16・妄想のポールシフト
男は寝袋の中から這うように起き出した。そこはコンクリート製の朽ちかけたバス停留所で、風よけのビニールシートで外の風を遮断していた。まるでホームレスのようだなと思ったが、風をしのぐだけで寒気はだいぶマシになるものだった。
もう一つの寝袋は空で、すでに小さく畳んでおかれていた。
八坂は欠伸をしながらビニールシートの覆いを手で少しだけ開け、外を見た。
足元には雪が積もり空には薄明が差している。海の向こうからは光の筋がいくつも差し込み、雲がきらきらと光り輝いている。それだけを見ればまるで朝焼けのようで美しい情景だった。しかしながらその薄光は、目を醒ましたばかりの八坂を失望させるのに充分なものだった。
丁度その時、何かの紙屑を燃やしながらケトルで湯を沸かしていたイノリが、即席のテントの中から顔を出した父親に気づいて声をかけた。
「お父さん、おはよー。今日も太陽は出なさそうだよ」
「……だろうねぇ」
「お湯に入れるの、砂糖でいい?」
「お願いするよ」
「はぁい」
そう言うと、イノリは袋から氷砂糖を二つほど取り出してケトルの中にトポンと落とした。
「着いたら、お茶があるといいねー」
イノリは砂糖を溶かしたお湯をマグカップに注ぎ、一つを八坂に渡しながらそう言った。生返事をしながら八坂はカップを受け取り、そうして薄明るい世界を見渡した。高台にあるこの幹線道路からは辺りが広く見渡せ、視界の中に富士山と海が一挙に見えた。海抜の低い沿岸側は、もう既に水没してしまっていた。
乾パンと砂糖湯、それにビタミン錠剤という素朴な朝食をさっさと食べ終えた親子は寝袋とビニールシートを手際よくまとめてリュックサックに押し込み、足早に歩き始める。雪の積もる山中とはいえ道路はまだ歩きやすく、歩を進めるのは簡単だった。
ダウンジャケットを着込んで大きめのワッチキャップをかぶり、マフラーを巻いたイノリは大きなリュックを背負って先を足早に歩いていた。防寒コートで同じように着膨れし、同じくリュックを背負った八坂はその後に続く。もはや体力的には時としてイノリの方が彼を上回りつつあった。
八坂はもはや意味など無いと知りつつも、つい腕時計に目をやってしまう。そしてやっぱり目眩を起こしそうな気分になった。朝焼けのような薄明るい空はずっと続いていたが、起床から既に三十分は経っているのに太陽が昇り始める気配は無かった。この状態があと数時間続いて、そしてまた夜が来てしまうのだ。もう何もかも滅茶苦茶だった。
最初に異変に気が付いたのは一カ月ほど前だったか。もはや昼も夜も曖昧なのだが(なにせ時計を見る限り昼夜は平均して四時間程度で入れ替わった)それでもだんだんと日照時間が短くなっている事に気が付いた時は気味悪さがあった。
そしてそれは、もっと直接的な生存に関わるような変化をも身近にもたらし始めた。日照時間が減るに従い、気温が日中でも上がらなくなっていったのだ。これまでは夜間はともかく日中に0℃を割り込む事は殆ど無く――すなわち大消失以前の真冬程度の――気候が続いていたが、太陽熱の減少と共に平均気温がさらに下がり始めた。雪の量も目に見えて増えた。
暖房器具を使用する燃料はもう細々としか手に入らず、これ以上の寒さが襲ってきたらもう生存自体が維持できなくなるかも知れない。日本が完全に凍てつく前に行動を始める必要があった。
「ねぇ、なんで太陽が出なくなったのか、お父さんは分かる?」
幹線道路を先に行きながらイノリがそう尋ねた。父親が不安げに何度も空を見るのを見て、関心を持ったのか。八坂は抱いていた懸念を正直に答えた。
「えーとね、たしか、一年のうちで何ヵ月ものあいだ太陽が昇り続ける白夜って現象や、逆に何ヵ月も太陽が昇らない極夜って現象が起きるんだよ。地球が傾いているから、太陽との位置関係によってはいくら自転しても太陽の光が当たらない場所や逆に当たり続ける場所が出来ちゃうからなんだけど……分かるかな?」
「うん」
「そして、そんな事が起きるのは南極や北極の近くだけだ。地球儀のてっぺんと底の近くだよ。ええと、ノルウェーとかアラスカとか」
八坂の言葉に、イノリは一瞬だけ考えたようだったがすぐにこう言った。
「――じゃあ、日本は南極になっちゃったんだ」
そう。南極だ。何もしなければもう生存も維持できない、今以上にばかげた世界になる。イノリは実に素朴に的を射ていた。
歩きつつ問答を繰り広げながら、八坂は〝
またそれを空想の世界の事とするだけでは飽き足らず、超古代に起きた事実だと考えた人間さえもいた。古代文明アトランティスは極移動によって凍てついて今の南極になったと主張する人間もいたし、半世紀前にはヴェリコフスキーというアメリカ人が『衝突する宇宙』という奇書を書いてベストセラーになった。
地球が傾くという妄想に取りつかれ、異様に肥大化させたヘルビガーというオーストリア人は1910年代に「月は何度も消えて現れてを繰り返し、地球に大変動を与えた」と主張し、大きい影響を世界に与えた一人だった。
この男もある意味では
曰く地球の引力に捉えられて〝月〟となった彗星は接近するうちに砕けていき、それぞれが地球に最初の水を与えたり、引力によって地軸をずらしたり自転の速度を遅らせるなどの奇跡を引き起こしたのだという。そして現在の月――13年前まで在ったあの月――は地球の歴史で六個目の月であり、あの月もまたいずれは消失して、その時には地球にまたも大変動の革命を与えるのだと主張した。
