第33話

「ヤマブシ、ごときがっ」


 純は数歩分間合いを開き、猿の主が立ち上がるのを待った。目の前に這いつくばる、慣れ親しんだ仲間である左太郎の姿。しかしその中身はまるで異質の者だ。こちらを見上げるその目玉すら濁って見える。


「そちらこそ、サルごときがヒトに歯向かうだなんて」


 純はそう言って、かかとをアスファルトから離し、腰を落として低く構えた。軽く握りしめた拳をかすかに揺らしながら猿の主へと向ける。ヘッドセットの暗視補正された淡いグリーンの視界に、猿の主がようやく立ち上がったのが見えた。


 身長のある左太郎の優雅でしなやかな動きはどこにも見られなかった。目の前にあるのは、まだ二本の脚で地面を駆る事に慣れていない獣の姿だった。両腕をだらりと前に垂らし、沈めた腰でバランスを取るように身体を前後に揺らす。顎を引いた頭は、上目遣いするように強い視線をぶつけて来る。


 先に動いたのは猿の主だった。一瞬姿勢を落し、両腕を路面へ落として四つ脚で駆けるように頭から突進してくる。純はとっさに両肘を胸の前に持って来て、猿の主の頭がぶつかる瞬間に身体を浮かせてバックステップを踏んだ。


 予想していたよりも重い衝撃が純の両腕を痺れさせる。浮かせた身体はそのままの勢いで持ち上げられる。猿の主のやたら長い両腕が背後に伸びて、純は防護スーツごとがっちりと掴まれた。


 猿のすさまじい握力に背中の肉が防護スーツ越しに締め付けられるが、それでも純は冷静に反応する。身体は宙に浮いたまま、ガードした両肘をわずかに開いて猿の主の頭を挟み込む。猿の主の頭頂部で手を組み、目の前の顎に渾身の膝を突き上げた。


 防護スーツの補助動力が純の膝の挙動を感知し、その力と速度を増幅させる。顎を打ち抜かれた猿の主の頭は大きく後ろに反れたが、純は決して頭を離さなかった。膝の反動で揺らぐ猿の主を強引に引き込んで脇に抱える。右腕をしならせて喉元にしっかりと食い込ませ、宙に浮いた身体をそのまま背中から地面へと墜落させる。


 猿の主は頭を固定されたまま、剥き出しの顔面をアスファルトへと強く叩き付けられた。同じように純も背中を打ち付けたが、身体が落ちる勢いを利用して後転し、すぐさま片膝立ちで戦闘体勢を整えた。猿の主の身体は一度大きく跳ね返り、轢き殺されたカエルのように四肢を力なく伸ばして車道に突っ伏して動かなくなった。


「マキシさん、聞こえます?」


 猿の主が動かないのを確認して、純は立ち上がってゆっくりと間合いを取った。両腕を肩から力を抜いて少し揺らす。さっきの突進で受けた痺れが指先にまで達して感覚が失われている。


『どうした? スーツの数値的にはほとんどダメージはないぞ』


 ヘッドセット内に真樹士の声がこだまする。


「さすがサルのヌシ様ですよ。偽物のヌシなら今ので終わりですけど、まだまだ平気みたいです」


 人の形をした猿は少しの間動きを見せなかったが、やがてうつ伏せの姿勢から首だけを動かして、純をにやりと見上げた。


「ちっ。死んだフリしてたのに、近付いてこねえな」


「残念ながら、僕は慎重派なんです」


 肉体のダメージを確認するようにゆっくりと立ち上がる猿の主。顎は砕けたか、顔面の形が歪んで見える。アスファルトに叩き付けられたせいで顔の皮膚が破け、赤く血を滲ませ始めている。


