チャプター3 Build Me Up,Break Me Down

 わたし……鈴木一は思った。カメラのファインダーを覗きながら、ふと思った。


 どうしてハルなんだろう……と。


 これは、わたしがいままで見たことのない光景だし、たぶん、世界中の誰も、こんな光景を見たことなどないだろう。ハルと会ってからからというもの、いつも驚くことばかり起きてるけど、これは特に飛び抜けていて、度肝を抜かれる程、驚く出来事に違いない。なんせ、ハルとハル同士が闘っているのだから。


 わたしは一体、何を言っているのだろう。


 でも、文字通りの意味であり、ハルとハル。正確に言うと、十年後の……大人になった二十七歳のハルと、今の高校生である十七歳ハルが、地元の競馬場で戦っている。殺し合っているといってもいいと思う。


 わたしはボタンを半押しして、二人のハルにピントを合わせ、シャッターを切る。


 十七歳ハルは、真珠でできているかのような赤紫色のドレスを着ながら、貝で出来ている銃で撃ちまくっていて、アダルトハルのほうは、エメラルドのような甲冑を身につけ、巨大なエメラルドの剣と蜂の形をした盾を用いて、十七歳ハルに斬りかかっている。わたしの肉眼では追いつけるのがやっとのスピードで、二人のハルは、競馬場の外周をぐるぐる回りながら、終わることのない銃撃と剣劇を続けている。攻撃、反撃、応戦、防御をブレイクダンスみたいに繰り返し、冗談みたいなハイスピードで闘っているものだから、ものすごい土煙が上がっていて、オフロード車のレースのようにも見えてきた。


 なんていう映画だったけ……古い映画でこんなシーンを見たことがある気がする。


「ベン・ハーでしょ? ああー確かにー、闘技場のシーンっぽいよねーこれって。ってか、よくそんな古くて、長い映画知ってるわねー」


 ゴマスはのんきに、どこからか持ってきたのか、フリトレーのポップコーンをポリポリ食べている。わたしの隣に立っている中島のぶ代こと、NNも、学校でいるときとあまり変わらない様子で、ジーッと、直立不動の姿勢でハル同士の闘いを、見守っていた。


「……勝手にわたしの心を読むのをやめてくれませんかね」


「ごめんねー。でも、ここは我々の結晶現実でねー。あなたがなにを思うのかも、すべて把握しているのよー。ポップコーン食べる?」


「結構です……それで、最終的にハルが倒されたらどうなるんですか?」


「ハルってどっちのほうー?」


 ゴマスは、意地悪な笑みを浮かべる。たしかに、ハルがよく殴りたいと言っていた意味がよく分かった。


「……わたしの世界のほうのハルに決まってるでしょ」


「鈴木さんのほうのハルが……一〇五が消滅した場合、この世界は強制的に上書きが行われるのー」


「ああ、やっぱりね……」


「和嶋治という存在がはじめから、存在しない世界に書き換えが行われるのよー。上書きセーブってやつねー」


「それじゃ……わたしとハルとの記憶は?」


「消えて無くなるわー、跡形もなく」


 その話を聞いて、わたしは何を思ったのだろう。ハルがいなくなることへの拒絶、記憶が無くなることへの拒否反応。ゾッとした?いや……違う。意外とわたしは冷静だった。自分でも意外だなと感じたほど。


 思ったことといったら、ハルがいない世界でのわたしは、今頃、一体どこでなにをしているのだろうか……ということだけだった。


 ふと、わたしは腕時計を見る。ゴマス……インクルージョンが言うところの、「結晶現実」なので、時計は止まっていた。午前十二時二十五分。いつも通りの、この時間のわたしは、写真屋のバイトから帰ってから、風呂に入り、ネットサーフィンに明け暮れ、LINE、ツイッターを見ながら、ストリーミング配信の映画を観たりとか、ゲームでもして、ダラダラ過ごしているに違いない。それは、この国の女の子だったら、よくある日常の風景なのかも。別にわたしもそれが悪いこととは思ってもいないし、それで十分だった。


 ゴマスの中にいるインクルージョンやNN、ハルたちは、わたしの見たことのないものをどんどん見せてくれる。それは、無意識的に、フィクションのような非日常を望んだわたしの願望そのもので、現に今、わたしの望んでいた非日常というやつが、目の前で繰り広げられている。それなのに、まったくといっていいほど、わたしは何も感じなかった。


 フワフワと気持ちが浮いたような感じ。「無感動」というやつかもしれない。


 思い返してみれば、ハルが初めてゼリ屋であの姿をわたしに見せてくれた時から、わたしが望んでいたような、感動も驚きもなかった。


 わたしの彼女であるハルが未来のハルに殺されるという、この異常事態でも、わたしといったら、ハルを案ずるどころか、自分のことばかり考えている。そんな自分自身に、酷い嫌悪感を抱いていた。


 そういえば、同じようなことを思ったことが、以前あったような気がする。あれは、二日前ぐらいだろうか。




「あれは誰だろう」


 わたしの目の前にハルがやって来た。学校の廊下の向こう側からこちらへ向かってくる。映画とかでよく見るスローモーションで、横並びで歩くシーンみたいな感じで、副会長と書記共々を引き連れて、こちらへ向かってくる。


 ただあのハルは、わたしの知っているハルではなく、生徒会長としてのハルであり、猫背で常に悪態をつき、ゴスロリの格好をして、わたしにベタベタしてくるハルではなく、背筋を伸ばし、制服を完璧に着こなし、丁寧な言葉を使い分け、上品な雰囲気やオーラをまとった、華麗なるハルである。


 そんなハルのオーラに押されたのか、廊下にいた生徒達が、無言で無意識な感じに、道を空けている。以前、ハルが言っていた「生徒会長になって学校を支配したい」という願望をわたしは聞いているので、どうしても、邪な気持ちでハルを見ていた。


 ハルがわたしの目の前を通ると同時に、わたしへ向かって、手を振った。上品に、親指を折り、菩薩のような手をつくり、「ごきげんよう、鈴木さん」と言わんばかりの、人工的に作った顔、笑顔で、わたしに手を振った。いや、振りやがった。


 ……わたしは、そんなハルは嫌だったし、何より不気味でキモかった。そして思わずハルを睨み、顔を背けてしまったのだ。


「え……」と、振り向きながら、わたしを見つめる残念そうなハルの顔を見て、わたしは後悔した。


「やっちまったな……もうっ!」


 教室に戻ったわたしは、机にうつ伏せになりながら、自己嫌悪から頭を机にガンガン頭を打ち続けている。


 いつもわたしはこうだ。この前のフェスの時もそうで、嫌なことがあったりすると、すぐに顔や態度で出てしまう。ハルは「自分に正直なのよ」とフォローしていたが、わたしの場合、目つきが悪いらしく、はじめからそのつもりなんてないのに、ガンを飛ばしているようにしか見えないらしい。


