結
4――サキュバスよりも腹黒い(前)
4.
愉本の正念場は続いた。
忠岡の前で派手に
定時を過ぎ、残業を終えた所員らが退勤してからも、愉本は研究室にしがみつく。
(も~ちょっとで加害者の血液を抽出できるのよ~……それさえ叶えば、DNA鑑定で逮捕状も取れるはず~!)
犯人単独の血痕が採取できれば、ゆるがぬ証拠となるはずだ。
被害者の血が混じっていたせいで正しい鑑定が行えなかった事例は、昔の事件でもままある。例えばA型とB型の血が混じってAB型だと誤診する初歩的な失態など、現代では笑い話レベルだが、実際にあったそうだ。
遺伝子の解析でも、他人のDNAパターンと混濁して読み取れない前例は多い。
「やァ華恋、苦労しているみたいだねェ」
「……あ~ら、悦地クン。まだ残っていたの~? って人のこと言えないけど」
不意に声をかける者が居た。
馴れ馴れしく彼女を下の名で呼んだ男性は、同僚の悦地憩だ。
第二法医科法医第二係でともに働く、公私ともに付き合いのある研究員。
時計を見ると、すでに終電の時間は過ぎていた。一人で追い込みを続ける愉本だが、まさか彼も居残っていたとは露にも思わず、むしろこんな時間まで悦地は何をしていたのだろうと疑問を抱く。
「なァに、ボクはボクで仕事が山積みなんでねェ。実はここんとこ休日にナンパした女の子たちに引っ張りだこだったから、仕事が手に付かなかったのさァ」
悦地は自嘲した。その割に微塵も悪びれてはいなかったが。モテる男はつらいねェなどと自虐風の自慢をしているだけかも知れない。
ともあれ、そんなのは口実だ。悦地は明らかに、愉本を意識して話しかけた。でなければ、血眼で集中する彼女の手を休めるような無粋な介入をするはずがない。
「それで、何の用~? アタシは今、修羅場で忙し~んだけど?」
「あまり根を詰め過ぎるのは体に毒だよォ? 一人じゃ限界も近いだろォに」
肩に手を置かれる。
機材と顕微鏡で血痕の分離を確認していた愉本だったが、悦地の精悍な手付きと野性的な声色はとても甘美で、誘惑されそうになった。
悦地はインキュバスだ。男性の淫魔だ。彼とはセックス・フレンドでもあるから、触れただけで体がうずく。下腹部がよがる。血肉が、遺伝子が、求めてしまう。
「駄~目よ、今はお仕事中なのに~」
「違う、そォじゃない」
ぐい、と悦地は愉本の体を向き直らせた。
彼女の肩に手を置いたのも、正面を振り向かせるためだ。夜中の研究室、誰も残っていない静寂の中、二人きりで見つめ合ったら、どう考えても性の勧誘にしか思えないが、それでも彼は違うと述べた。
「ボクも手伝おォか? いや、手伝いたいんだ」
「はぁ~?」
思ってもみない提案だった。
愉本はたまらずまぶたを見開く。しかしどんなに凝視しても、悦地の表情は真面目で、真剣で、真摯だった。真顔である。
「キミがいつまでも四苦八苦しているのを見ていられないのさァ……困っているレディに救いの手を差し伸べないのは、紳士としてあるまじき醜態だろォ?」
「え~と……本当にい~の?」
愉本は確認せずに居られない。
自分で自分を紳士と称してしまうナルシストに苦笑しつつ、未だかつてない申し出に戸惑いを隠せなかった。
悦地は怜悧な決め顔を維持したまま、彼女を見つめる。口を開けば、美形特有の白い歯がキラリと光る演出付きだ。
「血液検査はボクの方が得意だろォ? いつまでもてこずっているキミの姿が、もォ見ていられないのさァ。過去に囚われ、縛られ、ボクと寝たあとでもすぐ出勤してしまう……ボクのプライドが傷付くんだよねェ。ボク以外の男のことを考えるんじゃなァい!」
「あら~。それって嫉妬?」
「あァ、嫉妬さ!」まさかの肯定。「ボクはキミの元カレにヤキモチを焼いているんだよォ! 死してなおキミの心を束縛し続ける亡霊! 思い出と言う名の呪縛! ボクは許せない、認めない、見過ごせない! 全ての女はボクのモノだ、他の男に渡すものか!」