「マキシさん。スーツのアシストを最大にしてくれませんか? 一気にケリをつけないと、やばそうです」


『オーバーマンモードか? いくらジュンでも二分もたねえぞ』


「一分で十分です。それに、トドメはマキシさんが決めるんでしょ? 僕はただ、みんなの分をぶん殴ってやりたいだけです」


『オーケイ。相当の筋肉痛覚悟しろよ』


「全部終わったら、一から鍛え直します」


 純のヘッドセット内の仮想ディスプレイが淡いグリーンから警告色の赤に染まる。早速、真樹士が防護スーツの補助動力効果を最大にまで設定してくれたようだ。山臥が装備している全身を覆う防護スーツは、山臥自身の筋肉の動作を感知し、入力された動作パターンを最適化し、フィードバックされた動作は防護スーツそのものが伸縮して躍動する。しかしその効果はあくまでも装備している人間が持つ本来の筋力を補助する範囲でしかない。そうでなければ、異常な範囲の急激な伸縮を強要される筋肉繊維と腱は容易に切断されてしまう。無理に稼働させられる関節も脱臼程度ではすまされない。


 真樹士はその補助動力アシスト機能の効果を、純の肉体が耐えられる限界まで一気に引き上げた。純は身体が熱くなるのを感じた。素直な肉体は早くも異常な負荷を感知し、危険信号を脳へと送り始めた。


 両腕を振り上げるだけで、力を込めて制御しないと肩から先が吹き飛んでしまいそうな勢いで持ち上がってしまう。腰を低く落とすだけで、両膝に数十キロと言う重しをくくりつけられたような爆発的なエネルギーを感じる。


 猿の主は目の前に立つ純の身体から異変を読み取った。薄くぼんやりと光を放ち、それぞれの関節がきしむ音を立て、高い温度で燃えている炎のように、全身からゆらめく蒸気を吹き上げている。


 本能的に、目の前のそれが大いなる危険な存在だと認められた。


「さあっ!」


 今度は純が攻撃するターンだった。純が吠えた。


 純の軸脚に蹴られたアスファルトが摩擦熱で溶けてめくれ上がった。振り上げられた蹴りは蒸気を吹き上げながら猿の主の首を襲う。猿の主は腰を落として純のすさまじい蹴りをぎりぎりのところでかわす事ができた。豪風が頭の髪の毛を何本もさらっていく。


 純の連続した動きは止まらない。


 初弾の蹴りの勢いで、身体はすでに猿に背中を向けていた。圧倒的な蹴りの力をそのまま回転運動へと変えて、力を溜め込んだ軸脚を背後へと払う。その速さと鋭さを持った後ろ回し蹴りは、しゃがみ込んだ猿の主の腹部へ深々と突き刺さった。


「ぐふうっ」


 腹の中の空気が塊として喉をかけ登って、猿の主の口からくぐもった音として弾け飛んだ。腹から身体がへし折れ、背後へと吹き飛ばされる。猿の主は両足が地面に着くのを感じ取ると、なんとかバランスを保ち倒れ込む事は避けられた。しかし重い蹴りを打ち込まれて折れ曲がった身体が言う事を聞いてくれない。身体の中のものすべてが口から流れ出てしまいそうだ。


 そこへ風を感じ取った。


 純の連続運動はまだ終わってはいなかった。後ろ回し蹴りを放った脚を、再び軸脚としてアスファルトを歪ませるほどに踏み付ける。純は腰に拳を構えたままの姿勢で前方へと跳んだ。腹を抑えてくの字に身体を曲げた猿の主の懐へ深く踏み込む。突進する身体の力をすべて拳へと乗せて正拳突きを放つ。


 純の拳は身体をななめによじっていた猿の主の脇腹に突き立った。分厚い防護スーツのグローブ越しにも、弾力のある筋肉の束を引き裂き、その奥にある肋骨が砕ける感触が伝わって来た。


