第6話 偽善

 海斗が帰宅した頃、既に時計の針は午後の8時を指していた。

 予期せぬ戦いの後なので腹は空いていないが、疲弊から妙な浮遊感が体を蝕んでいた。

「お兄ちゃんこれ。飲むでしょ?」

 狭苦しいリビングで濡れた体を拭いていると、冷えた体を労わってコーヒーを出してきたのは妹の柚葉だ。

 「ああ。ありがとな」

 タオルを首元にかけ、陶器のカップを受取ると、それをふーふー冷ましてゆっくり口に含んだ。口の中の切れた所が少ししみたが、それでもほっと一息。一台だけあるソファに腰を下ろし、先刻の事に関して思案した。

 すると、そんな兄の心境を案じたのか、

 「犯罪はなくならないね」

 柚葉は虚ろな目を向け、ぽつりと言った。

 

 現代の日本で、獣人による犯罪率が低くないのは、言わずと知れた事実だ。テレビをつければ毎日のように『暴行』『強姦』『殺人』と、顔を伏せたくなるような単語が画面に映しだされる。あのオオカミ男も数ある事件の中の一件。

人を殺す為に生まれた獣人という兵器は、戦いがなくってしまった現在、己の存在価値を見失ってしまった。彼らは日々自分が何のために生きているのかが分からず、とうとう人を殺して自らがその真意を追及しようとしているのだ。

 戦争が終わり、行動目的を失った獣人という名の兵器。彼らもまた、ある意味では被害者なのかもしれない。ともあれ犯罪を正当化するつもりなど、海斗には微塵もないのだが。

 「あの、シャワーありがとうございました。あと服も……」

 様々な思いから拳をぎゅっと握ったその時、弱弱しい声音と共に取り付けの悪いドアがギーっと音を立てて開いた。

 「湯加減大丈夫だった? あと服はごめんね、さすがに私の服じゃ小さいし、今日はそれで我慢してもらうことになるんだけど」

 「いえいえそんな。貸してもらえるだけでありがたいことなのにお風呂まで貸していただいて」

 すぐに駆け寄る柚葉と話すのは、湯気に顔を赤らめ色気を増す、麗しい金髪を持つ美女だった。闇の中ローブ一枚でもその美しさは健在だったが、Tシャツとショートパンツに着替えた今、その美しさにはより拍車がかかっている。

 ローブ姿の時は分からなかったが、声の儚さと同じく彼女の身体のラインはとても洗練されたものだった。華奢ではあるものの、それでも出るところは出ていると言った感じで、まだ幼い柚葉より遥かに女性としての成長を見受けることが出来る。

 そんな絶世の美女に目を奪われるも、海斗は太ももの辺りを両手で一度叩き、ソファの上から腰を上げた。助けてしまった手前今日はもう遅いから泊まらせてやろうと思うが、それ以上の慣れ合いは必要もないだろう。男一人この場所は少し気まずいし、後は柚葉に任せて自分は自室へ戻ろう。

 「あの……」

が、足を進める前に、金髪碧眼の彼女は思い出したかのようにはっとして海斗を見る。それから柔らかな唇をもごもごとさせ、 

「ありがとうございました。さっきはその……助けてくれて」

滑らかな金髪を垂らして、頭を下げた。

不意に訪れる沈黙と彼女のかしこまった感じが妙に歯がゆくて、海斗は「ああ」とだけ返事を返す。わざとらしく彼女から目を逸らし、首元を掻きながら再び自室へ行こうとすると、

「痛っ……」

脳天にささやかな衝撃が下りてきて、目を顰めた。後頭部を手で擦りつつ、頭だけで振り向いてみると、

 「お兄ちゃん素っ気なさすぎ。自分だって助けてもらったんだから、ちゃんとお礼言わなきゃダメ」

 そこにいたのは手を腰にあて、頬をむくらせる柚葉だった。

 そんな妹の催促に海斗は仕方なく肩を落すと、揺れる碧眼に目を向ける。恥ずかし気にこめかみのあたりを指でかき、視線をうろちょろさせながら、

 「あの時はその……。ありがとな」

 狼男を海斗が止めたことで最終的に事はおさめられたものの、あの場で彼女が間に入っていなかったら、きっと結果は変わっていたと思う。もしかしたら急所をつかれ、瀕死の重傷を負った可能性だってあるのだ。

