狂乱、思推、幻想

13・幸運の月


 ――南アフリカ共和国・ハウテン州ヨハネスブルグ市・ヒルブロウにて。

 ――月の大消失から十三年目。



 ヒルブロウはかつては白人専用居住区として経済発展を遂げた街であったが、悪名高いアパルトヘイト政策の撤回後、職を求めて黒人達がやって来るようになった。それを嫌った白人富裕層は家や資産や会社ごと相次いでこの街を去って行き、やがてヒルブロウはゴーストタウンと化した。

 残された無人のオフィス街にはアフリカ全土からやって来た失業者やギャング達が住み着くようになった。ヒルブロウがあらゆる犯罪の温床となりヨハネスブルグは急速に治安が悪化したといわれている。

 南アフリカの中でも比較的内陸に位置するヨハネスブルグは月の大消失後の水害からも免れていたが、地球全土で巻き起こった混迷はこの街をギャングの跋扈するさらなる混沌の底に沈めた。


 しかし今、そのギャング達さえもこの街から掃討されつつあった。オフィス街の四方八方から煙が上がり、道路には銃殺された死骸が点々と転がったままになっていた。

 混沌の中で台頭した、アフリカ全土を荒らし回る新たな略奪者がこの街に台頭していた。



 ――朝陽が差し始めたオフィス街に、怒号やら哀願する声やら嗚咽やらが響き渡っている。

 縛られて路上に座らされている十人ほどの男達はいずれも黒人で、身なりも良く、往時のストリートギャングのような服装をしていた。そうして口々にがなり立てている。


『お前ら、こんな事をしてタダで済むと思ってやがるのか?! 今にダウンタウンから俺の手下どもが――』

『バカ、黙ってろ! お、おい、何が欲しいんだ? 食い物か? いくらでもやるよ。そうだ、俺達と組めば女だって用意して――』

『やめてくれ。頼む。お願いだ――嗚呼――この月狂ルナティックども!』


 泣いたり怒ったりしているギャング達の前に立った軍服姿の黒人の男は、これを聞いてサングラスをかけたままニタニタと笑い、それから口を開いた。

「悪いがね。俺はズールー語も英語も分からないんでな! だからまぁ、話し合いは無駄ってわけだ。まあそういう事で……」

 訛りの強いフランス語でそれだけ言った男が右手をあげて見せると、一呼吸おいた後に一斉に自動小銃の銃声が響き渡った。


 吹き止まない風が立ち上った硝煙と血の臭いを一瞬で拡散した頃にはもう、口を開いて喚く者は誰もいなかった。

「ハハ……上出来、上出来」

 サングラスの男は薄ら笑いを浮かべたまま後ろを振り返った。そこに居る、まだ銃口から硝煙を吹いている自動小銃を構えている集団は全員が子供だった。

 ぶかぶかの軍服を着ているものも居れば薄汚れた服を着たままの者もいる。全員がせいぜい十歳前後で、そうして子供達全員が無感情な目で、たった今殺した相手の死骸と、それを指示した男の顔を見つめている。

 街の彼方此方から同じような銃声が、散発的にいつまでも響き続けていた。


                 ◆


「男は要らん。殺せ。女も要らん。殺せ。小さい子供だけは居たら連れて来い。補充が要るからな。黒人でも白人でも構わん」


 サングラスの男は無線で手下に指示を出しながら、街中から略奪して市庁舎の前に山積みにされている貴金属の山を物色していた。

 そうして特に高価そうなネックレスや指輪や腕時計を見出してはいくつも身に付け、そのたびにニンマリと笑うのであった。

「ンジャト様。報告があります」

 手下に呼びかけられた男――ンジャトはニヤニヤした笑みを浮かべたまま機嫌よく振り向いた。

「どうした?」

「ギャングどもとの交戦に繰り出した子供兵のうち、十一人が指示された場所に戻っておりません。九人は死骸が確認されていますがあとの二人は不明。隙を見て逃げたかも知れません。……探させますか?」

「要らん。どうせそいつらも俺の命令どおりにどこかで戦死してるさ。あいつらは俺の言う事をなんでも聞くんだ」

 その報告を聞いたンジャトはつまらなそうに息を吐き即座にそう言った。そしてまた屈んで貴金属を漁りはじめた。

「……了解。そう仰られるなら捨てて置きます」

 手下は何故そう言えるのか分からない、といった怪訝な顔をしたもののすぐにンジャトを残したまま退散していった。

「俺はな、子供の気持ちが分かるんだ。だってよォ……」

 見出した大きなダイヤモンドのついた指輪を中指にはめながら、ンジャトはそう呟いていた。



                 ◆



 ――俺はあの時まで、そう十三年前のまでコートジボワールのカカオ農場で働かされていた。貧しかった俺の両親は、たった二十ドルでまだ八歳だった俺を農場に売ったのだ。

 農場での仕事は過酷だった。朝七時から日暮れまで作業をさせられた。休日なんてものは存在しないし食事もろくに与えられなかった。勿論賃金なんてものは存在しない。俺達は売買された奴隷だった。

