第2話 嘘

 年齢二十歳。無職。

 そんな肩書に苦笑いしつつ、海斗は洗面台で顔を洗いながら、今しがた職を失った悲痛に胸を沈めていた。

 明日の保証がなくなるというのは、何回経験しても慣れないものだ。それこそ、こんなことは慣れてしまっては元も子もないのだが。

 疲弊しきった体を伸ばし、首をぽきぽき鳴らす。水に濡れた顔をタオルで拭くと、取り付けの姿見に目を凝らした。

 そこに映っているのは、目つきが吊り上がった線の細い体格の青年。黒い短髪を無造作に散らした彼は表情に乏しく、そこに生気の色は無い。一言で言えば、冴えない男だ。

「お兄ちゃん何よこれ!」

 堕落している海斗に不意打ちを掛けるように、古びた木造の廊下を甲高い声が走った。

 背骨に針金を刺されたように背筋をピンと伸長させ、一瞬息を止める。嫌な予感が脳裏を駆け巡るも、気を落ち着かせるため一度深呼吸。それから何も心配することはないと自分にいい聞かせ毅然な表情を作ると、ゆっくりと立ち上がって、声のしたキッチンの方へすたすたと歩き始めた。

一歩踏み出すたびに床が軋み音を鳴らすが、そんなことは気にも留めない。住んでいるのが築50年のボロアパアートなのだから、これくらいの事はあって当然のことだ。

戸の前まで歩くと、額に浮かぶ汗を手の甲で払い中に入る。

「お兄ちゃん! 何か私に隠してるでしょ?」

 足を踏み入れた途端これだ。

 今目の前にいるのは、細い矮躯の前で腕を組み、問い詰めるような眼光をこちらに向ける一人の少女。

 彼女は柚葉といい、海斗の実の妹だ。東京エリア第六区に位置するこのボロアパートで一緒に暮らしていて、夕飯はいつも彼女が担当している。普段は人当たりのいい妹なのだが、どうやら今だけは虫の居所が悪いらしい。

 初雪のような純白の肌を紅潮させて、明らかな激昂状態にあった。華奢な体躯も心なしか大きく見え、肩上までの茶髪は怒りで逆立っているような錯覚さえしてしまう。

 予想した通りの展開に正直参るが、この場合まず何も心当たりがないふりをしておいた方がいい。海斗は心底訳が分からないと首を傾げ、大仰に目を細めて見せる。

 すると、兄のその反応にイラっとした柚葉はきつめに眉を寄せ、

「そうやってごまかすの辞めてよお兄ちゃんっ!」

 激昂状態から咆哮――。


 ――やばい、やっぱばれてる――。


 すぐさま行動目標をシフトチェンジ。寝起きの頭で、現状を打破する方法を必死に考え始めた。

 自分が職場を首になったのはつい数時間前だ。妹に心配をかけまいと敢えてそのことについては話さなかったのだが、どうしてばれたのだろう。

結局どうするべきか分からず黙りこくったまま相手の出方を伺っていると、柚葉は肩から掛けている花柄エプロンのポケットから、一枚の封筒を取り出すなり差し出してきた。

 それは紛れもなく、海斗が最後に会社から受け取った給料袋だった。自分が暴れたりでもしたら大変だと、元職場の責任者が大急ぎで海斗に包んでくれたのだ。

給料は毎月15日。今日はまだ8月の頭なので、それが今ここにあるのは明らかにおかしいのだ。

 「え? 何でそれを?」

 海斗は改めて自分が置かれている状況を整理するも、やはり分からず本心から驚嘆を露わにした。と、柚葉は呆れたようにため息をつき、

 「お兄ちゃん……。カバンのチャックが全開になってれば全部丸見えだよ?」

 「え? マジで?」

 まったく自分の凡ミスには、毎度腹が立つ。いつもの癖で作業着を洗濯に出したまま、カバンを閉めるのを忘れたのだ。

 「お兄ちゃん……」

 「…………」

 もはや逃れようもない。羞恥と情けなさが胸中に埋まり、言い逃れは出来なかった。

「お兄ちゃん! また仕事首になったんでしょ! 別に獣人が働いちゃいけないなんていう法律はないんだから、突っぱねちゃえばよかったんだよ!」

 怒りを露わにする柚葉の瞳には、澄んだ透明の液体が薄っすらと浮かんでいた。 それを見るのが辛くて、海斗はつい顔を伏せてしまう。こんなに悲し気な表情を見せられると、もともと口下手な海斗は、もうどうすればいいのか分からなくなってしまうのだ。

 何を隠そう、柚葉も海斗と同じ獣人だ。故に、彼女も今まで数えきれない程の差別を受けてきている。獣人であることが原因で職場を首になるなど、彼女にとっても他人事ではないのだ

 「いや、けど別に何も反論を返さなかった訳じゃ」

  腰が引けながらささやかな抵抗を試みるも、

 「嘘」

 そうだ嘘だと、妹の容赦ない批判にきつく唇を噛む。

 が、言いようによって何でも正当化できてしまう事を、海斗は誰よりも心得てもいた。伏せていた顔を上げ、いつものセリフを一度口内で咀嚼すると、


 「俺は誰とも争いたくないんだよ」


 かつて戦場の第一線で戦っていた海斗は、争いに対する恐ろしさを身をもって知っている。だがそれは柚葉にとって、現実から逃げる為の都合のいい使い文句でしかないらしく、

 「違う……。お兄ちゃんのはそうじゃない! ただ諦めてるだけ、何を言ってもダメだって、どうにもならないってあきらめてるんでしょ……」

 「それは……」

 海斗は下唇を噛んだ。

 柚葉の言う通り、自分は既に諦めている。獣人という差別の対象になった時点で、物事の本質について考えることを辞めてしまった。なるべくしてなった帰結として納得。大多数の普通の人間に攻められれば、ただそれに黙って従うのみ。いつの時代も、少数派は多数派に従って生きていかねばならないのだから。

「お兄ちゃん……」

言葉が出なかった。

こんな時海斗の口を伝うのは、便利で都合がいいだけの魔法の言葉。 

 

「ルールなんだ」


 この重みのないセリフを、ここ数年で何度口にしてきた事だろう?

