第3話 死にたがり少女

 世界渡りをする人間は、様々な状況下から突如としてこの世界に現れる。

 例えば、トラックに轢かれて内臓破裂した凄惨な体で此処に来たり。

 例えば、通り魔に心臓を一突きにされた状態であったり。

 そういうパターンがあることを考えれば、この少女の状態というのは比較的大人しい部類に入るだろう。

 それにしても……手首を切って自殺しようとしているところからの世界渡りね。

 彼女も、さぞかしこの状況に困惑していることだろう。

 何せ、死のうとしていたところを無理矢理止められたってことだからね。

 当の少女は、虚ろな目で前を見つめている。

 目の前に立つアレクの姿をちゃんと捉えているかどうかも疑わしい状態だ。

 アレクは少女の顔を覗き込んで、尋ねた。

「お客様はお一人ですか?」

「…………」

 少女は何も答えない。

 手にした剃刀をきゅっと握った格好のまま棒立ちになっている。

 と。

 弾かれたように左の袖を捲り上げ、剃刀の刃を傷だらけの手首に押し当てた!

「!」

 少女の手首に傷が一本増える寸前のところで、アレクの手がそれを止める。

 アレクは剃刀の刃を握り締め、少女に言った。

「此処では死のうとしても簡単には死ねませんよ。世界と世界の狭間にある場所ですから」

 世界と世界の狭間。それは言わばこの世とあの世を繋ぐ境界線のようなものなのだ。

 だから神々は普通に存在しているし、死者だって暮らしている。

 アレクが良い例だ。彼はデュラハンという死者なのだから。

「…………」

 少女の目がアレクの顔を捉えた。

 それまで真一文字に結ばれていた唇が、開く。

「……何で」

 小鳥が鳴くような可愛らしい声だ。

「何で、私が死のうとするのを邪魔するの。この世は、いつも、いつも」

「……とりあえず、落ち着いて下さい。此処にいらっしゃったということは、貴女は当館の大切なお客様なのですから」

 アレクはそっと剃刀を掴んでいる手を引いた。

 少女の手から剃刀が離れる。とりあえず、少女にはアレクの制止に抵抗する気はないようだ。

 アレクは少女を連れてカウンターに戻り、剃刀を脇に置いて台帳を手に取った。

 彼の手には、剃刀を取り上げた時に付いたのだろう、深い傷が付いて血が滲んでいた。

 死者にも、血はある。痛くはなくても、生きていた頃の名残として体から血が流れるのだ。

「お名前の照合をしますので、貴女のお名前を教えて下さい」

「…………」

 少女はアレクからそっと視線を外した。

 しばしの沈黙の後、口を開く。

「……美佳。河合、美佳」

「カワイミカ様ですね」

 アレクは台帳のページをぱらぱらと捲った。

 そのまま全てのページを捲って、うん、と眉を顰める。

 再度最初からページを捲り、全てを捲り終えて、小首を傾げた。

「……少々お待ち下さい」

 彼は台帳をカウンターに置き、背後の扉を開いた。

「支配人、ちょっといいですか?」

「なんじゃな」

 落ち着いた物腰のしわがれた声が、アレクの声に応える。

「台帳に名前の記載のないお客様がいらしているのですが」

「ほう」

 こつんこつんとゆっくりとした足音が近付いてくる。

 アレクが扉の前からどくと、足音の主が静かに姿を現した。

 腰の折れ曲がった、二メートルほどの大きさの骸骨──

 この旅館の支配人のルーブルである。

「台帳に名前の記載がないお客様。それは──」

 ルーブルは眼球のない眼で少女を見据え、言った。

「手違いで此処に迷い込んでしまった人間じゃよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る