19・終末温泉旅行


 静寂に包まれたロビーに漏れ聞こえてくるその音色はフランク・シナトラの歌う『Fly me to the moon』だった。

 月や星々に向けた夢、そして愛撫と口づけをロマンティックに謳い上げたジャズのスタンダードナンバー――八坂にとっては世代的にも馴染みの無い曲だったがかつてヒットした映画『スペース・カウボーイ』などで印象的に使われていた事もあり、聞き覚えはあった。

 その音色に導かれるようにして、八坂はバーの中へと入っていく。キャンドルがいくつか灯されているだけの薄暗い店内には他に人影は見えない。カウンター席の隅に一つだけラジオが置いてあり、音楽はそこから流れてきているようだった。

 そうしてラジオの真ん前の椅子に腰かけ、たった一人でその音色に耳を傾けている男がそこにいた。無精髭だらけであまり清潔感の無い横顔が見える、薄汚れた背広姿の中年男だった。


「――平田先生ではありませんか?」


 見覚えのあるその男に、八坂は驚いておもわず声をかける。そこに座っていたのは、かつて大隈大学で天体物理学を指導していた平田教授だった。月狂ルナティックと見なされて免職された後の動向は知れなかったが、八坂にとっては妻が死ぬ直前に妖しげな話を聞かされた、少々気味の悪い相手でもあった。

 声をかけられて、平田はほんの少し頭を動かして八坂の方を見る。老け込んで白髪だらけになっていたが相変わらずぎらぎらとした目つきが印象的だった。

「ええと、キミはたしか――文芸学科の八坂総一くんだったかね」

 思い出した風ににんまりと笑った平田は、続けて八坂の後ろに立っている子供に興味を抱いたようだった。

「後ろに居るのは、ハギト君と誰だね?」

 平田は後に続いてバーに入ってきていたハギトとイノリの事をじろりと見つめ、目を細める。

「その子は私の娘でイノリといいます。――それにしても平田先生とこんなところでお会いするとは思いませんでしたよ」

 八坂が軽く会釈しながら娘の事を紹介すると平田は漸く納得がいったという風に頷き視線をそらす。イノリの方はというとじっと見られている間じゅうどういうわけかずっと不快そうな表情をしていた。

「少々休暇を取ったので温泉旅行にね。八坂君もそうではないのかな?」

 平田は冗談なのかそうでないのか判断のつかない事を言いながら立ち上がり、他のカウンターの椅子に積もっていた埃を手で払って見せる。座れという事か。八坂は促されるまま平田の隣に座り、さらにその隣にイノリとハギトも座る。

「ちょうど良い時に来たな。今は天空の音楽が聞こえる時間帯なんだ」

 そう言うと平田は目の前の古いラジオのツマミを少し回し、音量を上げる。

「驚きましたよ。まだラジオ放送があるなんて。ニュースなど流れているんですか?」

 八坂はラジオを見つめながら興味深げに尋ねたが、平田は首を振ってこう答える。

「いいや。これは宇宙から一方的に送られてきている衛星放送だよ。地上局の電波を中継しているのではなく、衛星から直接送られてきている。誰かが――が残っていた放送衛星に細工をして、簡単な送信機を同乗させたんだろう。と言ってもずっと聞こえ続けているわけじゃあない、なにせ今や自転速度の方が明らかに早いのに、静止衛星の方はかつての自転速度と同じ速度で周回し続けているんだからな。断続的に届いたり途切れたりを繰り返している」

「宇宙から……? 一体誰が、何のために?」

「さあね。人類が宇宙に出たのはもう九年も前の話だ。NASAもロスコスモスも崩壊した今となってはISSに向かった飛行士達がどうなったのかは誰にも分からない。あるいは彼らが……」

 平田が何かを言いかけたところで、ラジオから流れる『Fly me to the moon』はちょうど終わった。そうして一瞬のの後、ラジオからは別の音声が流れ始めた。ロシア語訛りのある英語で短く何かを喋った後、ずっと数字を読み上げている。それを確認した平田はラジオを見つめたまま、こう言った。

「彼らはこう言っているよ。――俺達は放送衛星を開放しておいた。地球のみんなからのコールを此処で待っている、と。後に続いている数字は解放されている周波数。その周波数に合わせて地上から発信する事ができれば、残っている衛星ネットワークを介してラジオ放送ができるのだろう。たぶん、地球全体に発信できる最後の手段だろうな」

 ラジオ音声は滔々と対応できる周波数を読み上げ続け、漸く終わるとと告げた。一瞬だけブツリと途切れたかと思うと、ラジオからはまたあの曲――『Fly me to the moon』が流れ始めた。メッセージも含めて録音されたもので、どうもそれだけが無限再生を繰り返しているらしかった。

