9・おそらく最後の宇宙飛行士


 ――月の大消失から四年目。



 聞こえてくるものといえば空調ファンの稼働音と酸素バルブの歯車の回転音ばかりの無機質な空間に、音楽が流れる。

 都会的なジャズ。輝くようなトランペットの音色。

 しっとりとした張りのある歌声――。


 "♪ Fly me to the moon. 僕を月まで連れて行ってくれ…… Let me playamong the stars .……"


「フランク・シナトラか?」


 俺の真上――上も下も無いのだが、とにかく頭上――でくつろぎながら本を読んでいたユーリィが尋ねた。

「ああ。1962年の……ジャズは趣味に合わないか? 変えてもいいが」

 俺が音楽プレイヤーを示しながらそう尋ねると、ユーリィはこう答えた。

「いい趣味をしてるぜ、アラン。まあ宇宙飛行士コスモノートでそいつが嫌いな奴は――たぶん居ないだろうよ」

 そういって親指を立ててみせるユーリィに対し、アランも同じようにして答えて見せた。

「ああ、そうだな。全くだ――」


 "♪ Let me see what spring is like on Jupiter and Mars.……"


 丸く大きな窓からは、残念ながら木星や火星は見えない。

 どこまでも真っ暗な宇宙空間と我らが地球だけがよく見えていた。

 ――ISS(国際宇宙ステーション)にて。


               ◆


 ISSでは常に六人の宇宙飛行士が滞在し、本来は一年を通じて参加国全ての飛行士が滞在できるように取り決めがなされている。

 しかし今はもうアメリカとロシアそれぞれ一人ずつの飛行士しか滞在していない。地球環境の激変によって参加国のほとんどが既に新たな飛行士を育成する事も、バイコヌールに渡らせる事もできなくなりつつあった。

(※バイコヌール宇宙基地。カザフスタンに所在。ISSへ送り込まれるクルーは此処でロシア製ロケットに搭乗して宇宙に赴く)

 おまけに俺達は、既に一年以上もISSに滞在している――。


「宇宙に滞在した世界最高記録保持者は、ロシアのアレリー・ポリャコフだったか?」

 俺はユーリィにそう尋ねた。正直知っている。だが暇で暇で仕方がなかった。話題ならなんでも良いというのが正直なところで、おそらく同じ気持ちだろうユーリィもまた律義に答えた。

「そうだ。437日17時間58分――たぶん俺達が塗り替えちまう」

「なぁに、アメリカとロシアが同時にワールドレコード更新だ。さぞお祭り騒ぎをしてくれるだろうよ」

「だといいが――ポリャコフは宇宙空間で何度か心が参りそうになったが、そういう時は地球を眺めたそうだよ。そして地上では今何をしてるんだろう、どんな人がそこで暮らしているんだろうと空想した。するとという好奇心が湧いてきて元気が出てきたと言っている」

「ふぅん。地球を眺めて……ねぇ」

 ユーリィがそう言うのを聞いた俺は壁を軽く蹴り、ステーションの大窓へと近づいて大げさな動きで地球を覗き込んで見せた。

 地球は――あちこちに厚い雲がかかっている。異常気象が続いている事がはるかな宇宙からでもはっきり分かった。


 なあ、にまだ人間はいるのか?


 俺は思わずそう尋ねそうになった。口に出すと本当になってしまいそうで言うのはやめたが――本当に分からなかったからだ。

 今から411日ほど前。バイコヌールでは絶対起きるはずの無いトルネードが巻き起こっていた。見渡す限りの荒野の向こうで、雷鳴を伴いながら三つも四つも竜巻が踊っていた――。

 まるっきりB級映画の描く〝世界の終わり〟のようだなと思いながら、俺はソユーズロケットに乗り込んだ。たぶんユーリィも同じ気持ちだった。


 宇宙には誰かが行かなければならなかった。僅かに残った人工衛星をメンテナンスして世界のネットワークの完全遮断を防がねばいけなかったし、全滅した気象衛星の代わりを務める必要もあった。月の消滅以来の変動を俯瞰して調査する重大な仕事だった。世界を守ると言っても過言ではないだろう。

 ――しかしながら一カ月もしないうちに状況はさらに悪くなってしまった。

 モスクワともヒューストンとも連絡がつかなくなったのだ!