 望んでもいない高身長(本当に自慢じゃなくて)、無口、無表情、天の邪鬼で人見知り、サブカルクソ女というボーナスも付随して、わたしの「近寄るな」オーラは、並々ならぬ凄みと迫力を持っているらしい。お陰様で、サトジョの中学から入学してこの方、ちゃんとした友人というものが一切出来なかった。


「ガン子」「ガン美」やら「ガンター」「ガンダム」などなど、ガンにちなんだわたしのあだ名もちらほら耳にしたりしていて、クラスでも、わたしはそんなレッテルを貼られ、今に至っている。まあ、別に何を言われようと、私は構わないし、もう慣れていた。


 そんなことはどうでもよかった。とにかく今のわたしは、放課後が怖かったのだ。さっきのわたしの態度について、鬼の形相をしたハルが、部室に飛び込んで来るのが目に見えていて、このままじゃ、甘いもの一つでも奢ってあげないと、その怒りを抑えてはくれないだろう。


 はあ……なんで、わたしは彼女の機嫌を必死に取り繕う、彼氏みたいな真似をしなきゃいけないのだろう。


 ハルに買ってあげる甘いものはなにがいいのだろう……甘いもの、甘いもの。それにしても、なんでわたしのクラスはこんなに得体の知れない甘い香りが充満しているのだろうか。どうして女の子の大多数の殆どは、甘いものという存在が好きなんだろう。ハルのように、みんな無意識的にに己の至福点を求めているのだろうか。


 辺りを見渡してみると、昼休み中の我がクラス、一年D組のクラスメイト達は、わたしを除いて、複数のグループで形成されていた。二百円以下で買えそうな、チョコレート、クッキー、キャンディなどなどの虫歯の元凶でもある菓子類を机に広げ、ボリボリ食ってる奴ら。


 わたしがあまり読まないと思う、二次元、三次元の男性アイドルの雑誌を広げる奴ら。


 ティーン向けの服雑誌を友達と読みふける奴ら。


 スマホで課金ありきの中身のないリセマラ連打ゲーで共闘してる奴ら。


 折りたたみの卓上鏡を開いて、マツゲ、マユゲをいじりながら、ハリボーのグミのような甘い香りの香水をシュッシュッとまき散らす奴ら。


 わたしの隣席の奴なんて、コンビニかなにかで買ってきたのか知らないけど、デカイ牛串らしきものをムシャムシャ食ってやがる……一応、サトジョは進学校のハズなんだが、現実の女子校なんてこんなものだ。こんな奴らと、わたしはこれからどうやって接して、仲良くすればいいのだろうかと、わたしはこれからの三年間に対して、得体の知れない不安を感じているのであった。


 ん? さっきわたしは、デカイ牛串と言った? よく見ると、わたしの隣に座っている奴は、見覚えのある奴だった。癖っ毛で髪の白い、男なのか女なのか分からない、中性的な子供のような奴が、わたしの学校の制服を着ている。


「うまい、うますぎる」


 以前ゼリ屋でゴマスから紹介された、ハルとわたしを監視すると言っていた、ダイヤのような肉体を持つ、ネームレス・ネゲントロピー……NNと呼ばれる少女がそこにいた。牛串を食べながら、埼玉県のローカルCMみたいなことを言っている。


「おい……なんでお前がココにいるんだよ」


 NNは牛串を食べるのを止め、キョロキョロしながら、辺りを見渡す。


「お前だよ、お前。白昼堂々、この学校で一番ふさわしくないモノをムシャムシャ食っているお前のことだよ」


「はあ……放っておいてくれませんか……スパムとコンビーフあげますので」


「いらねーよ! どんだけ肉持ってるんだ! っていうか、どうしてお前がココにいる? いつから? いつのまに? 確か、そこの席、別の人だったよね?」


 詰め寄るわたしに、NNは学生鞄からゴソゴソと何かを取り出した。取り出したはずみで、鞄からゴロゴロとスパムとコンビーフ、鶏そぼろの缶詰が落ちてくる。ほんとに……どれだけ、肉が好きなんだコイツ。


「はあ……質問が多いな。わたしはお前じゃない。中島のぶ代という名前がある」


 NNはわたしに学生証を見せつける。ムスっと、不機嫌そうな顔をしている中島が写っている写真が貼られ、わたしのクラスと、出席番号がデカデカと載っていた。


「へー、よくできた偽物ね。っていうか、のぶ代ってなによ? ふざけてんの? どっかの国民的青狸ロボットの中の人みたいな名前しやがって」


「偽物もなにも、本物に決まってる。ついさっき……正確には、十秒前くらいに、上書きされて、わたしは初めからこの学校の生徒ということになっている。はあ……名前については、放っておいて。上の奴らのネーミングセンスだから」


「上の奴ら? 上書きということは、これもあなた達、インクルージョンの仕業ということ?」


「はあ……そういうこと。ちなみに、わたし……中島のぶ代は、あなたと幼なじみという設定になっています。七歳、つまり鈴木さんが、小学二年生の頃、以前、鈴木さんが住んでいたマンションの二つ隣に引っ越してきた天使のように大変可愛らしい、日本人とスラブ系ロシア人とのハーフの子供で、これまでお互いに親友として接してきたの。それから、同じ中学、高校へと進学し、今に至っているという設定だから、それを忘れずに」


「はあっ? なんじゃその突貫工事みたいな設定! 幼なじみ? 親友? あんたと?」


「設定もなにも、事実よ。そういう、現実に上書きされたのよ。わたしも、不本意ですけどね。だ・か・ら、設定や名前については、放っておいてください」


 ツンツンとそう言って、中島は、またムシャムシャと牛串を食べ始める。


「……なんでわたしなの?」


「え?」


「どうして、ハルの側にいないの? あなた、ハルの監視役でしょ」


「……はあ」


「なに黙ってるのよ」


「それは今のところ、わたしにもよく分からない。わたし、NNユニットは、上の奴らの言うがままですし……まあ、和嶋さんに何か異変があれば、すぐに駆けつけますので、それだけは安心して。それに……」