『ジュン! 限度を考えろ!』


 真樹士の鋭い声が純の頭に響いた。振り上げた右脚、回し蹴りの左脚、そして猿の主の脇腹にめり込んでいる右の拳と腕。筋肉が激しい伸縮に耐えきれず腱が伸びきってしまい、骨格から剥離しかかっているのを感じる。熱く燃えた針を刺されたような激痛がピンポイントで走る。


 だが、まだやれる。左腕が残っている。


『無茶し過ぎだ!』


 真樹士の警告を無視して、純はさらに深く潜り込んだ。ちぎれそうな身体を猿の主と密着させる程に近く、弾けそうな意識は猿の主を斬り付ける程に鋭く。コンパクトに折り畳んだ左の肘を猿の主の砕けた顎に打ち上げる。猿の主の視界が大きく歪んで飛び上がった。猿の主には何が起こったのか、もはやわからなかった。何故、自分は空を見上げているんだろうか。


 がくんと膝が力を失い、呆気なく折れる。猿の主は両膝で冷たい道路に立ちすくみ、ただ、空を見上げているだけだった。


 純の左の肘がだらりと力を失う。それでも無理矢理左腕を引き戻し、その腰の回転運動で再び右の拳を突き動かす。もう真っ直ぐは伸ばせないが、拳を打ち込むには十分な間合いだ。純の右フックは的確に猿の主の顎を捕らえた。頭が真横を向く。揺らされた脳は頭蓋骨内を跳ね回り、身体は完全に制御を失ってしまった。


 人の形をしたそれは酒に酔って踊るように両肩を震わせて、両膝立ちの格好から尻餅を付くようにぺたりと腰が砕け、視線は定まる事もなく泳ぎ続けてあぐらをかくような姿勢で身体を折り曲げて動かなくなった。


『コントロールはこっちにもらうぞ』


 純の視界が赤からグリーンに戻った。防護スーツの駆動系システムは真樹士の端末に制圧されたようだ。しかしすでに身体を動かす事にも痛みを伴う純はそれに反抗する余力も、そして理由もなかった。


『もういい。力を抜け。身体は動かすな。痛くないか?』


「あちこち痛過ぎます」


『あたりまえだ。おまえ運動しばらく禁止だ』


 純は身体が勝手に動くのを感じた。すでに全身に力は入らない。真樹士がコントロールするスーツがアクティブモードに切り替えられ、純は真樹士が制御するロボットの中の人に過ぎなかった。勝手に首が優しく回り、猿の主の動かなくなった身体を視界の真正面に添える。


『勝ったな』


「みんなの、仇ですよ」


『とどめは俺がさすって言っただろ』


 真樹士の口調にいつもの明るい雰囲気が戻って来た。純はさらに身体が勝手に立ち上がるのを感じた。純の身体の動きを最小限にとどめるようにゆっくりと防護スーツをコントロールする真樹士。同時にガードレールを突き破ったままの車を操作して純の隣までバックさせる。


『乗せるぞ』


 純はまるで誰かに肩を担がれているように感じた。防護スーツが単独で動いている。自分はそれに担がれているだけか。バンパーがひしゃげた無人の車がゆるゆると近付いて来て助手席のドアが開く。優しく、シートに座らされる。全身が熱くてたまらない。


『まったく無茶しやがって。サルの奴があれで倒れなかったらどうするつもりだったんだ?』


「マキシさんがとどめさすって言っていたから、後の事なんて考えていませんでしたよ。僕は、ただ奴を殴りたかっただけです」


 純はシートに深く座らされたままバックミラーを覗き込んだ。アスファルトに座り込んだ姿勢のままの左太郎の形が見える。あれからあの人の形はぴくりとも動いていない。


「マキシさん、あれ、見えますか?」


 気のせいか、あの人の形をしたモノが薄く折り畳まれているように見えた。


『あれって?』


「サタロウさんの、身体です」


『いや、この角度だと見えないな』


 気のせいではなかった。バックミラーの中の左太郎の姿は、まさに脱ぎ捨てられた抜け殻だった。

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