 天変地異が宇宙基地を壊滅させたのか、テロリストが機能を破壊してしまったのか、はるか400キロも上空からでは見当もつかなかった。

 軌道修正が行えるので大気圏に突入してしまう事態は避けられる。食糧や酸素は数年分は蓄えがある。水は99%までリサイクルできる……。

 だが、俺達からは地上に帰る術が奪われた。ソユーズは地上基地との交信による自動操縦。一応は手動操縦も可能だがそれには最低でも三人が必要になる。こんな事態は完全に構造の想定外だった。

 地上からの交信を待つだけの日々が続き、本来の任務期間であった半年をとっくに過ぎた。状況は変わりはしない。

 それでも俺とユーリィはISS単独でも行える作業――そう、人工衛星のメンテナンス――を初期の計画通りに相変わらず続けていた。じっとしていると逆に気が狂いそうだった。

 しかし宇宙ステーションはアクティブに動けるわけではない。現存する衛星の軌道が近づくまで、俺達はひたすら食って、寝て、運動して、気晴らしに喋ってを繰り返すしかなかった。


               ◆



"♪ Fly me to the moon. 僕を月まで連れて行ってくれ…… Let me playamong the stars.……"


 曲が十何回目かのループに差し掛かった頃、ユーリィが再び本から目を離してこう言った。

「その曲、いろんなミュージシャンがカバーして歌ってるよな? 『エヴァンゲリオン』で聞いた事がある」

 俺は吹き出しそうになってしまった。そうだ、コイツは筋骨隆々のいかつい見た目に反してかなりディープなナードオタクだった。

「ああ。『Fly me to the moon』はジャズのスタンダード・ナンバーだからな。最初に歌ったのはフェリシア・サンダースという女性歌手さ。その後も実に多くのミュージシャンがカバーして――その中でも空前のヒットを飛ばしたのがシナトラだ。

 だがそれだけじゃあない。ある歴史的出来事がシナトラを『Fly me to the moon』の専属シンガーであるかのように祀り上げた」

 俺は勿体ぶって得意げに話すがユーリィも宇宙飛行士アストロノーツだ。知らないわけがない。


「――アポロ11号、だろ?」


 案の定知っていたが、せっかく見つけた紛らわしを今さら止める気にはなれなかった。一端の弁舌家ぶって話を続ける。


「そう! アポロ11号の乗員たちは、シナトラ版の『Fly me to the moon』のカセットテープを月面でかけた。おかげでシナトラは栄えあるになって永遠に記憶される事になった。

 彼のカバーが世界を巻き込む空前のヒットを掴んだのも、元を糺せばケネディが月へ行く計画をブチ上げたタイミングを逃がさなかったからだろう。――そうして彼はその歌声で見事に、月を目前にして湧き上がる世界の人々の心を掴んだんだ」

 

俺の大弁舌が一区切りついたタイミングを見計らって、ユーリィはこう言った。


「――月はたしかにあの時代、世界の人々を沸かせていた。俺の国だって同じだ。無人探査機を用いた〝ルナ計画〟ではアメリカに先んじていたし月面有人着陸だって密かに狙っていた。お前の国のアームストロング氏に先を越されて破棄したそうだがね。

 月はソビエトもアメリカも――いやおそらく世界中の人々があの時代に目指した夢の世界だった。歌も映画も小説も、政治も軍事も〝月〟一色だった」


「〝これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である〟……あの日、アームストロング船長は『Fly me to the moon』をバックミュージックに月の地面を踏みしめてこう宣言した! あれはアメリカ一国じゃあない、まさに人類が大きな勝利と共に夢を叶えた日だった!」


 俺はわざとらしいくらいに抑揚をつけ、宇宙飛行士アストロノーツの大先輩が歴史に刻んだ言葉を諳んじて見せた。正直に言えばおふざけにしてはずいぶん気分が高揚していた。だって随分雄大な物語ではないか。

 おかげでユーリィに皮肉たっぷりに水を差された時は若干の不愉快ささえ感じてしまっていた。ユーリィは言った。


「だが、俺もお前もアームストロング氏と同じ一歩すら踏み出せていないわけだ。ISSここが浮いてるのは地球からたったの400キロだぞ。あれから五十年以上が経っているのに、俺達宇宙飛行士コスモノートは結局月の先にすら足を進められなかった。おかげで陰謀論者は言っているぜ。〝それ見ろ! 21世紀になっても地球から離れられないのに、半世紀も前のロケットで月に行ったなんて誰が信じる?〟――ってな」


「おいおい、よりによって君が月の嘘ムーンホークス論者だったとは知らなかったぜ? アメリカ国民を代表して言わせてもらうが、もう一度月に行く事ができないのは単なる二番煎じに出せる巨額予算がこの世の誰の財布の中にも無いからだし、〝影の付き方がおかしい〟だの〝星条旗がはためくのがおかしい〟なんてのは言いがかりもいいところだ。そんなのは映画で見たクールな宇宙の方が本物の宇宙よりリアルに見えるようになっちまった連中の妄想だよ」