「それに?」


「上からの命令だと、わたしは鈴木さんも保護してやって欲しいと言われている。ミネラルウェアを持つ、和嶋さんならいざ知らず、ごく一般人である鈴木さんの方が、優先的に護衛するのは当然だしね。だから上の奴らも、わたしを鈴木さんの側に置いたと思う」


「わたしを護衛って……なにから、守るのよ?」


「はあ……それは」




「それはねー、和嶋さん以外のミネラルウェア所有者が、和嶋さんの一〇五を奪いに来るからなのよー。鈴木さんには、その接触時の戦闘で、なるべく巻き込まれたくないのよー。だから、NNをあなたの側に置いたのよー」


 その日の放課後、わたしとハルは、ゴマスの車で移動していた。助手席には、中島がチョコンと、座っている。ゴマスがアクセルを踏むと、聞いたことのないようなエンジン音が聞こえてくる。


 ゴマスってもしかして、家が金持ちなのだろうか、まだ三十歳にもなっていない筈なのに、クラシックなアストンマーティンに乗っていやがる。わたしは、車にあまり詳しくはないけれど、アストンマーティンと言ったら、ジェームズ・ボンドがよく乗るイギリスの高級車で、地方の私立高校教師の給料で買える代物ではないのは、わたしでも充分知っていた。ひょっとして、この車自体もインクルージョンが作り出したイミテーション、模造品ってヤツなのかもしれない。


 わたしの所属する写真部の顧問であり、インクルージョンという得体の知れないなにかが、「間借り」しているゴマス。今日から、わたしの幼なじみ兼、護衛役となった中島のぶ代が、今のハルとわたしが置かれている立場を淡々と説明している。中島は相変わらず、コンビニで買ってきたデカイ唐揚げ棒をハフハフと言いながら食っていた。


「えーっと……ちょっと待ってください……そもそも、どうしてハルなんですか?」


「前にも言ったと思うけど、わたしは訳の分からない運……因果律というものが強いらしくて、訳の分からない飛行機のエンジンにぶつかって、訳の分からないまま一度死んで、訳の分からないこいつらに無理矢理、訳の分からず生き返されたの。因果律を結晶化した一〇五という訳の分からないものをわたしに埋められて、ミネラルウェアという訳の分からないものに変身できて、わたしの一〇五を奪おうと、そしてわたしと同じ一〇五とミネラルウェアを持つ、訳の分からない奴らから、わたしは訳も分からず戦うしかないみたいなのよ……いまわたし、訳の分からないって、何回言ったけ?」


「九……十回です」


 中島がサラっとそう答える。ハルはわたしがコンビニで奢ったサーティンワンのパチパチするアイスをパクパク食べていた。


「だっておかしくない? 因果律って、悪運とか強運みたいなものでしょ。ありえない死に方をする強運ごときでそんな力を手に入れるなら、この世の人間……七十億人分の中にはハルみたいな能力を持つ人間で溢れてしまうことになる。ありえない死に方?ハル以上に理不尽な死に方をする人なんてごまんといるはずなのに……だから、どうしてそれがハルなんですか。これじゃあなた達、インクルージョンが、はじめからわざとハルだけを狙って、やっているようにしか見えない。他に何か裏があるかのようにしか……」


「おーいいとこついてるねー。さすが、和嶋さんの恋人だけあるわねー」


「茶化さないでください」


「別に茶化してないわよー。こう見えても、我々は意味がないことはあまりしないのよー。あなた達をここに連れてきたのもねー」


 気がつけば、車の外は、住宅街の景色ではなく、西日が差す薄暗い森の中だった。カーナビを見てみると、ここは船橋市街から遠く離れた森の中らしい。この森の付近に、ふなばしアンデルセン公園という、池やアスレチックがあるだけの公園がある。


 どういうわけだか、この公園が最近、メディアで取り上げられて以来、何故だか爆発的に人気が出てしまい、根っからの地元民から考えると、なんで今更人気が出たのかよく分からない、大きな公園がある。


「いずれ、なんで我々がこんなことをしているのか分かるわよー。物事には順序というものがあるからねー、第一、はじめからネタバレなんて、映画好きのあなたちだってゴメンでしょ?」


「ネタバレだってモノによるわよ。この場合、初めからネタバレしてくれたら、大変ありがたいんですけどね。こんな森へ連れてきて、一体なんのつもり?」


「んー、部活よー」


 ゴマスは、写真を撮るポーズをする。


「は? なにを言ってるの……」


「一応、ここも心霊スポットですよね。船橋県民の森といったら……ダルマ神社とかが」


「おーさっすがー鈴木さん。そうそうー、せっかくの写真部なんだしー、部活動しないでどうするのよー。だから、顧問である我々がわざわざ心霊スポットへと案内してきたのー。どうやら、あなた達って、心霊写真に興味があるみたいだしねー」


「いえ……むしろ、そっち系に興味があるのはハルのほうですよ」


「車に乗るとき、わたしらのカメラと三脚も持っていけと言ったのは、そういうことね……ま、いいわ」 


 ハルは車から出て、カメラと三脚の準備をしている。


「え? それでいいの、ハル?」


「あんたらは意味がないことはしないんでしょ。郷に従えってやつ……ええ、従ってやるわよ」


「いいねー和嶋さん。その意気だよー。そうじゃないと、我々も困る」


「困るのはこっちのほうなんですが……」


「大丈夫よー、仮に幽霊とかが出たら、NNに処理させておくから、安心してー」


「わたしが言いたいのは、そういうことじゃなくて……」


 ゴマスは、鞄から古い初期型のゲームボーイを取り出し、カチャカチャとレベル上げのようなことをしている。がむしゃらにレベリングをしているゴマスの目が、妙に怖いと感じた。


「もう……分かりましたよ!」


 気づいたら、わたしもカメラと三脚を車から取り出し、すぐにハルの後を追っていた。


 ダルマ神社。地元民で、なおかつ心霊好きなら、知らない者はいない心霊スポットのひとつである。県民の森の奥深くにあり、神社の奥にある祠に、呪術で使われているダルマ(なんじゃそりゃ)が奉られているらしい。その呪術ダルマの霊験あらたかな効能のお陰か、夜な夜な女性の幽霊や、浮遊する神輿の目撃情報があり、今はだいぶ少なくなった、心霊番組でもよく取り上げられているぐらい、有名な場所でもある。


 まあ……そんな情報、今はどうでもよかった。今は、心霊スポット云々より、ゴマスがなぜここへ連れてきたという事が重要だった。以前のゼリ屋同様、なにかロクでもない事が起きるのは間違いないだろう。


