10 変態撲殺女と被差別女性の歴史について

 ネトウヨとしてのリア充破砕男と同様、変態撲殺女にとって歴史とは味方であった。そこには世界的な女性の被抑圧の悲劇が記されていた。


 歴史とは正しくあらねばならなかったが、正しいかどうかについては直感で判定された。誤った歴史を広める者は悪であり変態であった。


 少なくとも、女性が選挙権を長いこと持たなかったことと、戦争中の家父長制は最大の武器であった。


 ある事件が起こって「それは男女を入れ替えても同じ事が言えるか?」理論が唱えられるとき、それは女性という性が背負い続けてきた負の歴史を完全に無視しているという指摘ができ、人間以外の動物では圧倒的にメス側に選択権があることを根拠に、進化論上、祖先が生物ではあるが人間でなかった頃のことを含めれば膨大な男性差別史があることを指摘した場合には、それは飛躍または極論であるという判断がされた。


 飛躍であるだとか、極論であるという指摘を受け入れないことは、即座に理解というプロセスを省略しているという理解ができ、つまり何が理解であり何が理解ではないかを分別することができた。それでも文句を言う場合には撲することができた。


 男女は徹底的に平等であるべきだが、女性扱いしないというのはそれと並立した重罪であった。まっとうな男であれば、どちらも両立させることができるのだった。一方、男性を男性扱いをしない女性というのは、適切で勇気ある行動を取る者であった。弱気な女性は抑圧の被害者であった。弱気な男性は、ウジウジという言葉で言い換えた後に男性扱いをしないでやることで、反省を促され感謝するはずであった。


 拳による鉄拳制裁は、その痛みは本人には辛辣に伝達されるべきだったが、それを見る周囲までもが痛みを感じてはならなかった。周囲はそれこそ、男はハリセンで殴られたようなものと感じる必要があった。痛みはなく、哀れさと情けなさと喜劇だけがそこにあり、残虐さはあってはならなかった。そこに象徴されるものは、より正確にはハリセンですらなく、男女混合名簿のほうがより近かった。女が男女混合名簿で男の後頭部をスパーンと叩くと、男が大仰に前に倒れる、これが女性が背負った歴史を解消する人のあるべき形であった。

 男女混合名簿は、順序性への拘泥から脱却した、ジャンヌ・ダルクの旗印であった。なので、この小説がリア充破砕男から始まり変態撲殺女と交代で進んでいくシステムであること自体にも変態撲殺女は批判的であるとともに被害者意識を持っていた。


 男性が歴史上背負っている荷物については存在しないこととなった。もしくは、その存在を認めたとしても、男性として生まれた以上、それは誇りに思いつつ磨きをかけて当然であった。女性として生まれた以上何かをしなければならない、という主張については見かけた瞬間にその差別性を指摘することができた。


 より端的には、女性には専業主婦と会社員は選択できなくてはならなかった。会社員を選択した場合には待遇が数値化しやすいため、それは先端的なフェミニズムと親和性がよく、その幾多の指摘の真実性にはほとんど疑う余地はなかった。

 ただ男性が専業主夫を選択しようとした場合には、まず逃避ではないかという検証を経なければならなかった。男性の場合には、会社員以上に、その計画性について、プレゼンテーションソフトでグラフなどを作図した上で説明できなくてはいけなかった。

 女性側はその必要はなく、必要ない理由は伝統と歴史であった。歴史を全般には批判しつつ、擁護に必要な歴史については支持された。


「甘え」という言葉は万能語であった。女が男を、この「甘え」という単語を使って叱責する時、それは内容を問わず的確であった。

 男が女を、同様に叱責する時、それは内容を問わず暴虐であった。それは男女の生理的な腕力差が、一方向のみを脅迫たらしめるという、一方向からの解釈であった。天は人の上に人を作らないが、男の上に女を作ることは健全な社会のためには例外であった。


 結局は、全ての要素を包含した「総合的理解」によって、細部の問題はことごとく駆逐することができた。戦艦は戦闘的な言葉であったが、戦闘しているのは男性のみであり、女性側は防衛もしくは応戦もしくは指摘もしくは批判もしくは喝破をしているだけであった。


 そうやって変態撲殺女は撲し続けていたが、いつか一線を越える日がやってきた。

 変態撲殺女にとって、撲することは、単にタンコブができることであった。

 タンコブとは、精神的に未成熟な悪ガキが日曜夜のアニメなどで叱責されてこさえるものであった。

 悪ガキという単語が、男子を連想しがちである点は変態撲殺女にとって有利な事実であり、変態撲殺女はそれを歓迎し放置した。


 しかし、ある時からその拳には、わずかに赤いものが付着するようになった。それはリア充破砕男と同様であった。赤いもの、という表現が二番手で体験されること自体も大変な不満であった。


 しかしその赤さは、その正体を見いだされなくてはならなかった。見いだすためには、より強く撲す必要があった。うっすらと血が混じるという状態は、鮮血が飛び出す究極目標に向かって日々カイゼンされるべきであった。このようなカイゼンへの努力は、たゆまぬ努力であって、それに反対方向の努力は「しつこい」という評価を与えればよかった。


 実際に鮮血が飛び出すと、それは血糊を仕込みすぎたB級ホラーにしかならないため、そこまで達することはなかった。ただその赤さが一定のレベルまで到達したとき、被害者は――といっても変態撲殺女にしてみれば加害者で変態であるが――は、再び立ち上がらないようになった。


 死んだのか、という判定は難しかった。というのは、判定するにはそこに留まる必要があったからである。張り倒した瞬間に死が自明であるためには、あまりにも鍛え方が連続的でありすぎた。

 

 そんな理由から、その男の、その変態の生死はシュレディンガー的であった。


 前回までの偶数章では、何度もまだ撲殺をしていない旨を書いた。


 だが、この瞬間から、単なる変態撲女なのか、変態撲殺女なのかもシュレディンガー的となった。


 その状態を脱するには、被害者のところに立ち戻り、生死を確認する方法を取らず、日々先進的に行動を起こしてゆくというやり方である限りは、いくらこれから殺さなかったとしても無駄であった。人をひとり、確実に殺さない限り、脱出は不可能であった。

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