この突拍子もない空想はある種の人々の精神を大いに刺激したらしく、ヒトラーをはじめとしたナチス高官達は氷漬けの月がもたらす変革という妄想の熱心な支持者であった事が知られている。彼らはヘルビガーの妖説を承認し、
氷漬けの月という妄想の根源を追い辿るならば、恐らくは神話時代まで遡れる。
北欧神話のエッダによれば、月は魔狼フェンリルの眷属であるハティ・フローズヴィトニルソン──憎しみを抱いたフェンリルの一族の意──という一匹の狼に常に追われて逃げており、それが月の運行を引き起こしているとされる。時々はハティが月に追いついて咬みつくので真っ赤に染まり、月が消えてしまう。それが月食なのだと語られる。
世界の終わりを告げるラグナロクが始まる時、狼達は太陽と月を永遠に飲み込み、世界に二度と明るさと暖かさが戻らなくなる〝大いなる冬〟を引き起こす。大いなる冬が来ると共にあらゆる生物が死に絶え、吹雪の中で人間同士が最後の一人まで戦い合う終末の時代が始まるのだという。
この月と氷の物語は、じつに20世紀前半に生きたヘルビガーやヒトラーの抱いた妄想にまで大きな影響を与えた。ナチスのプロパガンダはWELをこう説いた。
〝我々の祖先は雪と氷の中で実に強く育った。したがって、この宇宙氷に対する信仰こそ、我々の受け継いだ重要な遺産である――!〟
こうした奇妙な妄想に大きな影響を与えたのは――それもまた月と、月にまつわる科学の知識だった。ニュートン力学が成立して以降の世界では地球と月は実は引力によって相互に影響を与え合っていた事も、地軸の奇妙な傾きは月がある事によって生まれたという事も理解された。地球と月が相互に影響し合っているならば、地球に直接的な影響を与えられるのもまた月に他ならない……科学の知識すらも、月を氷漬けの奇妙な神に仕立て上げる妄想のピースになったのだ。
ポールシフトも、宇宙氷も、月を飲み込む狼も、ラグナロクと大いなる冬も、人間が気ままに描き続けた末にどこまでも肥大化していった妄想に違いない。
地軸の移動など現実にはあり得ないし、自転速度が今更急激に変わるなど考えられない。月は氷でも無いし消え去りもしない。それが人間の理性がついにつかみ取った真相であったし、揺るぐはずもない事実であった筈だった。
「妄想――?」
白い息を吐きながら八坂はちらりと景色を見た。薄明は相変わらず水平線の向こうから僅かに辺りを照らすだけで、もはや暖かさも明るさももたらしてはくれなかった。その光景はテレビなんかで見た事がある〝世界の果て〟で起きる極夜そのものだった。そして自分にとっての現実であり日常の背景であった富士山が、その非現実の光景に混ざり込んでいるのは形容しがたいほどの奇妙さであった。
じゃあ、今のこの現実は一体なんだ? 事実は夢や妄想に負けて、月は消えて、凍り付いたまま滅んでしまうというのか?
――月とは一体、なんだったんだ?
――なぜ、月なんだ?
八坂は思案を続けるうちに足を止め目だけをぎらぎらと輝かせ、いつの間にやら薄明りだけを湛える狂った空を睨み付けていた。路側帯のぎりぎりの所までにじり寄って、なんだか理不尽に対して耐えきれなくなって喚き散らしたくなるような、不快で惨めな気持ちがムラムラと込み上げ続けていた。
「――何してるの?」
目の前に立ったイノリに声をかけられ、八坂ははっとした。自分はいつの間にやら足を止めていたらしく、イノリはそれを気にかけて戻ってきたらしかった。
込み上げていた異様な興奮が静まると共に、目の前の現実以外に気を取られ過ぎてはダメだと痛感する。大消失以降、妄想に囚われてどれだけの人間が足元を掬われてきた事か。
「いや……なんでもないんだ。天気を見てただけ」
八坂は誤魔化すようにしてそう言うと、イノリは頷いてはいるもののなんとなく不審がっているようにも思えた。八坂の動揺を知ってか知らずか、イノリは続けてこう告げた。
「この坂を昇り切ったところから、煙が見えたよ」
「そうか、じゃあもうすぐ近くまで来たのかなぁ」
二人がなだらかな坂を昇っていくと、山合いから煙が昇っているのがたしかに見えた。そうしてもう少し行くと、今度は町が見えだした。遠くに見える山からも町のあちこちからも白い煙が昇っているのが見えた。
間違いない。若い頃に観光に来た事がある、あの町だ。
「わー! 山から煙が出てる! 家からも! あそこがオンセン?」
「そうだよ。地面からずっと地熱やお湯が湧いてる場所。あそこならきっと、寒さをしのぐ方法もあるはずだ」
驚くイノリに、八坂が辺りを見渡しながらそう教えた。燃料も無い中でどうやって到来する寒さをしのぐか、考えた末にようやく思いついたのが天然の熱が噴き上がり続ける温泉に近づく事だった。このペースなら真っ暗になる前に町にたどり着けそうだった。
「あそこには、他にも人がいるのかな?」
イノリはそう言いながら、面白そうに温泉街の街並みを眺めていた。湯煙だけは温泉街の中からかつてと変わらず昇り続けていたが、町の残骸の中には灯りは一切見えなかった。二人は急ぎ足で、静まり切った温泉街へと向かい始めていた。
――月の大消失から13年目。
――箱根湯本温泉の近郊にて。
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