 テクテクと、わたしとハルは薄暗い森の中を歩き進んでいた。一緒に歩いているハルは、さっきから黙ったまま三脚に取り付けたカメラを抱えて、ゆっくりと歩いていた。やはり、わたし同様ハルも警戒しているのだろうか。


「ねえ、ハジメ。暗いところの撮影って、感度はどれくらいがいいの?」


「えっと……基本、暗所はバルブ撮影なので、マニュアルモードにして、感度は100、絞り値は8ぐらいが……って、そうじゃなくて! ハルは怖くないの?」


「そりゃ怖いよ……でも、一度死んじゃって、こんな体になっているわけで……今更、幽霊を怖がるのはどうかと思うけど」


「いや、幽霊の話じゃなくてさ……この後、なにが起こるか、ハルは怖くないの? ゴマス、絶対なにか仕込んでくるでしょ」


 ハルはピタっと、足を止める。


「わたしは……わたしは、ハジメに嫌われるのが一番、怖いよ」


「え?」


「今日の昼休みごめんね……さっき、ハジメが必死に謝っていて、お詫びにって、アイスも買ってくれたけど……ううん、むしろ謝るのはわたしのほう。調子に乗り過ぎていたのかも」


「昼休みって……今、なんでその話をするの?」


「だから、わたしが一番怖いのは、ハジメに嫌われることの話。わたしね……こんな風になっていても、案外、幸せなのよ。また、こうやって一緒に、学校で出会って、心霊スポットで写真を撮りに行けるということがね。ゴマスがなにか、仕組んでいるのは分かっているよ。でも、今はこの状況を少しでも享受したいの、だからさ……お願いなんだけど……ハジメ」


 ハルはギュッと、わたしの手を両手で握る。


「こんな状況に巻き込んでおいて言うのもアレなんだけどさ……これまで通り、普通に和嶋治と鈴木一というカップル同士で、付き合い続けて欲しいの……わたし……もし、ハジメがいなかったら、ハジメが今日、お昼で見たあんな顔でわたしを拒絶していたら……わたし……わたし……もう、耐えられないかも」


 ハルが握る手がギュッと強くなる。こういう時、わたしはどうすればいいかと考えていた。付き合っている彼女がナイーブになっているとき、わたしはどうすればいいのだろうか……気付いたら、わたしはハルのことをギュッと、軽く抱きしめていた。


「大丈夫だよハル……わたしはハルのことを見捨てたりしないし、わたしは見届け続けるよ。ハルのこと好きだからね」


「好きだから」……わたしは、そう言ったとき、また酷い自己嫌悪に陥っていた。こんな時なのに、本心で言っていない自分自身に気付いていたから。


 そんな、どこかドライで冷めたような感じ。勿論、ハルのことは大好きだし、大切にも思ってるし、ハルから積極的に信頼されているのも、とても嬉しいし、こういう状況になっているハルにとても同情している。


 ……それなのに、そんなわたしを第三者視点TPSのゲームのように、俯瞰しているわたしがいた。さっきのひたすらレベル上げをするゴマスのような冷めた目で、わたしを見つめるもう一人のわたしがいるみたい。なんだろうこの気持ち。その時のわたしはそれが、うまく説明できなかった。


 抱き合っているわたし達のすぐ後ろで、車が横切る。ダルマ神社の付近は、地元民の通り道にもなっているようで、意外と車の往来が激しい。ゴマスの奴、来る時間を間違えていやがる。夜、街灯がないこの森は、完全な闇に包まれるらしいが、まだまだ、森の奥の方を見渡せるぐらい日が高く、心霊スポットとしての威力は弱すぎた。そんな雰囲気を察っしたのか、ハルは慌てて、わたしを抱くのを止めて、コホンとわざとらしい咳をする。


「ま……まあ、やっぱりハジメだって悪いんだからね。あんなあからさまな嫌な顔をして、わたしをからかって、動揺させた罪はデカいからね」


「ふふ……別にからかってもいないし、あれは本心だよ。でも、逆に考えてみて、わたしはサトジョで唯一、本来のハルの正体を知っているわけだし、だからこそあんな態度が出来るわけだよ。それって、ある意味特別なことだって思わない?」


「うっ……うーん、そう言われてみたらそうだけど……うーん? うまくハジメにうまく丸め込まれたような気も……ああっもう! さっさと、この辺の写真を撮って帰るわよ!」


 妙に納得がいかない顔をしたハルは、そそくさとダルマ神社の入り口の鳥居に向かった。


 ダルマ神社の入り口の鳥居は、さっきの道路のすぐ脇にあり、鳥居をくぐって、一本道の狭い参道の向こう側に、問題のダルマが安置されている祠がある。


「なんか思ったより、期待外れね……」


 ハルはダルマ神社の鳥居を見て、そう言った。心霊スポットの鳥居としては、確かにキレイなほうの鳥居だった。


「時間が……まだ、早すぎるよね。この明るさじゃ雰囲気もなにもないじゃん」


 わたしは、カシャカシャと、その鳥居を撮影する。写真には、霊的なものは写っていなかった。スマホで調べた情報によると、このダルマ神社の鳥居をくぐると、霊と遭遇しやすいとのことらしいので、霊にどうしても会いたいわたしたちは、勿論くぐろうとする。


「一応、神社だし……」


 わたしとハルは、鳥居の前で一礼をした後、二人で一緒に入ろうとする。


「じゃあ……いっせーのせで、くぐるよハジメ」


「なによ、いっせーのせって……やっぱり、ハル怖がってるじゃん。まだこんなに明るいのに……どんだけ、ビビリなの」


「ち、違うのよ、ハジメが余計な事言うからよ! 鳥居をくぐると、霊に遭遇しやすいなんて言うから……」


「あーハイハイ……どうせわたしが悪いですよ。んじゃ、とっとと行きますよー」


「ちょ、ちょっと待って! ハジメ!」


わたしは嫌がるハルを引きずりながら、鳥居をくぐる。するとどうだろうか、急に辺りが眩しくなった。


 雷? それとも、脇を走る車のヘッドライトかもしれない。


「……ハ、ハジメ……なんか、寒くない?」


 小さな声で、寒がりのハルはそう言った。


「コールドスポットですかね。霊体とかが、気温吸い出だしたり、別宇宙の入り口だったりするっていう……その正体って大体、すきま風とか、風通しのいい場所とかそんな感じなんですけどね」


