第十話 おれ

「せめてパンツくらい履いたら」

 聡子は制服のスカートの位置を調整しながら、非難めいた一言を投げ掛ける。

 いや、これでいい。射精後の虚脱感のせいで、声を出すのも煩わしい。喉も乾いた。聡子を無視して、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターとお茶。気の利いたものなんて何一つ無い。貧乏な家だ。舌打ちしつつもミネラルウォーターを取りだし、らっぱ飲みする。聡子は何か言いたそうだったが、構うまい。

 きい。錆びた蝶番が静寂を破る。

「うそ」聡子の顔が蒼白になる。

 聡子、早すぎる、と思ったか。いや、おれは予想通りだ。というよりも、いつ来ても殺す気概でいた。

「お邪魔してまーす」

「誰や?」

「聡子ちゃんの彼氏でーす」

「あ?」

 凄んでいる。ふふ、我ながら、滑稽な絵だ。帰宅した父親に相対しているのは、全裸の男なのだ。聡子は、隅で小さく震えている。

 オヤジが、どたどたと廊下を歩いてくる。そしておれの目と鼻の先に立った。

「おい、舐めてんのか」

 この距離まで詰めてなお、威嚇。大したことないな。

「おまえの娘のマンコは、舐めさせて貰った」

 聡子の表情を窺いたかったが、獲物から目を切るほど馬鹿ではない。オヤジの右腕が動く。力任せの、テレフォンパンチだ。に、おれはそのテレフォンパンチを喰らう。

「おい、聡子」

 オヤジは聡子を怒鳴りつける。見ていないが、多分縮こまっているのだろう。

「痛ぇだろ、おっさん」

 油断しきっていた下顎に、掌底を叩き込む。風船が破裂するような音を立てた。ジャストミート。オヤジはたたらを踏む。脳を揺さぶるように打ったので、反撃は来ない。残り少なくなった髪を掴み、位置を入れ替える。頭部をコントロール下に置いたまま、膝を見舞う。身体をくの字に曲げ、オヤジは「うっ」と喘ぐ。悶絶しているところに、前蹴りで身体ごと台所にふき飛ばす。聡子の目の前を、バランスを失ったオヤジが転倒していく。

 起き上がったオヤジは、手に包丁を掴んでいた。。正当防衛を成立させるには、それなりの傷を負わなければならない。

「おっさん、そんなもん出したら、冗談じゃ済まないぜ」

 ──ここからが本番だ。おれは軽く跳ね、コンディションを確かめる。

「殺してやるよ」

「やってみろよ」

 オヤジは、包丁を振り、距離を詰めてきた。特別な訓練を受けないかぎり、刃物を持った人間は、それを振り回す。だ。野球の投手のように振られた手首を掴む。関節の逆方向に捻り上げる。完全に無力化した右腕だったが、まだ包丁を掴んだままだ。おれは手首をぎりぎりと絞りあげたまま、包丁で胸のあたりに線を引いた。若干のタイムラグののち、血液が流れ出す。

「さすがに、痛いな」

 だが、この傷も、このゲームに勝つためには必要なものだ。我慢だ、我慢。おれは捻り上げている右腕に、更なる負荷をかけた。

 ぱこん。

 間の抜けた音とともに、オヤジの関節が抜ける。手を離してやると、オヤジは脂汗を吹き出しながら、右手をかばって苦しんでいる。

 オヤジの背中に覆い被さり、首に腕を回した。裸絞めの態勢だ。こうなると、もう詰みだ。

 ここで初めて聡子に視線を送る。聡子は、床に座り込んだまま、こちらを凝視していた。

「さあ、殺れ」

 顎で包丁を指し示し、両腕に力を込め、オヤジの身体を仰け反らせる。

「あとは首でも肝臓でも、刺して殺すだけだ。心臓はやめておけ。肋骨に邪魔されるからな」

 聡子は動かない。

「どうした?こいつを殺すんだろ。おまえが刺して殺せ」

 おれが包丁を拾う選択肢は無かった。からおれの指紋が検出されたら、言い繕うのが面倒だ。ここは、聡子に刺して貰うのがてっとり早い。

「おい、こいつはまだ生きている。おれがこの腕を離したら、おまえは殺されるぞ。殺される前に殺れ!!」

 返事はなかったが、意を決して聡子は立ち上がった。

 そして、死体のように白くなった顔で、包丁を手に取った。

 。このゲーム、おれの、勝ちだ。

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