 俺が半分ムキになってそう言い返すとユーリィは皮肉めいたツラで笑い、「知ってるよ――けど俺の記憶が正しければ、アポロが月に行っていないなんて妄想を最初に言い出したのはアメリカ人だぜ? 一体なぜなんだい」と逆に聞き返してくる始末だった。

 狂人ルナティックの考える事なんて分かるかよという意思表示で俺が肩をすくめてみせると、ユーリィのやつはこう言った。


「多分だけどな――夢が終わったんだよ」

「終わった?」

「本当に叶えてしまったら夢は終わるし飽きる。簡単な話だ。誰も月に興味を持たなくなってしまったし、それに耐えられなくなった奴は認知を歪めてでも夢を見なおそうとした。――あんな石と砂しか無いチャチな場所がずっと夢見た月だった筈がない! ってな」

「ああ、なるほど……」


 相槌を打ちながら、俺は、なんとなくジョージ・アダムスキーの事を思い出していた。今となっては稀代のホラ吹き男だのカリフォルニアの変人だの散々に言われている、あの男。

 アダムスキーは1950年代に空飛ぶ円盤に遭遇し、金髪碧眼の美しい金星人に出会って友人になり、円盤に乗せてもらって火星人やら土星人やらとファンタジックな宇宙旅行をして宇宙の真理を知らされたと主張した。(これがまるっきり古典的な天使の奇跡イメージそのままなのは言うまでもない!)

 現在の俺達が「空飛ぶ円盤」と聞いて真っ先に思い浮かべる、あの銀色の丸っこくてクラシックな雰囲気のUFOはアダムスキーが世界に広めたイメージだ。

 彼はその当時にはまだ誰も見た事が無かった「月の裏側」に地球以上に豊かな湖や森林があり、美しい宇宙都市があるのを確かに目撃したと主張した。

 アダムスキーの言いふらした極めて非科学的な宇宙や月の旅行譚はおかしな事にどれだけ荒唐無稽でも多くの人に受け入れられ、本はベストセラーになって世界中に「私も金星人に会って宇宙へ行った!」と言い出すアダムスキー信者の群れを生み出した。

 ――それはたぶん、彼の言いふらす宇宙の物語が今にも妖精が飛び出してきそうなくらいに幻想的でとびきり愉快だったからなのだろう。

 アダムスキーは幸福にも(?)アームストロング船長が月の真実を暴露アポカリプスする数年前に死去した。ある意味彼は最後まで月の夢を失わずにいられた人間だったのかも知れない。


 クロノメーターが普及する19世紀以前の航海者たちにとって、月との角距離を測って現在位置を把握する技術は必須だった。それができなければ自分達が大洋のどこに居るのかすら分からなくなったからだ。月がしばしば航海者の守護神とみなされたのはそのためだという。

 月という手近な観察対象が無ければ、おそらく地球のあらゆる場所で天文学は発生しなかっただろうともいう。より高度な段階に進むための最初の一歩が踏めないのだとか。


 月はずっと人間を未知の海の先へ、天へ、宇宙へ、いざなってくれていた。

 ずっと見ていた月の夢を失った俺達は却ってその先に進めなくなった――?

 月は消えたのか。あるいはもしかしたら我々が消したのか――。


 俺は気がつけばずっとそんな取り留めのない事を考えていたし、ユーリィはまた、もう何百回も読んだはずの本の頁に目を落としていた。

 二人とも黙りこくってしまった。今日はもうこれだけでたくさんだ。


"♪ Fly me to the moon. 僕を月まで連れて行ってくれ…… Let me playamong the stars.……"




               ◆




 21日後。俺とユーリィは面白いものを見た。

 俺が宇宙空間に出て作業していると、監視役のユーリィが「浮遊物に気をつけろ」と忠告した。

 宇宙塵の塊か何かかと思いきや、それはどう見ても人工物で、ゆったりとした速度で編隊でも組むかのような形で、いくつもの物体が地球に向かって引き寄せられていた。

 ユーリィのやつ、その正体に気づいた途端に珍しく声をあげて笑っていたし、ほぼ同時に気づいた俺も作業の手を止めて大笑いして、なぜだか涙まで流してしまった。


 コーナーキューブの反射板、地震計。

 アメリカやソ連の古臭い人工衛星がいくつも。

 そしてすっかり色褪せてしまった旗――。


 それらに混じって飛び、たまたま近くを通り過ぎようとしていたボロボロの金属片を、俺は思わず手に取った。プレートには英語でこう書いてあったのだ。



『西暦1969年7月。惑星地球から来た人間が月面に初めて足を踏み降ろした事をここに記念する。我々はすべての人類の平和のために来た。』

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