12 芸術としての変態撲殺と代理戦争と創作物戦争

 変態撲殺女がリア充破砕男を目撃したように、リア充破砕男もまた変態撲殺女を目撃するようになった。


 そのくらいには、変態撲殺女もまた有名になり始めていた。変態撲殺女は、リア充破砕男と異なり自称ではない。変態を撲することには一定のこだわりがあったが、殺すことに関してはこだわりはなく、というか撲した後生きようが死のうが、変態という時点でことさら興味はなかった。

 しかし周囲にしてみれば、忌避するにも軽蔑するにも、名称は刺激的であるほうが都合がよかったため、実際に殺しているかどうかがシュレディンガー的であっても、とりあえず「殺」という字は含んでおくのが都合がよかった。


 変態撲殺女は、リア充破砕男と異なり、特に振り付けを演出すると言うことは行わなかった。しかしながら、その撲するための技術は洗練されていった。動機はともかくとして、無駄のない動きができるようになったのだ。無駄を排した武闘的な動きは、それだけで審美的な価値を帯びた。居合抜きと同じようなものであった。居合もまた、人を殺すための技術として発祥した。それが武道となった。従って、美を獲得し始めた変態撲殺技術もまた、武道として、人の道として確立させられるだけの可能性を秘めていた。


 子供にスポーツを習わせると、子供が品行方正になるという考え方が、特に武道においては強くあった。実際にはその柔術や剣術をわざわざ用いて理不尽ないじめを施すということも行われていた。もちろん、実際に品行方正化するケースもあったはずであり、結論を出すためには統計が必要であった。しかし実際に流布していたのは、厳しさが人間を真っ直ぐにするという信念であり統計ではなかった。この場合、たとえ効果があったとしても、厳しさが省略されていた場合は結果は偶然のものであり効果はなかったことになった。それは、苦しくなければ仕事ではないという信条を持った、自称鬼上司のようなものであった。


 もしここで、あえて統計という言葉で呼ぶとしたら、先に述べた直感的統計であった。厳しさについて言えば、変態撲殺術は少なくとも傷害する時点で厳しさを内包することは自明であった。そして、被害者が出ていることから、その厳しい現実の存在がまた明らかであり、つまり厳しさが人間を真っ直ぐにすることが反例無き定理である世界に限っては、撲殺は素晴らしいものであることを示す完璧な論理が構築されていた。


 あるいは、変態撲殺術はテレビゲームの実況にも似ていた。敵が悪かどうかは検証せず自明のこととして、もしくは主人公が悪役という設定でもよいからとにかく敵をなぎ倒してゆく無双な姿は、そのゲーム内住人ではない者の溜飲を単純に下げた。次元が異なるため、ゲーム内住人の人権やらモンスター権やら悪魔権などが考慮される必要はなかった。


 ただ、現実には倒される側がモンスターでも悪魔でもなく、人間の女性であって、倒される手段が性的である場合には特別にその違法性について考慮しようという一派も存在していた。それへの対抗言論として、次元が違うことで一笑するパターンのほかに、人間の女性に限定せず男性も考慮しようというパターンがあった。そちらは規制の対象をより広げようということであり、より「厳しさ」に価値を見いだすものであった。

 変態撲殺女の基本的な思想としては、その拡張は歴史への無理解であった。二次元の女性への虐待は残虐であるとしても、男性への虐待は溜飲であり問題はなかった。


 変態撲殺女以外の創作者の中にも、自主規制たる成年マークは、女性が犯される創作物にとどめるべきであるという一派と、男性が犯される創作物にも一様に適用されるべきであるという一派があり、「甘え」などいうむき出しの刃のような言葉で言論を戦わせたり罵倒したりした。

 最も古典的な思想においては、女性向けの性的表現物自体が存在しないことになった。さらにはなはだしい思想になると、女性に性欲は存在しないことになった。それは生物学的にもあり得ない誤解であり、またリア充破砕男の思想と同様、人類滅亡への危険を孕んでいたが、リア充破砕男同様、そのような反論は無意味な極論であることになった。


 それらを踏まえて、変態撲殺術が日本中の敬意を集め、義務教育上の必須科目として今後取り入れられる可能性も一億分の一ぐらいはあった。つまりは、世の中何が起こるかわからない、という点を考慮した場合には一応可能性として変態撲殺女が評価される世の中が来る可能性もなくはないのだった。それは、政府に対して宇宙人が攻めてきた場合の防衛プランを立てさせるような種類の思想であった。万にひとつとか億にひとつとか備える場合の対応を渋ってはならないが、そのために国民の血税が使われてはならないので、サービス残業が撲滅された理想の世の中を望む者も、政治家やお役人がタダ働きすることは歓迎した。公僕は国民に尽くさなくてはいけないが、国民の持つ権利については無くても良かった。


 変態撲殺女の変態撲殺術は、そうやって演舞のたぐいとして、動画投稿サイトなどで共有されていった。もちろん、完全にエンタテインメントとして消費されたわけではなく、そこに映った被害者たちへの同情や犯人への怒りを多くの人が感じた。これにより、それを娯楽として消費する者たちを、ネット越しに正義感溢れる者たちが、新たに比喩の意味で撲し続けることになった。批判者たちの怒りは第三者による怒りで関係ないじゃん、というのが娯楽として消費した者の言い分であった。

 多くの話題において、少なくない論者により、当事者でない者が語ることの是非について、結論にうまく合致する方が選択され、ある時は是とされある時は非とされた。


 それらの変態撲殺女と直接関係のない二次的な戦争があるような、その動画をリア充破砕男も閲覧していたから、実際に街で目撃した時もすぐにわかった。街の遊撃手、というどこかで聞いた言葉がリア充破砕男の頭の中に浮かんだが、野球を見ないリア充破砕男は、それが野球用語であることを知らず、遊ぶように敵を撃破する手、というぐらいの感覚であった。


 遊び、という感覚は、リア充破砕男のみならず、他の者も抱いていた。同様の感想を、リア充破砕男を見る変態撲殺女も、他のリア充破砕男を見た者も抱いていた。


 つまり、変態撲殺女もリア充破砕男も、傍から見れば愉快犯であった。


 しかし、彼らの主たる感情を正確に表現すれば、二人は純粋な不愉快犯であった。

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