 「いや……。そんな、私は何もしてないです……ただ、夢中で……実際は何もできなくて助けてもらっちゃいましたし」

 必死に体の前で細い腕をわたわたさせる彼女だったが、己の非力さに言葉の後半は声をしぼめていた。

 「ううん。普通だったら何もできなくて卒倒しちゃうよ。私からもお礼を言っておくね。ありがとう」

 「そんな……私はただ」

 助け舟を出すかのように柚葉が称賛すると、謙遜を貫きつつあった彼女は碧眼を細かく揺らし、流し目で少し笑んだ。が、すぐに朗らかな表情を消すと、澄み切った碧眼を険しくし、

 「じゃあ、私もう行きます。着替え……ありがとうございました」

 言って、完成しかけていた和やかな空気を払拭してしまった。

 「え? もう行っちゃうの? というか、こんな時間に外に出たら危険だし。さっきもあんな怖い目にあったんだから、今日くらい止まっていきなよ」 

せかせかと玄関口に向か会おうとする彼女の腕を掴み、柚葉が当惑気味に呼び止めるも、

 「いえ、けど……ほんと、悪いですし……」

 と、彼女は声のトーンを一段落した。その目はとても切なげで、憂いの色に塗られていた。

 海斗はそんな二人のやり取りを見ているだけで、特に口を挟むようなことはしない。別に出ていくなら出て言ったで構わないし、逆にこちらが止める権利だってないのだ。要するに、どうでもいい。

なのだが、正義感が強い妹は、海斗とは違う考えを持っているらしく、

「悪いだなんて……」

柚葉は言いながら、横目でちらりと海斗を見る。何かを求めての事だとは否が応でも分かるが、海斗はその訴えるような視線をさらっと流し、気まずさから頭の裏を掻いてみる。

 兄のそんな態度を都合よく解釈したのか、柚葉は「ほらね」と、言葉を繋ぎ

 「全然大丈夫だから。内は狭いけど3人くらいなら全然気にすることないし、それに……」

 心から申し訳なさそうに、柚葉はそこで言葉を切った。肩上まで伸ばした茶髪を指先で弄びつつ、その先を言っていいものかと逡巡している。

 海斗もこれには苦笑い。そんな妹の姿を見ているのがどうも落ち着かなくなり、

 「あんた行くとこあるのか?」

 淡々とした口調で、会話の続きを引き継いだ。

 「もう、今私が訊こうと思ってたのに!」

 凄く恥ずかしそうにしながらも、柚葉は唇を尖らせぷりぷりして起こりだした  が、海斗は「わかったわかった」と、そんな妹を軽くあしらう。だったらお前に任せたよと、柚葉にこの先を託すが、

 「心配してくれるのはありがたいです。けど、私は大丈夫ですから」

 金髪の彼女が口を開く方が、ほんの少しだけ先だった。無理をしている、誰でも容易にそう断言できるほど心細い声音だ。しかし、そんな吹けば飛びそうな彼女の返答が、海斗と柚葉の予想を決定付ているのもまた、否定しがたい事実だった。

 「お兄ちゃん、やっぱり、このこ、行くところないんじゃ……」

 柚葉が耳元で囁く。

 ローブ一枚という格好の時点で感ずいてはいたが、おそらく彼女は海斗たちと同じ戦争孤児だ。戦後10年経っても、その人口は衰えを知らず、未だに職にもつけずたいした食事も得られない人間が山のようにいる。

 柚葉は自分達と同じ境遇に立たされている彼女の事を、放っておけないのだろう。

「じゃ、すみません。私は先を急ぐので……った……」

柚葉の好意をかいくぐるが如くその場から立ち去ろうとする彼女だったが、踵を返した途端、顔を顰めてうずくまった。急なことに柚葉は目を見開き、

「ちょっと、凄く腫れてるじゃない」

 顔を顰め驚きを露わにする。

 見てみると、彼女の左腕のあたりが光沢を放ちながらパンパンに腫れ、青黒く内出血していた。今まで我慢出来ていた事が信じられないくらいの、重症だ。幹部を押さえ必死に微笑まんとしているが、彼女の額にはべったりと激痛の汗が噴き出している。