傲岸不遜なエゴイズムだったが、悦地の主張は伝わった。
彼はインキュバスだ、稀代のナンパ師だ。自分がオスの頂点だと信じ切っている。
翻って愉本は、別人の影を引きずっている。そんなの、悦地は看過できない。
なるほど、嫉妬だ。歪んだ独占欲だ。
「情熱的な愛の告白、ど~もありがと~。でも、アタシなんかにそこまで入れ込む価値なんて、あるのかしら~?」
「あるさ」
抱き寄せる悦地がたくましかった。
深夜の抱擁は、とても温かい。人肌に触れることで安心感も湧いた。相変わらず異性をなびかせるのがうまい。あだ名の『エッチ休憩』は折り紙付きだ。
「セフレではなく、一人の男として言おォ。昔の男なんて忘れろ。ボクが過去の穴埋めをしよォじゃないか。ボクがキミの支えになる。それが同僚として、当然の責務だろォ?」
「きゃ~、まるで交際の申し込みみたいね~」
「だとしたら、駄目かィ?」
「またまた~。ま、悪い気はしないとだけ言っておくわ~」
彼の腕の中で、愉本は余裕ぶった。動じていない演技をした。
一応の受け入れ姿勢を取ったことで、悦地は手を放してくれる。本当はお互い戸惑っていたのかも知れないが、平静を装って屹立する。
これは、悦地なりの愛情表現。
だから愉本も、こう答えた。
「事件を解決できたら、真面目な交際も考えてあげるわよ~」
「ふっ。なら話は早いねェ」
悦地は白衣を翻した。
二人並んでサンプルと対峙する。あと一息なのだ。彼の助力があれば大幅な時間短縮と能率化が図れるだろう。
「血液の抽出はボクがやってしまおォ。キミは今のうちにDNA鑑定の準備をして、小休憩と仮眠をとるといィ。働き詰めは体に毒だ」
「お腹もすいたから食事もしたいわね~」
「どォぞ。DNA鑑定方法はもう決めてあるのかィ?」
「マルチプレックスSTR法よ~。遺伝子の特定領域において、DNAを構成する塩基サイクルを『反復数』と言うのは知っているわよね~? その反復数には個体差があるから~、そこから個人を識別するのよ~」
すでに憶寺懲ノ介のDNAはデータベース化されている。あとは血液から採取したDNAの塩基反復数を照合するだけで事は済む。照合も機械が自動的にしてくれる――。
――RRRR。
「あら~? こんな時間に電話?」
――休もうとした矢先、横やりが入った。
深夜だというのに職場へ電話するなんて、どこの非常識だろう。しかも当直勤務ではなく研究室へ直接電話している。たまたま愉悦ペアが居たから対応できるが……それともこのペアが居るのを知った上で電話しているのか?
「もしも~し? どちら様ですか~?」
『実ヶ丘署の徳憲です、お疲れ様です』
「あ~ら徳憲クン、ど~したの? ひょっとして夜のお誘いかしら~?」
『違います』にべもない徳憲。『やっぱりまだ科捜研に居たんですね。泊まりですか?』
「そのつもりよ~。あとちょっとで加害者のDNAを暴けそ~よ」
『実は、そのことなんですが……』
とてつもなく言いづらそうに、徳憲が言葉を選んでいるのを愉本は察した。
逡巡している。何だろう? 夜中に電話するほどの異常事態が発生したのか? だとしたら、どんな?
『実はですね……別ルートから事件の真犯人をあぶり出せたので、ええと、逮捕できたんですよ。DNA鑑定とは関係なく』
…………。
長い沈黙が支配した。
時間が止まったように、愉本はしばし微動だに出来なかった。
「は?」
暫時あって、やっとの思いで声を絞り出す。
真犯人?
逮捕?
犯人は憶寺ではなかったのか?
異変に気付いた悦地も、引き継いだ機材から顔を離して、愉本を思案げに眺めている。
そんな拍子抜けを知る由もなく、徳憲は淡々と結果だけを告げて行く。
『ですから、DNA鑑定もやらなくて結構ですよ』
「はああああ~~~~~~~~っ?」
徳憲が何を言っているのが判らなかった。
愉本も、何をされたのか判らなかった。
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