「じゃあさ……今、わたしが吐いてるコレも、すきま風っていうのかなぁ」


「えっ?」と、わたしがハルのほうを見ると、吐いてる息が白かった。そして、妙に眩しい理由が分かった。


「雲が高いな……ヘ、ヘックショイバーロー!」


 と、ハルが、おっさんみたいなくしゃみをする。


「さっきまで、夕暮れだったよね……太陽が真上にあるのは気のせいかな……それに……こんなに、木が枯れてましたっけ?」


 わたしは、あたりを見渡す。


「どうみても、これって……ハジメ」


「冬……季節が……ちらほら、雪っぽいのも見えるし……これも、ハル、この現象もゴマスの仕業なの?」


「分からない……でも、そこの鳥居をくぐっただけで、冬になるなんて、インクルージョンにしか出来ない芸当でしょ……これも、結晶現実ってヤツか……なっ?」


 ハルが指す向こう側に、がいた。ダルマ神社は本殿でもある祠の手前に、かつて休憩所として使われていたと思われる廃墟があり、その「誰か」は、その廃墟の屋根の上で座りながら、わたし達のことを見ていた。多分、はじめからわたし達がくることを分かっていたかのようで、あぐらをかいて、余裕な態度のように、わたし達を見ているような気がする。


 まだ、遠くからでよく分からないけど、黒髪の長髪と、スラっとしたフォルム、「ゼルダの伝説」に出てくるコキリ族のような緑色のワンピースっぽいものを着ていることから、恐らく女性なんだと思う。


 そして、わたしは以前、その女性に会ったようなことがある気がした。わたしは、思わずカメラを構えて、その誰かに向けてシャッターを切った。五十ミリの単焦点レンズじゃなくて、ズームレンズを持ってくればよかったなと、思った。


「ギャーッ! オバケッ!」


 ハルは、今時の女の子なら絶対言わないような、古くさいリアクションをする。


「オバケなわけあるか! アレが、ハル以外の一〇五を持っている人間っていうこと?」


 バキッと、わたしの右横で、枝が折れたような音がする。音のする方を見ると、木がウネウネと動いていた。それが木などではなく、岩石のような硬い何かが動いていて、メキメキと音を立てながら、段々と、人のような形へと変貌していく。


「あれってスレンダーマン?」


 ハルも、カメラのシャッターを切る。その、スレンダーマンなのか、人のような何かは、ナナフシやカマキリに近い、昆虫のような、長細いフォルムをしていて、顔、手足などが、剣のように、鋭く尖っていた。


 まるで、薄く、尖ったそのフォルムから、はじめから攻撃する為だけに、デザインされた現代の武器や兵器のようにも見えた……ん? 武器だって?


「ハル、気をつけ……」


 わたしがそう言うと、足下にハルのカメラが転がっていた。落としたのかと思い、それを拾い上げて、ハルのほうを見ると、ハルが宙に浮いていた。胸からお腹のあたりに、無数の剣のようなものが突き刺さって、ハルは浮いていた。身長は二メートルを超えるだろうか、人の形をしたナナフシみたいな人間が、ハルを背後から、メッタメッタに突き刺していた。


「ハ……」


 映画とかだと、「イヤー!」とか「ノー!」と、叫ぶけれど、こういうグロテスクで、ショッキングなものを生で見ると、恐怖のあまり、リアクションとか、そういう言葉なんて何も出ない。ただわたしは、串焼きのように、突き刺さったハルを呆然と見ることしか出来なかった。


「あー……クソ、クソッタレ! また制服に穴を空けやがって……替えはあるんだよな、青狸!」


 もう駄目だと思ったハルが、以外とケロッとした顔をして、刺さったままの格好で、いつものように悪態をついている。


「はあ……青狸はやめてください。他ミネラルウェア所持者とのコンタクトを確認、ソフトシェルを解除、ハードシェルへの相転移を開始。ミネラルウェア、ソリタリーシェルを起動」


 いつのまにかわたしの後ろに、中島がいて、ハルに真珠で出来た鍵、「ミネラルキー」と呼ばれるものを放り投げていた。ハルは、メガネを外し、右のわき腹にある鍵穴にそれを差し込み、思いっきり回す。


 ガチガチと、氷が割れるような音がする。ハルの右手が、ルービックキューブのように、細かいブロックのようなものが高速で振動、回転しながら動き回り、一瞬で銃のようなものに変わる。その銃を自らをメッタ刺している、ナナフシ人間に、ゼロ距離で数発、撃ち放つ。


 バッギャ! バッギャ! と、空気を裂くような鋭い音と共に、ナナフシ人間は、ジェンガのようにバラバラと崩れ落ちる。


「ハジメ! 大丈夫?」


「それはこっちの台詞だよっ!」


 ハルの肉体は、ナナフシ人間に数カ所貫かれていて、穴の向こう側が微かに見えていた。普通の人間ならば、その穴から血やハラワタ的なものが吹き出すはずなんだと思うけど、ハルの貫かれた体からは、赤い鮮血ではなく、白い粉のようなものが、サラサラと吹き出していた。ハルの肉体が真珠に近いものなら、それは、真珠の粉末だろうか。その、ハルの有様を見て、やっぱり、ハルは人間でないものになってしまったんだな……と、わたしは改めて思い知った。


「この粉って、真珠パウダーみたいなもんだから、顔に塗ったり、飲んだりしたら、美容に効くかしら。古来から、クレオパトラも楊貴妃も飲んでいたって、胡散臭いテレビショッピングでも言っていたんだけどさ」


 ハルは自分から流れ出している粉をまじまじ見ながら、呑気な事を言っている。バキバキと再び、わたし達の周りで、ナナフシ人間が、躍動する音がする。気がつけば、さっきハルが倒したナナフシ人間が、数体……いや、十を超える数に増えていて、わたしたちを取り囲んでいた。


「ハル、これって……完全にマズくない? あいつらって、ゴマスが寄越したイミテーションっていうヤツなの?」


「ううん、違う。ゴマス達、インクルージョンは、石英や水晶の肉体だったけど、こいつらは、鉱物の種類が違う。色が青、緑、黄色にピンク色……アクアマリン、エメラルド、ヘリオドール、モルガナイト……要はこいつら全員、緑柱石のイミテーションってことね」


 ハルは、さっき粉砕したナナフシ人間の一部を拾い、ポイポイと、わたしに放り投げる。ナナフシ人間の一部でもある緑色の鉱物は、ナメクジのように、ウネウネとわたしの手の上で動いていた。「ひっ」と、わたしはビックリして、それを放り投げる。そして、それをキャッチするゴマス。いつのまにか、ゴマスもノブヨ同様、いつのまにか、この空間に入り込んでいた。


