弑するニンフォマニア

ひどく背徳的ななにか

第一話 わたし

 寂れた街の駅前にある公営住宅、その4階にわたしの家がある。14歳の時に母と死別し、父と二人で暮らしてきた。

 自分で言うのも変な話だけれど、わたし、山上聡子やまがみさとこは物静かな高校生だ。他人と交流を持つよりは、本を読んでいるほうが好きだった。 

 わたしは、右目の瞳だけが外を向いている。いわゆる外斜視だった。それはわたしにとって許しがたい恥部であり、自分の顔を鏡で見るのも極力避けるし、他人に顔を見られるのも苦痛でならない。

 11月も残り僅かとなったある日、いつものように図書室で本を読んでいるわたしの向かい側の席に、誰かが座った。

「ツル……ゲーネフ?ロシアの人?」

 顔を上げると、机から身を乗り出して本の背表紙を覗いている男子がいた。クラスメイトの津村孝太つむらこうただった。突然の事だったので、わたしは「はい」と「うん」の間にある、茫漠とした返事をせざるを得なかった。そんな間抜けな返答だも、津村くんは意に介さなかった。

「山上さんは、本が好きなんだね」

「--はい」やっと上手く発音できた。

「教室でもずっと本を読んでいるよね。本ってそんなに面白い?」

 貼り付けたような笑顔をわたしに向けてくる。放っておいて欲しい。素直にそう思ったが、口に出す勇気はない。わたしはこういう人種には心底辟易していた。本を読んでいる人間は友達が少ない。友達が少ないことは悪いことだ。本を読むより楽しいことに誘わなければ--。そんな思考回路なのだろう。幼い頃からずっとそうだった。わたしがひとりで本を読むと、すかさず現実の世界に連れ戻そうとする人間が一定数存在する。はっきり言って迷惑だ。居ない者として扱われる方が、どんなに気が楽なことか。

「もしかして、邪魔しちゃったかな?」

 津村くんは相変わらずにこにことわたしに話しかける。どう追い払おうかわたしが決めあぐねていると、津村くんは急にわたしの腕をとり、椅子から引っ張り上げた。読んでいた本が音をたてて床に落下した。

「もうすぐ暗くなるし、家まで送ってあげるよ」

 足元から無数の毛虫が這い上がってくるような嫌悪感。夢中で腕を振り払うと、津村くんはきょとんとした顔でわたしを見つめていた。咄嗟に視線を外し、横を向く。

「ごめんなさい。わたし、人に触れられるのが苦手で……。本当にごめんなさい」

「おれの方こそごめんね。そんなに嫌がるとは思ってもみなかった」

 謝罪すべきでない場面で謝罪を口にしてしまった自分の卑屈さと、加害者であるにも関わらず--言葉とは裏腹に--へらへらと歪んでいる口元のせいで、わたしの目から悔し涙が出そうになる。

 さすがに気まずくなったのか、津村くんは「じゃあ、またあした」と驚くほど軽い挨拶を残して立ち去っていった。憤りを抑えながら、床に落ちたツルゲーネフの『はつ恋』を拾い上げる。津村くんに掴まれた腕が今になって痛みだす。同時に、わたしの脳は、沸き立つ感情には全く似つかわしくない化学物質を精製していた。

 ああ、だ。

 バソプレシン。性的興奮を司る脳内物質で、物心がついた時から、--わたしの好むと好まざるに関わらず--男性との身体的接触があると性的に興奮してしまう体質だった。

 わたしは、普通に生きたかった。

 堪えていたはずなのに。外斜視の瞳からは涙が零れ落ちた。

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