第4章―4

 ミロ・スムーカは、身近で人が動く気配に眼が覚め自分が眠っていたことに気づき、ぼんやりとした意識にかかった靄を振り払おうとメガネのつるを何度も押し上げた。

 「おはよう」とすでに起床して出撃準備していたマァイが声をかけてきた。ヘリウムを多く含んだ呼気は軽く、声帯を通り抜けてくるスピードも速く通常より高い声色となった。

 ミロは傍らに降ろしていたバックパックの状態を確認した。昨日消費したヘリウムも、大気から十分補給、気蓄されている。液化モードが起動し、順次完全真空二重構造のシリンダーに液化ヘリウムが満たされる。同じようなサイクルで、窒素や酸素も補充され液化状態でバックパックに充填された。ミロはバックパックの物入れから水酸化ナトリウムの粉末を取り出して反応炉に入れた。大気から補充しきれない水素は、固形物から分子を分離反応させて生成させる。ミロはまだ横になって寝息を立てているアンのバックパックも確認し、不足している水素の分の水酸化ナトリウムをつぎ足してあげた。

 ――世話のかかるコ。足手まといにならないといいんやけど。

 いつもの朝の薄曇の中、姿を隠す太陽の上昇を示す陽光の軌跡が感じられる。簡易ドームは発光をやめ透明に透き通る。周囲に展開した部隊も、ドームの中、出発の準備をしている様子が見える。アルカナが起動し、本日の行軍の予定が立体投影された。

 メインドームからはるか離れたこの場所では、スイードによる通信障害から簡単なデータしか受信できなかった。映像や動画などの重いデータは、サイトロンドームにある超空間通信装置を使って行われた。アルカナのマザーボードはセフィロトに地にあるとされているが、通信施設はメインドームから突き出た中央府のてっぺんにあった。ここでは常時社会基幹システム・アルカナの影響を受けることはない。ミロはアルカナへの通信を一旦遮断し、ケテル専用の社会基幹システム・ダアトを起動させた。

 〝紅の黄昏団〟の創始者マリーナは、アルカナが画策している『アイン・ソフ計画』の意図するところを知り、そのゆりかごから降り立つことを決意した。

 考え判断することを放棄させることによって人間の頭脳を弱らせ、さらにその姿までも人間ではないもの変えようとしている。古生代に栄えた昆虫のように。

 アルカナに頼らず生きるためには、それに代わるシステムの開発が必要だった。ケテルの代表者となり、あっさり自治権――他の地域が与えられている形式上のものではなく――を認めさせた後、マリーナは秘密結社〝紅の黄昏団〟を創設した。その修練施設で、アルカナに変わるシステム・ダアトを開発したメインプログラマーがミロだった。

 マリーナの娘としてアイン・ソフ神から命を与えられ生まれたマァイが、卓越した身体組織の潜在能力を持っていたのに対して、同じ年に生まれたミロは、対照的に頭脳に抜きん出た潜在能力を持っていた。その引き換えにか、ミロの母親は彼女から引き離されたあと精神を病んで亡くなった。

 アイン・ソフ神から命を授かりセフィロトからケテルに帰ってきてからも、未熟児だったミロは黄昏団の施設で保育器に入れられた。その保育器は、生い茂り絡みつく蔦のような電気ケーブルに包まれていた。成長しトーラーに入ってからその時の画像を見せられたミロは、そのケーブルで社会基幹システム・アルカナと、自分の脳が直接繋がっていたのだと教えられた。ケーブルの隙間から見えた赤ん坊の顔は、泣いても笑ってもいなかった。病院の一室に並ぶ保育器はどれも同じようにケーブルでつながっていたが、正常に成長したのはミロだけだった。

 その頃の記憶はもちろんない。だが今でも目をつむると、網膜の裏側から頭の内側に向って、大脳の中に無限に広がる空間の中、アルファベットと記号シークエンスが重力に縛られず無数に飛び交っていた。それはまるで意思をもっているかのように、時折集まってはミロに語りかけてきた。アルカナと繋がっていたミロの脳の中に、いつしかアルカナと同じ小さな回路ができあがっていた。黄昏団の修練所で十ニ才になったとき、マリーナから新たな任務が命じられた。新たな基幹オペレーションシステムを構築せよと。

 ミロはその頭に次から次へと浮び上がってくる神の語りに従い、三年近い歳月を毎日十時間近く端末の前ですごした。小さなアルカナが紡ぐシークエンスを打ち込 みダアトは完成した。

修練所ではマァイと同室だった。自分と違いたくましい体つきをもちマァイと自分の何が違うのか。同じアイン・ソフ神に命を与えられた姉妹であるはずなのになぜ?

 自分の頭の中に広がるアルカナのかけらのなかを、流れ星のように自在に飛び回るミロの自我は、神の切れ端を捕まえては回る日々だった。ある日ミロは彼に問いかけた。 

「ねえ? アルカナ。わたくしとマァイは、なぜこれほどまでに違うの?」

「それは遺伝子が違うからです」

「遺伝子って何? 教えて」

「わかりました」

 ミロの頭に取り残されたアルカナのかけらは、彼女の召使のようにとても従順だった。アイン・ソフ神から命を受け取るためにセフィロトの地下に旅立った者が、アルカナによって記憶を消されるのは、脳内に侵入したアルカナに記憶を持ち出されてしまうからだ。赤子のミロは侵入してきたアルカナを、逆に脳内に取り込み自分のものとした。

 遺伝子という概念を獲得したミロは、完成したダアトを使って、自分とマァイの遺伝情報を走査した。全体のコンマ一パーセントにも満たない僅かな塩基配列の違いが、二つの固体のこれだけの個差を生むことがわかった。

 遺伝子を詳しく調べていく中で、ミロはアルカナが常識としていたことの矛盾を見つけ出した。全員がアイン・ソフを父とするはずなのに、マァイとミロの身体の中には父方に共通起因する遺伝子がないのだ。

 もしかして、我々に命(遺伝子)を与えている存在が別にいて、それをアルカナが隠しているのではないか? そのミロの報告を耳にしてマリーナは確信した。自分たちと違う〝特異な〟遺伝子を持つ存在がどこかにいる。

 アルカナが進めるアイン・ソフ計画の進捗と、隠された遺伝子の存在、そしてアルカナが持つ科学力で開発されたヘリオスーツ。

 この全てをおさえ、マリーナは自分の娘であるマァイに最終任務を託しキベルへと入隊させた。ダアトのシステム全般を把握し、幼い頃から寝食をともにしたミロが、彼女のパートナーとして同時にキベルに入隊した。

 マリーナが十五年かけて準備した計画に実行者として参加できることに、小さな身体が押しつぶされんばかりのやりがいと責任を感じたミロは、それとはまた別の、今まで学んだことのない、どう呼ぶかもわからない感情を抱いていることに気がついた。

 ――わたくし、まだこれからもマァイと一緒にいれますわ。

 ミロは頭の中にダイブしなんでも応えてくれる召使にこの感情は何なのかと聞いてみた。

「ねえ? アルカナ? この感情はどうしてなの?」

「さあ、わかりません。ただあなたの遺伝子がなせるわざかと思われます」

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