「さっすがー、和嶋さんねー。そうよ、目の前にいるのが、まさしく我々や和嶋さんとタイプの違う、イミテーション、そんでもって……」


「ミネラルウェアの仕業ということね。つまり、こいつらをわたしに寄越した親玉というのが、わたしが倒すべき敵ということ」


「そういうことー」


「そういうことじゃないわよ! なんで、こうなることを始めから、ハルに言わなかったのよ!」


「まあ、そんなに怒らないでー鈴木さん。我々も、まさかこんなに早く、相手が干渉してくるとは思わなかったのよー」


「干渉ですって?」


「うん、見ての通り、ここは結晶現実という奴でねー、結晶現実というのは、こっちから干渉することも出来るし、あっちのほうから、こっちのほうにも干渉することもできるのー。ココはあっち側の結晶現実みたいでねー、まさか、和嶋さんの初戦の相手が、イミテーションを使役できるほどのグレーディングとはねー、こりゃかなりヤバイかもー」


「あっちこっちヤバイかもー、じゃねえっ!いきなり、後ろから刺されたこっちの身にもなれ!」


「あっち側の結晶現実ってどういう意味なんですか?」


「ん? あっち側って、これから和嶋さんが戦う、一〇五所有者の現実よー。我々が立っているこの場所は、本来の現実ではなく、外側の現実よー。我々はあくまで、お客様なのだからー」


「……これを言うのは、何十回目かもしれませんが……」


「あーっ、もうっ! 訳が分からないっ! 要はこいつら全員、ぶっ壊せばいいんでしょ!」


 投げやりなことを言ったハルは、銃を持たない左手から、どこから取り出したのかが分からない、野球ボール程の大きさを持つ、デコボコした、歪な巨大真珠をポンと宙に放り投げ、それを思いっきり、サッカーのように、蹴り飛ばし、奥にいるナナフシ人間の頭部にクリーンヒットした。


 そして、その巨大真珠が、粉塵爆発のような、白い爆煙を起こし、轟音を立てながら、爆発四散する。クリーンヒットしたナナフシ人間、すぐ側にいた仲間共々、その真珠の爆発に巻き込まれ、あっという間に粉々になって、崩れ落ちる。


「……今のどうやったのハル? 爆弾みたいだったけど……」


「クラスターと、我々は呼んでいるよー。カルシウムとスペシャルブレンドの弾をミネラルウェアの特性を利用してねー、グレネードに変えたものよー」


「スペシャルブレンドの爆薬って……まさか、ゴマス、それって炭化カルシウムとかじゃないでしょうね……」


「さっすがー、和嶋さん。学年トップは伊達じゃないねー。そう、炭化カルシウムー。カーバイドとも言うよね、ミネラルウェアを通しているから、ほぼ百パーセント純粋なものよー」


「水をぶっかけるだけで、爆発するようなシロモノがわたしの体内で、生成されっていうの!」


「それにしてもー……燃焼したカーバイドから発生する、このアセチレンガスというのは、凄い臭いよねー。あークサイクサイ……」


「ウンチ、くはいいから、ゴマス。現国の先生でしょ、いつから化学の先生になったのよ」


「今、ハジメさん、さりげなく、ウンチって言わなかったー?」


「いや、本当にクソッタレだな……後で覚えてろよ……」


 ハルはゴマスを睨み、ナナフシ人間達に、駆け出す。ハルの放った、爆弾が戦闘の号砲みたいなものだった。無数のナナフシ人間がハルに襲いかかってきた。


 ナナフシ人間達は、手足をガタガタ震わせて、重力を持った残像みたいな速さで、剣の手足を用いて、二足歩行なのか、四足歩行なのかよく分からない、不規則かつ不安定、予測できないキモイ動きを、グルグルと転げ回りながら、渦巻きのように、ハルへ斬りかかる。


 素人目から見たら、避けきれない動きのはずなのに、ハルはそれをボクシングのデンプシー・ロールのような、ユラユラと、右、左の上体の動きでかわし、時々、しゃがんだり、アクロバットにジャンプしながら、スレスレのところで避け続ける。それを避けながら、右手に持つ銃で、ナナフシ人間をほぼゼロ距離で撃ち抜く。


 銃対剣。当たり前だけど、ハルの銃は、こういう接近戦に、有利に働くのかもしれない。ナナフシ人間の刃先が届く範囲の外にいる奴も、ハルは剣先を避けながら、「ついでに」という感じで、蜂の巣にする。


 避けて、撃つ、避けて、避けて、撃つ、避けて、撃つ、撃つ。


 ハルは、一連の動きを、音ゲーみたく、リズミカルに、それを繰り返していく。ハルの目は「プロポーショングリッド」と呼ばれる、補助ソフトの力を借りていると、前にゴマスが言っていたが、ハルも、プログラムされた機械のように、それが当たり前のような感じで、事務的に、淡々とナナフシ人間をダンスを踊るように、倒していくのを見ていると、わたしは何だか、そんな姿のハルにゾッとした。


「別に、ゾッとしなくてもいいわよー。ああ見えても、まだまだ和嶋さんは、経験不足だしねー。結構、必死なのよー、和嶋さんは」


「だからと言って、これは異常でしょ……って、わたしの心を読んだ? ゴマスってテレパスなの?」


「違うわよー。制限もあるけど、我々は基本、結晶現実では、何でも出来るのよー。鈴木さんの心を読むことなんてねー、造作もないことよー」


 わたしは、心の中で「ゴマスリのウンチ、ゴマスリのウンコ、ゴマスリのウンポコ」と唱えた。そして、ゴマスのゲンコツが飛んできた。


「何でよっ!」


「いやー、今のは読まなくても、何を言っていたのかは分かるわよー。それにしても、女性に対してウンコ三段活用はないんじゃないのー?」


「……そんなことより」


「そんなことじゃないでしょー?」


 ゴマスが、笑顔でグーを作る。


「……ゴメンナサイ。ハルは、このままで大丈夫なの?」


「大丈夫って?」


「このままじゃ、ナナフシ人間が、ハルを殺しちゃうんじゃ……」


「あー、大丈夫でしょ。和嶋さんのグレーディングなら、イミテーションぐらいじゃ、造作もないよー。ここだけの話、銃型のミネラルウェアって、我々が観測した限りだと、和嶋さんしか持っていないしー、一方的にやられる心配はないよー」


 と、ゴマスが自信満々に豪語したのも束の間、ハルがツルーン! という、昭和のマンガのような、オノマトペが飛び出すほどの、壮大な転び方をする。


「え」


 ……と、わたしとゴマス、中島でさえも、「え」っと、同時にハモる。うつ伏せに倒れたハルは、そのままの状態で避けきれる訳でもなく、ナナフシ人間達に、一斉にメッタ刺しにされる。