「これがずっと放送され続けているわけですか。宇宙空間の人工衛星から……」

「まさに天空の音楽だろう?」

 そう言って微笑む平田に対し、八坂は心底驚いたように尋ねた。

「今のが本当だとしたら――すごい話だ。ラジオを通じて他の地域や国とも情報を発信できるかも知れない。平田先生、今までにそういう放送が流れたりした事は無かったんですか? 衛星放送なら日本以外からだって入る可能性だって……」

「いや、この放送に気が付いてからずっと聞いているが、残念ながら無いな」

 やや興奮した様子で八坂は続ける。

「それなら、逆に此方から放送を試みるのはどうでしょうか。衛星放送のアップリンクにも対応してる送信施設はこの辺りにもいくつもある筈ですし、此方の所在と現状を伝えて救援を要請すれば、誰かが来てくれるかもしれない」

「君は珍しい事を考えるな」

 その提案を聞いた平田は面白そうに目を細め、八坂の方を見る。八坂にはその反応の方が意外だった。

「わざわざ解放されてる周波数まで添えてお膳立てしてくれているんですよ。利用して助け合ったり、情報を交換し合ったり、用途は幾らでもあるじゃないですか。皆で協力して取り掛かれば不可能な話では無いと私は思います」

「成る程ね、それは確かに道理だ――交流を求め、変化を求め、まことに理性的で合理に満ちた思考だと言える。だけどね、無駄だろう」

「無理があると仰りますか?」

「いいや、そうじゃない。君は此処のコミュニティーの連中に協力を求めるつもりなんだろうが……望めないよ」

「――何故?」

「何故って、そりゃあ」

 ちょうどその時、一瞬のノイズを挟んだ後にラジオから流れる音楽がブツリと途切れた。残った衛星ネットワークのカバーする範囲から外れたのだろう。そうして大きく目を見開いたまま、平田は言った。

「月が無いからだよ」



                 ◆



「お父さん、さっきの変な人の事知ってるの?」

 ぎしぎしと軋む音を響かせて二階への階段を昇りながらイノリが尋ねると、八坂は提灯をぶら下げながら「昔働いてた大学にいた先生だよ」と答え、変な人とあっけなく評した言葉に八坂は苦笑しながら頷く。

 同じく提灯を下げて先頭を歩いていたハギトが振り返らないままこう言う。

「俺や中村さんが箱根に来る前からこの辺りで暮らしてたんですよね。変な人だなと思ってましたが、先生だったんですか」

「あの人も、月が無くなっておかしくなった人らしいからね」

 平田は結局、ラジオが聞こえなくなるとすぐに席を立ってしまい、自分の陣取る部屋に引っ込んでしまったらしかった。八坂達も空いている客室をあてがわれる事になり、今はこうして案内されていた。

「こちらの部屋をお貸ししようと思うのですが良いですかね。他の部屋が良いならどこでも構いませんよ」

 足を止めたハギトが示したのは、本来ならば四、五人の家族連れなどを宿泊させるための広めの客室だった。畳敷きで広縁やテレビや卓などが一通りそろっていた。イノリが気に入った様子で靴を脱いで上がり込んだので、八坂もその部屋に泊まる事を承諾した。

「お分かりでしょうけど電気が止まっているのでテレビや電話は使えないです。窓は目張りしてあるので開けないで下さい。灯りには行燈もありますが火の扱いには気をつけて。食糧や水は中村さんが預かった分から公平に分配するそうです。ああ、あとは暖気を入れたいなら入り口のドアは閉めない方が良いと思います――うん、こんなところかな?」

 ハギトが慣れた調子で〝宿泊マナー〟を説明しているのを見て、八坂はふと気になって尋ねる。

「ここには他に住んでいる人はいないのかな? 見たところずいぶん部屋が空いているようだけど」

「今ここに住んでるのは俺とあなたがたと、あと平田さんだけですね。中村さん達は駅側のホテルに寝泊まりしてます」

「こちらにも充分な部屋数があるように見えるんですが、何故皆さん別れて暮らしてるんです? 一カ所に集まった方が便利に思えるんですが」

 八坂としては他意なくそう尋ねたつもりだったがハギトは「さあ?」と興味なさげに答えるのみだった。別に深入りする気も無いのでそれ以上は詮索しない。悪くない、想像していた以上の処遇なのだから実際文句など無かった。 

「さて、東京からの長旅でお疲れでしょうしもうお休みになって結構ですよ。布団は押し入れの中に在るはずなのでご自由に――あ、着替えは浴衣ならいくらでもあるのでそちらもご自由に。それだけだとちょっと寒いかも知れませんけどね」 

 あいかわらずトーンの低い無気力気味な声でそう告げるとハギトは軽く一礼し、部屋から立ち去ろうとする。八坂も応えて礼を言おうとしたが、その時大きくて快活な声が不躾に響いた。


「あ! 私、温泉ってのに入りたい! 連れて行ってほしい!」


 ぎょっとした八坂が振り返ると、ずっと纏っていたコートと帽子を放り出して浴衣を引っ張り出したイノリが、好奇心に満ちた笑みを浮かべながら退出しようとしていたハギトの事を見つめていた。

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