第七話 橇に乗って

 うーん。谷口先生……いや佐藤先生の離婚話を聞かされた俺は、ものすごく複雑な心境だった。


 宅配の間が一年空いてしまうと、イブのたった一日にいろいろなことが分かる。分かってしまう。そして、クリスマスイブだからと言って全てが喜ばしいことでできてるわけじゃないんだよな。

 でも。いろいろあっても、それを乗り越えていかないと明日が来ない。そして、俺のできることは歌を届けて楽しんでもらうことだけだ。それなら、今年も最後まで宅配をやり抜こう。


 俺を待ってる最後のお客さんは、俺のアパートの大家さん。森末もりすえさんだ。俺が張り紙しようとした時にすぐ見咎められ、あんまり変なことを始めないでくれって文句言われたんだよな。でも続けて、あんな怪しい張り紙じゃあ誰も申し込んでこないよって。かわいそうだから、あたしくらいは客になってやるよって言ってくれたんだ。


 いや、本当に大家さんはいい人だよ。ご主人をなくされて同じアパートの一階の部屋で一人暮らししてるけど、細かいことはごたくそ言わない。おおらかで、お人好しで、がらっぱち。家賃の滞納も、払える見通しさえあれば待ってくれる。古いアパートなのになかなか空き部屋が出ないのは、単に家賃が安いからだけじゃないと思う。俺が感じているみたいに居心地が良くて、長く住み続けちゃうんだ。なんだかんだ言って、俺も十数年ここにいるからなあ……。


 一階の101号室の前に立って、陽気に声を張り上げる。


「メリークリスマス! サンタが、歌のお届けにあがりました!」


 すぐにドアがばたんと開いて、少しおめかしした大家さんがひょいと顔を出した。


「はっはっは。惣ちゃん、今年も来たね。待ってたよ」

「相も変わらずのヘボサンタですが、ご容赦ください」

「いやいや。他はもう全部回ったのかい?」

「ええ。大家さんで最後です。今年最後の宅配ですね」

「お疲れさん。まあ、上がって」

「はい! おじゃまします」


 大家さんの部屋の中は、いつもは俺のところと大差がない。狭い部屋の中にごちゃごちゃと物があふれ、その隙間で窮屈そうに暮らしてるって感じだ。それが……金指さんのところほどじゃないけど、かなり片付いてる。どうしたんだろう?


 俺が部屋を見回して首を傾げたのを見て、大家さんが苦笑を漏らした。


「こら。オトメの部屋をじろじろ見るもんじゃないよ」

「あ、すみません」

「それより、歌を聴きたい」

「そうですね。去年と同じでいいですね?」

「ああ。あたしは、それで固定だよ」

「スレイライド……ですね」

「そう」


 邦題は『橇に乗って』だ。でも大家さんから、もともと向こうさんの歌なんだから、そんな風に歌ってくれと注文を受けている。細かいことには一切こだわらない大家さんにしては、珍しい注文なんだよね。


 日本語の曲だってなかなか歌いこなせないのに、横文字の歌詞をこなすのは正直きつい。でも、大家さんの注文はいつも同じだから、五年の間に少しずつ慣れてきた。最初はどうしようもなく噛み噛みで、聞かせるのが申し訳なかったんだけど、ちょっとだけマシになったと思う。


 曲のアレンジも、少しずつ明るいアップテンポなものに変えてきた。歌に振り回される感が消えて、俺も楽しく歌えるようになってきたかなと思う。


 さて、じゃあ始めようかな。


「じゃあ、行きますね」

「お願いね」


 座卓の上の小さなクリスマスツリーのイルミ。大家さんがそのスイッチを入れて、部屋の明かりを落とした。イルミがちかちかときらびやかに光り始めた。俺が前奏を弾くのに合わせて、大家さんが手にした小さな鈴を振ってる。しゃん! しゃん! ああ、本当にサンタがソリに乗って来そうだよ。うーん、いいムードだなあ。


 リズムに合わせて体を揺らしながら、跳ねるように歌う。目を細めた大家さんがひっきりなしに鈴を振る。しゃん! しゃん!