「ど、ど、ど、どういうことかなー。NN?」


 動揺しているゴマスを見るのは、初めてかもしれない。


「はあ……恐らく、真珠の弾です。地面に転がった撃ち漏らした真珠に足を滑らせて……」


「ハ……ハハハ……なんだよ、その転び方、マジウケる……じゃなくて! ちょっと、ハル! 冗談でしょ?」


 ハルをメッタ刺しにしていた、ナナフシ人間達の四肢と、頭部が一斉に吹っ飛ぶ。右手の銃はまだ使えるようで、動いている腕を振りかぶって、ハルは引き金を引き続けた。


 ハルは生け花の剣山のような有様で、ハルの首からお腹にかけて、無数の鉱物の剣に貫かれていた。地獄絵の針の山みたいな感じで、生きているほうが、なんだか変な感じだった。わたしは、そのあまりにも、痛々しいその姿のせいで、わたしはハルに駆け寄っていた。


「ハ、ハル! 起きてよ!」


 ハルはわたしの呼びかけに答えるかのように、ゆっくりと、うつぶせの状態から、仰向けに寝返り、呆然とした目で、虚空を見つめていた。ハルの瞳は、貝の裏側のような、ギラギラとした虹色に輝いている。


「……女の子だったらね……一度は、数え切れないほどの宝石に囲まれてみたいという願望があるかもしれないけど……しれないけどさ……数え切れないほどの宝石に串刺しされるなんて、聞いたこともない話だよっ! クソッタレ!」


 ハルは「クソクソ」と連呼しながら、お腹に刺さった鉱物の剣を銃の底を使って叩き割っている。


「ハジメ、見てよコレ……こんなバカデカい、エメラルドの原石、見たことがないよ……五十カラット以上はあるよね……いくらぐらいで、売れるかな……」


「こんなときに何を言っているのよ! 動ける?」


「あー、駄目っぽい。だからさ、キスして、おっぱい揉ませてくれない?」


 ハルは、まだ動かせる左手をワキワキと、わたしの胸を揉もうとする。


「親父かっ!」


 わたしの後ろからゴウンッと、何かが飛び去る。そして、ハルの左腕が、瞬く間に、火花を散らしながら、切断され、何かが勢いよく地面に突き刺さった。


 その何かは、巨大な……緑色の光沢を放つ剣だった。さっき、ナナフシ人間が、振り回していたものよりも、一段と巨大であり、わたしの身長を優に超え、長さは三メートル、横幅も五十センチ以上はあるだろう。「ファイナルファンタジー」に出てきそうな、一般の人間が振り回すには、到底不可能なぐらいの、冗談みたいな剣である。


 それが、ハルがわたしの乳を揉もうとした左腕を肩の根本から、丸ごと切断した。ハルは右手の銃を構え、その剣を投げてきた奴の方向に向かって撃とうとする。


 すると、今度は巨大な板のようなものが飛んでくる。ハルはわたしの目の前で、その板ごと吹っ飛ばされ、森の巨木にハルの身体ごと巻き込んだ。


「えっ?」


 それは、ハルの左腕が吹っ飛ばされて、三秒ぐらいの出来事だろう。あまりにも、一瞬の出来事で、わたしは呆然とする。


「……イチャイチャしているところ申し訳ないけどさ、あまりにもウザかったら、思わず手が出てしまったの。あなた達、少しはTPOを弁えたら……それにしても、肩すかしにも程があるわ。上位グレーディングだからって、長期戦は覚悟していたから、イミテーションクラスターも用意したのに、なによこの様……」


 声のするほうを見ると、鎧の騎士がいた。比喩とかそういうのじゃなくて、よくフィクションで見る、絵に描いたような、西洋風の鎧の騎士が、こちらへ歩み寄ってくる。その鎧の騎士は、面で顔は分からないが、さっきの口調から、たぶん女性なのだろう。鎧の表面が、ハルの左腕を切断した剣同様、緑色の光沢を放っている。鎧の女は、ハルと同様のものを持っていた。


「ミネラルウェア……っていうか、なんだその格好」


「そう、ミネラルウェア。こういう状況だと、それ相応の覚悟の格好が必要でしょ。勝負服というやつかな……いや、これがわたしのドレスコードよ、鈴木一さん」


 以前、どこかで聞いたことのある台詞だ。


「……どうして、わたしの名前を知っているの?」


 鎧の女は、わたしの目の前で、剣を引き抜く。剣が発砲スチロールで出来ているかのように、鎧の女はヒョイッと、それを軽く拾い上げる。


「わたしはあなたのことを、あなた以上によく知っているよ」


 鎧の女は、左手を挙げると、さっきハルを吹っ飛ばした板が、生き物のように、勢いよく戻ってくる。それは、剣同様、縦横の直径が、一メートルを超す、巨大な盾であり、盾のデザインが、蜂のようなフォルムをしていた。いや……フォルムというより、その蜂は生きているかのようだ。羽を広げ、六本の足をカチャカチャ動かしながら、鎧の女の左腕に止まり、そのまま羽をたたみ、盾の形状へと変化していく。


 盾が外され、巨木にめり込んだハルが、そのまま地面に崩れ落ちた。文字通り、岩のように崩れ落ちたのだ。右手の銃が、根本の腕ごと切断されていた。ハルは両腕をやられ、気を失ったのだろうか、ピクリとも動かない。鎧の女は、倒れているハルに剣を構え振りかぶる。


「やめてっ!」


 わたしは絶叫した。鎧の女は剣をフルスイングする。低い轟音が響き渡り、空気が揺さぶられる。あっけなく、ハルがやられたと思ったが、ハルはそのまま、倒れたままであった。


「フフ……安心して、まだ殺してはいないよ。今はね」


 鎧の女は、さっきハルが投げたような、クラスターと呼ばれる鉱物の原石のようなものを、あたり一面にばらまく。


「まだ殺すなって、インクルージョンから言われているけど、このままフラクチャー化しないと、どちらにしても、こいつらに殺されるわよ。まあ……わたしにとっちゃ、手間が省けるからいいんだけどさ」


 鎧の女が放り投げた、鉱物から氷が割れたような音が聞こえる。また、あのナナフシ人間が現れるのだろう。わたしは、ハルに駆け寄り、両腕を失って、ヒビだらけのハルを揺さぶり、必死に起こそうとする。