 それから流れた数秒間の沈黙は、柚葉の顔つきを沈ませるのには十分過ぎる時間だった。

 「また戦争になればいいのよ」

 不意に鼓膜を撫でる声音に、海斗は体を硬直。沈黙がより深くなり、口の中には苦みが生まれる。顔から表情が抜け落ちていくのが、自分でも嫌なほど分かってしまった。

 それでも柚葉は止まらない。体に溜まった不満を爆発させるように、思いの丈を一気に吐き出す。

 「戦争がまた起これば昔みたいにお兄ちゃんはみんなのヒーローになれるのに。獣人だって今みたいな扱いを受けることだってないはずよ。全部世間が悪い。何もしてないのに私たちがなんで悪者にされなくちゃいけないのよ……」

 苦し紛れながらも、確かな意思の宿ったその言葉は、真っすぐに海斗の意識に沈んでいった。

 海斗は足元に目を落し、10年前の戦場を回想する。


 かつて日本国が落した一発の爆撃の影響で、50年以上続いていた戦争もようやく終止符を打つこととなった。

 その爆撃は一国の大都市を瞬く間に全焼させる程の、圧倒的で無慈悲な爆撃だった。その光景は、まさに惨状そのもの。


 そして、あらゆる国が異常な攻撃から避ける為、時を待たずして降伏の意を唱えたのだ。それから時を待たず日本は世界の新しい覇国となり、全190カ国と不可侵条約を結ぶ。この一連の流れにより、日本は世界的に見ても唯一戦争を行わない平和なの国へと成長したのだった。

 否応無しに戦争を終結させた爆撃は、地上に落されたあの日から今日にかけて、日本国を守るための抑止力として機能している。

 

 惨憺たる現場から目をつむり、海斗は勤めて穏やかな口調で、柚葉に諭していく。

 「柚。そんな悲しい事を言わないでくれ。あの戦争で失ったものは数えきれないんだ。人の命ってのはそんなに軽い物じゃない。だから、これで良かったんだよ。いつの時代も世の中の全てが肯定されるようになんてできてないのさ。否定するものがなくなれば、また人は否定するべき存在を捜す。その対象が自分なら、俺はそれでもかまわない」

 結果、軍縮が進み、海斗たち兵器は存在する理由を剥奪された。それを理由に獣人は人ならざる化け物として蔑みの対象となっているのだから、柚葉が発狂する気持ちも確かに分かる。

 しかし、だからと言って戦争は正当化していいものでは断じて無い。もう二度と繰り返してはならない。あんな血みどろの世界を見ているくらいなら、どんな理不尽にだって我慢できる。海斗は戦争を嫌悪する。どんな不平も、戦争に比べればずっとましだ。

 「けど……けど……」

 柚葉は言い淀む。自分の中の正義と悪が激しくぶつかり、どういい返せばいいのか分からないようだ。知識があれば何かに加えて反論を唱えることも出来るが、今の柚葉にはそれが欠落している。机上の空論を並べた所で、そこには何の説得力もないことは、この少女は幼いながらによく理解している。

 そして実際の所、柚葉は戦争を知らない。

 獣人は生まれてから数年間、国のとある研究機関で能力の使用方法や基本的な戦闘についてきっちりと教え込まれる。そして本格的に戦力として認められると同時に、晴れて戦の場へと繰り出されることになるのだが。幸か不幸か、柚葉が獣人として生を受けたまさにその年、長きにわたった戦争は有ろうことかとうとう終焉を迎えるに至ったのだ。

 死体の山を見ることもなく、人とは異なった生物として生まれ差別の対象にされる。考えてみれば、自分よりも幼いこの少女の方がよっぽどつらい境遇にあるのかもしれない。

 「お兄ちゃん、ごめん……私すごくよくないこと言った……」

 ずっとしどろもどろだった少女は気を落ち着けるよううんと長い吐息をつき、薄ピンクの柔らかな唇をきゅっと噛みしめ弁明する。

 海斗の心情を察してくれたようで――否、察したのではない。逃げ道のない強固な正論に囲まれ、柚葉は仕方なく降参の姿勢をとったのだと、海斗は推測する。小さな面輪にはでかでかと『納得できない』と書かれているようにも見えた。

 だとしても――これでいい。言及を続ける理由など、一ミリもないのだ。

 こういう事が起こるたび、二人は同じようなやり取りを繰り返している。

 柚葉が感情的になり、それを海斗が「理屈」で納める。

 本当の意味での解決などしていないのだが、今更それを望むのは難儀でしかない。

 「ああ。俺も黙っててごめんな。仕事はすぐに見つけるから」

 海斗が言うと、柚葉は務めたような笑顔を作り、

 「うん。じゃあご飯にしよ。今日はお兄ちゃんの好きな煮物だよ!」

 エプロンを締め直し、取り繕ったような鼻を謳いながら、夕飯の準備を始めた。

 そんな彼女の後ろ姿を見ながら、海斗は今日あったことを脳の片隅でじっくりと考えていた。


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