 三分はあっという間に過ぎて。最後にじゃんとかき鳴らした弦が静かに無音に戻った。


「うーん、いいねえ。やっぱり、惣ちゃんの歌を聴かんと一年が締まらないわ」

「わははっ! 私自身も、イブの宅配はもう生活の一部。しないってのは、もう考えられないです」

「それはそうと、最初の年からお客さんは増えたんかい?」

「いやあ、大家さんを含めて最初の六人で固定です。私の腕前じゃ、そんなにいっぱいこなせませんよ」

「ふうん……」

「それに」

「うん」


 俺は、手にしたギターをじっと見下ろす。


「歌を届けることよりも、もっと大事なことがあったんだなあと気付いて。それなら、単純にもっといっぱい届けたいってことにはならないんです」

「もっと大事なこと、かあ」

「はい。その日に、私がお客さんと一緒にいること。出来損ないであっても、そこにサンタがいること」

「うん」

「それなら、最初の六人で限界なんですよ。時間の問題じゃなくて、私自身が一緒にいる意味を考えて、いろいろ工夫しないとならないから」

「なるほどねえ」


 大家さんは、部屋の明かりを点けてもう一度座り直した。


「まあ……あたしも、惣ちゃんの歌にはずいぶん元気をもらったよ。ダンナがおっちんでから、あたしゃクリスマスが嫌いになったんだ。どこもかしこもみんなでわいわい楽しそうにしてるのに、あたしはなんで独りなんだろうってね」


 うん……やっぱりか。


「スレイライドは、死んだダンナが大好きだったんだ。当時としちゃあモダンな人でね。クリスマスにはビングクロスビーやシナトラのドーナツ盤をでかい音で鳴らして、いつも悦に入っていた。あたしは、そういうダンナを見るのが大好きだった」

「そうですか……」

「ダンナと死に別れてからは、この日どこにでも流れるクリスマスソングが大嫌いになった。寂しくて。寂しくて寂しくて。あたしの部屋にだけ、クリスマスソングがない。入って来てくれない。ダンナの流すあの音が……ない」


 しゃん。小さく鈴を振った大家さんが、かすかに微笑んだ。


「でも、歌が……スレイライドが戻ってきたよ。あたしの部屋に。それが、とんでもなく嬉しかったんだ。だから、惣ちゃんにはすごく感謝してる。ありがとう」


 深々と頭を下げられて、俺はぐっと来る。


「いや……大家さんにお客さんになってもらわなかったら、私の宅配は最初から頓挫してたかもしれませんから。お礼を言うのは私の方です」

「はっはっは! まあ、お互い様ってことか」


 大家さんが、からっと笑って。俺は、ほっとする。と。そこまでは良かったんだ。毎年予約を入れてくれる六人のお客さんに、今年も無事に歌を届けて、宅配は無事に終了したから。でも、今年はとんでもない続きがあった。


 にこにこしながらじっと俺を見ていた大家さんの顔から急に笑みが消えて、大家さんがすっと俯いた。


「?」

「なあ、惣ちゃん」

「はい?」

「惣ちゃんには大変申し訳ないんだけど」

「え?」

「ここを。このアパートを。畳むことにした」

「えええーーーっ!?」


 青天の霹靂。それは、純ちゃんのトンデモ発言や佐藤先生の離婚暴露の規模を数百倍、数千倍上回る、ギガトン級の衝撃だった。


「そ……んな」

「いや、前からどっかで踏ん切らなきゃならなかったんだけどさ。ここは、あたしがダンナと一緒に始めたとこだ。ダンナが死んでも、あたしが元気なうちはずっと続けるつもりだった」

「ええ」

「でも、あたしには子供がいない。何かあったら、その時点でここが宙に浮く。ここがまだ新しいところなら、誰かがここを活かしてくれりゃいいことなんだけど、もう」


 大家さんがやり切れなさを全開で、現状を無理やり言葉にした。


「付け焼き刃の補修じゃどうにもならないほど、老朽化がひどくなってるんだ。この前、消防の点検でもうるさく言われたし、耐震の方も基準値大きく割ってる」

「う」

「あたしのことだけで済めばいいよ。でも、万一他の人たちに何かあったら、あたしゃ責任が取れない」


 ゆっくり首を左右に振った大家さんが、か細い溜息と共に俺に通告した。


「年が明けたら、取り壊しのスケジュールが動きだす。できるだけ早く、次のアパート探してね。申し訳ない」


 最後の最後に、そんなとんでもないプレゼントが降ってくるとは思わなかった。でも、現実は現実として厳然とある。俺は、これまで四の五の言わずにずっと住まわせてくれた大家さんに、どこまでも感謝しないとならないんだろう。


 それでも俺は、半ば放心状態だった。


「分かり……ました」

「済まないね」


 俺は、どうにもやり切れない気持ちを抱えたまま。とぼとぼと自室に引き上げた。



BGM:Sleigh Ride (Helene Fischer)

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