練習をする日々は、志乃の性格には合っていたようだ。

現在でも練習形態は変わっていないらしく、今日が葵高校弓道部の休みであり、道場の休館日でもあることは事前にチェックしていた。


「誰もいないと思ってたのに……」


少し残念に思いながらも、恐る恐る、道場の入り口横手にある通路から矢取道やとりみちに向かう。

矢の通る道に面して作られた矢取道は、その名の通り、放った矢を回収するために使う小道で、射者も的も見やすい位置にあるため、しばしば見物人が使用することがある。


(ここからちょっとだけ覗いてみよう)

忍び足でそっと矢取道に出ると、歩きながら横目で射者を確認する。


背の高い、男の人だ。


後ろ姿しか確認することはできないが、黒の着物に濃紺の袴を着たその男はたった一人、射場から弓を構えている。

弓道は決して的に当てることが重要なのではない。

ひとつひとつの所作や目線の動き、そして"射者の無心"こそが重要なのだ。

雑念があっては、矢は思ったように飛ばない。

もちろん、美しい所作も生まれない。

すべては射る者のこころ次第。

すべての条件が揃ってはじめて、美しいしゃが完成する。


志乃は男の視界に入らない程度の位置に移動すると足を止め、木製の手すりに両手を添え、前のめりになって男を見つめる。


「きれい」


横顔しか見えない男は、ゆっくりと、しかし迷いない動作で弓を打起こし、弦を引く。

あまりにも美しいその動きに、志乃は一瞬にして心を奪われてしまった。

弦を引くキリキリという音が、滞った空気の中に波紋をつくる。

矢を射るまでの数秒が、まるで数分のように感じる。

男から発せられた矢は真っ直ぐに鋭く的を貫く。

男の弓は、驚くほどに鍛錬されていた。


思わず口に手のひらをあて、息を飲んで的を確認していた志乃が、ふと我に返り、矢の主を見やる。

未だ横顔しか見えない彼は、鼻筋の通った美しい男だった。

少し長めの前髪が瞳を隠しているが、漆黒の髪に透ける様な白い肌が印象的だ。

年の頃は20代後半から30代、もしかすると自分と同じくらいの歳かもしれない、と志乃は直感的に思った。



志乃は、どこか心に引っかかるものを感じていた。

弓は、所作は同じであっても、射る者によってまるで違うものになるのが常だ。

動作や射者を取り囲む空気には、癖が出る。

不思議なことに、男の弓には、癖がないのだ。

ただただ美しい所作で、飄々と的を射る。


こんな弓をする男を、志乃は一人だけ知っていた。



男の射が終わると、志乃は一目散に道場の入り口に向かって足を早める。

(もしかしたら……)

そんなふわふわとした疑念が頭の中を支配していた。


道場の入り口から急いで中に入ると、ちょうど男が神前に一礼し、射場から出てくるところだった。

足を止めてじっと見つめると、男は志乃に気が付いて顔を上げた。

男は志乃を見て少し怪訝そうな顔をしたが、すぐに何かに気がつき、その切れ長の瞳を見開いた。



志乃の疑念は、確信に変わっていた。

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