 自分の背丈くらいある麻袋に詰まったカカオを一日中運搬させられる。子供の手にはあまりに大きいナイフでカカオの実を割らされ、うっかり自分の指を切り落とす奴は後を絶たなかった。毎日のようにまみれていた害虫駆除薬が人体に極めて悪影響を及ぼすと知ったのは随分経ってからだった。


 何より最悪だったのは、農場では暴力と恐怖が全てを支配していた。

 やって来てから半年の間は何という理由が無くても滅茶苦茶に大人から殴られた。拳で殴るのは優しい方で、多くは棒や鞭を使って叩かれた。

 こうして大人は俺達に「支配する者」と「支配される者」の関係を芯まで叩き込むのだ。実際誰も反抗したり逃げ出そうとはしなかった。農場の子供はみんないつも全身がアザだらけで血まみれだった。


 ――俺は不思議だった。空腹に耐えかねて何度かカカオの実を盗み食いした事があるが、苦くて不味くてとても食えたものではない。なんでこんな物を大人達が目の色を変えて作らせるのか全く分からなかった。


 十四歳になった頃。俺は些細な理由――覚えていないから本当に些細な事なのだろう――から大人を怒らせてしまい、酷く殴られた。農具で頭を殴られて割られてひどく血が流れ出し、俺は昏倒した。

 大人達は半死半生の俺を小屋に運び込んで放り込むとそのまま放置した。治療なんてするわけが無かった。たとえ死んだって貧民から新しい子供を買い付ける方が薬より安いのだ。俺の命の価値は奴らにとってそれだけだった。


 生きているのか死んでいるのか分からない気分のまま横たわり、俺は小屋の格子つきの窓からずっと空を眺めていた。

 日が沈み、やがて夜になって月が顔を出した。宝石のような、澄んだ月の輝きがよく見えた。

 血が流れ過ぎたせいだろうか。俺は猛烈に喉が渇いて仕方なかった。

 そして、もっと小さかった頃、母親から〝月は天にある水瓶だ〟という話を聞かされた事を思い出していた。だから俺は月にずっと祈った。

 お月様よ! お前が本当に水瓶なら……水をくれ! 水をくれ! 水をくれ……!


 次に目をさました時、俺は顔が濡れている事に気づいた。

 夜が明けて珍しい大雨が降っていた。そうしてボロ小屋の屋根から、水が俺の顔に垂れてきていたのだ! 雨漏りだった!

 垂れてくる水をたらふく飲んだ俺はなんとか気力を持ち直し、同時にもういくらなんでもこんな場所には居られないと思って脱走を決意した。

 脱走した事がバレて捕まれば、他の子への見せしめのために手足の骨をへし折って殺される事は知っていた。だからせめて少しでも人目につかないように、俺は真夜中に抜け出す事にしたんだ。あの時飲んだ水が俺に勇気を与えてくれたとしか思えなかった。


 本当に不思議な夜だった。雨は昼前に揚がって空はとても澄み渡っていたのに、陽が暮れた瞬間からずっと真っ暗だったのだ。おかげで大人達には一切気づかれずにジャングルまで駆け込めたのだが、俺にはそれが不思議で仕方が無かった。

 真っ暗闇の中を何時間も彷徨い歩いて、漸くどこかの村の灯りが見えて、俺は心底安堵した。そしてふと空を見上げた時、俺はこの脱走が何故こうもうまくいったのか、やっと理解して大泣きした。

 ――そう! 月! 月が俺をずっと助けてくれていたのだ!

 月は水を飲ませてくれたし、俺のためにその姿を隠す事まで、月はやってくれたんだ!


「お月様! ありがとう! あんたのおかげで俺はもう自由なんだ!」



 ――それから俺は様々な事を知った。

 あの夜以来世界中がパニックに陥った事。自由にはなったがもはや誰も自分を助けてはくれない事。俺がいた地獄のような農場で作られるカカオは先進国の連中が大好きな甘いお菓子に化けていた事。連中はそんな事を知ってか知らずか、俺達の境遇なんかには目もくれなかった事。


 混乱に沈んでいく世界で、俺は生きて行くため、成り上がっていくためにどんな事でもやった。

 ――俺の居たカカオ農場ではたった一つだけ奴隷から人間に成り上がる方法があった。それは農場の大人に媚びへつらって下働き身分になる事だ。俺の頭を割った大人もかつて、奴隷として売られた子供だったそうだ。


 俺はこの世界のありとあらゆるイカれた手口の真似をした。

 あるゲリラが行っていた、さらった子供を絶対服従の兵士に仕立て上げるという手段。あるテロ組織が行っていた、子供に自爆テロをさせるという手段。みんな模倣した。

 そうしてどれもこれも大成功を収めた。俺は覇者になった。

 俺は恐怖と暴力に支配された子供が支配者に絶対逆らわない事を、誰よりも身を以て知っている。絶対に裏切らない忠実なとして使いこなせる自信があった。


 俺にできるどんな手段だって使ってやる。あの姿を隠した月だけが、あらゆるものから見捨てられた俺のただひとつの味方だったんだ。

 あの月がこの世界をどんなにおかしくしたとしても、それはたぶん――この俺のためにある事なんだ!

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