「大丈夫ですから、これくらい」

彼女は海斗を見ていない。

 だが、今の言葉が自分に向けられているものだという事を、海斗自身、無視するなどできる筈がなかった。

 彼女は、海斗と狼男の間に割って入ってきたあの時、突き飛ばされて地面に腕をついたのだ。それはもはや、海斗の失態。

 「よいしょ。ほら、全然大丈夫でしょ?」

 ぎこちない動作で立ち上がりながらも、変わらない笑みを浮かべる彼女にとうとう海斗も――。

 「怪我が治るまでここにいろって。それじゃあろくに歩けもしねえだろ」

 ここに居座るべきだということを、自発的に促した。

 「え? いきなりどうしたのお兄ちゃん」

 「俺が人に優しくしたら可笑しいかよ」

 言い方さえ素っ気なかったものの、柚葉は兄の対応には満更でもないらしい。家の主の許可を得たことで枷がなくなったのか、口元をにんまりとさせて、

 「そうだよそうだよ! そんな足じゃ無理だって!」

 追い打ちをかけるような説得を始めた。

 ここまで人の懐に踏み込もうとする柚葉は珍しい。相手が怪我している件はおいて置いても、自分たちと似たような生い立ちの彼女に親近感以上の何かを感じたのかもしれない。身を打ってまで海斗を助けに走ったという点にも、好感を持っているのだろう。

 「いや……でも……」

 それでも彼女は、当惑の姿勢を崩さなかった。華奢な肩を狭めて縮こまっている姿は、まるで人の好意を怖がっているようにも見える。

 そして、沈黙は鳴る。

 どこまでも頑なな態度に、海斗はある一つの可能性を思い出し、否、今まで見て見ぬふりをしていた懸念を手繰り寄せる。

 彼女は自分たちにかけられた呪いについて、本心ではどう思っているのだろう。所見で怯えなかった為あまり深くは考えないようにしていたが、やはり気になる。人間などは所詮心の奥底では何を考えているのか分からない生き物だ。内心では獣人の二人に怯えていて、すぐにでもこの場から去りたいというのが本音かもしれない。

 手を組み願うような瞳で答えを待っている柚葉には悪いが、怖がっている相手に何かを強制することは出来ない。海斗はこれから言うべきことを一度口の中で咀嚼し、

 「知っての通り、俺たちは獣人だ。世間からは嫉め嫌われてるし、あんたをさっき襲った男とおんなじ兵器だ」

 潔く言い放った。

 「ちょっとお兄ちゃん、いきなり何言いだすのよ」

 「いいからお前黙ってろ」

 柚葉は相好を崩しつつ、身勝手に語る兄に横やりを入れるも、海斗の真剣な顔つきに臆し、ついには口を結ぶ。

 そして海斗は言葉を続けようとした。獣人が怖いのであれば仕方ないと。ここから一秒でも出ていきたいであろう彼女の背中を押してやろうと。言葉を紡ごうとした。

 ――――

 が、海斗の感情の波を押しとどめたのは、彼女の何ら嘘偽りのない無垢な声音だった。

 「いえ、そんなことは関係なくて、ただ、お二人にご迷惑をかけたくなくて……私としてもできるなら少しの間おいてもらえるとありがたいんですが、本当によろしいんですか?」

 拍子抜けもいいところだ。彼女は獣人を怖がるどころか、獣人にかかる迷惑を危惧していた。事実、そんなに簡単な話ではない。会話するだけならともかく、同じ屋根の下で一晩でも暮らそうなど、常人なら決して考えない事だ。

「もちろんだよ! 迷惑なんかないって! うち狭いけど一人増えるくらいじゃ潰れないから」

 押し黙る海斗を他所に、嬉々として軽口を叩く柚葉。まずは怪我の処置だと救急箱を探し出すも、思い出したように彼女を見据え、

 「そういえば自己紹介がまだだったわね。私は柚葉。こっちがお兄ちゃんの海斗」

 「柚葉に、海斗……。私の名前はユニ。少しの間、よろしく」

                   

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