 ハルは、虹色の瞳を開いたまま、再び虚空を見つめている。まるで人形のような瞳をしていて、一瞬、本当にハルが死んでしまったのではないかと思ってしまった。


 カチリ


 そんな、音がわたしのすぐ後ろで鳴った。振り向くと、中島が、切断されたハルの銃を持ち、ハルの腕をストックにして肩に置き、ライフル銃を構えるかのように、その銃口をハルに向けていた。


「中島……これはいったい、どういうつもり?」


「はあ……どういうつもりもなにも、今すぐ和嶋さんを撃たないと、この状況を打破できない」


「だからっ! どういうつもりよ! 中島! それともなに? ハルはもう動けないからって、とどめを刺すっていうの? 用済みだから? それって、あまりにも勝手じゃない!」


「はあ……これは和嶋さんの為でもあって……」


「なにがっ! ハルの為よ! どこの世界で人に銃を向けておいて、信用しろっていう奴がいるの!」


「はあーっ……やってられないわね」


 中島は、深いため息をついて、わたしの足下に、銃を放り投げる。


「鈴木さん。いますぐ、和嶋さんにそれを撃って。まだ、我々を信用していないのは、十分承知しているし、それを撃って和嶋さんが死ぬかもしれないと、危惧しているのも分かっている。でも今は、細かいことを考えないで、撃ってくれない? このまま、それを撃たないと、和嶋さんは殺され、一〇五を奪われるのよ」


 ゴマスが、いつものウザい喋り方を止め、真面目な顔で言っている。


「……あんたら、インクルージョンで、なんとかならないの?」


「我々はあくまで、傍観者に過ぎない。これは、あなた達の戦いだからね」


 わたしは、何も分からないまま、混乱した頭を抱え、ハルの銃を持ち上げる。真珠で出来たハルの腕は本物の銃のように重かった。……本物の銃なんて持ったことがないけどね。


「……ったく、ほんとに、ほんとに、ほんとに……何で、何がどうなってるの? わたしが……わたしがハルを撃つだって?」


「うん、撃っていいよ。ハジメ」


 気がつくと、ハルは意識を取り戻したのか、わたしの事を、虹色の瞳で覗いていた。


「ハル……生きているの?」


「うん、なんか、生きているのが不思議って感じ……寒い」


「わたし……ハルのことをコレで撃たなきゃいけないみたいなの……なんでこんな事をしなきゃいけないのか、よく分からないけどさ……」


 ハルは優しく、ニッコリ笑う。


「わたしもよ……そもそも、こういう状況になったのも、よく分からないし。でも、インクルージョンが、それを撃つことで、この状況が変わるっていうなら、信用してみるしかないんじゃないの」


 ハルは背を起こし、わたしの持つ銃をお腹に当てる。


「あんたらは、意味がないことはしないって言ったわよね!」


 ハルの問いに、ゴマスは、コクンと頷き「そうよ」と言う。


「だとさ、ハジメ……」


 ハルはわたしにキスをする。寒がりのハルにお似合いな、冷たい唇と、冷水スープの味がするキスだ。これが最後のキスになるかもしれない、とハルは思っているのだろうか、舌を強引に入れてきて、わたしの舌を無理に絡めようとする。あっという間に、冷水スープの味が、体温の高いわたしの唾液と絡まって、あったかいコンソメスープの味に変わった。


「ほんとはおっぱいも揉んで、抱きしめたいけどね……残念、腕がないのよ」


「……いつも強引だよね、ハルは……無事に帰ったら揉ませてあげる」


「本当に?」


「うん、揉み放題。元々、無い胸なんて、いくらでも揉ませてやるわよ。だからとっとと、このクソみたいな場所から、とっとと帰ろう」


「……じゃあ早く撃って」


 わたしは、頷いてから、ゆっくりと引き金を引いた。ハルの銃は、わたしが想像した以上に、衝撃がデカかった。発砲の反動で、背中が地面に叩きつけられた。


「ハル!」


 わたしが撃った真珠の弾丸は、ハルを撃ち抜かず、ハルのお腹の手前で、空中に静止していた。真珠がブルブルと振動している。


「クソ……これって、わたしどうすればいいのよ? 不発の電気椅子じゃあるまいし、わたし、こういうのが一番キラ……」


 突然、静止していた真珠が、ハルのお腹を貫く、着弾と同時に、シュキュンという、聞いたことのない機械のような軽い駆動音がした。ハルのお腹がポッカリと穴が開く。穴の中に、ナメクジのようにウネウネ動く、虹色に輝く結晶体が見えた。これが、ハルの動力源であり、この戦いの元凶でもある、一〇五と呼ばれるものだろうか。ハルの瞳とは、全く違うタイプの虹色をしている。 


 何というか……毒々しいというか、禍々しいというか……例えがよく分からないけど、ジッと見ていると、そのまま吸い込まれそうな虹色を発光している。


 ハルの背中から、羽のようなものが生えていた。でも、それは羽ではなく、穴を開けられた衝撃で、背中から、ぶちまけられたハルのミネラルウェアだった。このとき、なんでミネラルウェアが、ウェア衣服と呼ばれているのかをわたしは納得した。手編みのマフラーのように、太い鉱物状の繊維が幾重にも編み込まれ、それが層を重ね、カーテンのようになっている。風もないのに、テカテカした真珠色のカーテンが、ユラユラと揺れていた。


「きれい……」


 わたしはありきたりで、その一言の感想しか出なかった。


「ありがとう。ハジメ」


 ハルが返事をすると、背中のカーテンが、グルグルとハルを幕き込み、簀巻きになる。そして、ハルの手が銃に変形したように、ガチガチという氷が割れたような音を出しながら、ルービックキューブのような変形をする。失ったはずの両手が形成され、両足から首まで、そして着ている衣服の姿が現れた。


 その服は、ハルがいつも好んで着ているゴスロリドレスの格好にも似ていて、まったく異なるデザインだった。


 まるで、全身の素材をホネガイで作ったかのようで、一見すると、中世の鎖かたびらのようにも見える。身体のどこからか、貝の刺が飛び出していて、物々しい見た目のドレスだ。


 その骨のドレスは、見事なくらいに、赤紫の色に染まっていた。そういえば、ハルは紫が好きで、よく着ているゴスロリドレスも、紫系が多かった気がする。


 どうしてだろう。わたしは以前にも、このハルの姿を見たことがある気がする。


「ハジメ、どうして泣いてるの?」


 ハルが、わたしに言ってくれるまで、わたしは頬に流れる涙に気がついていなかった。


「分からない……ハルが、綺麗だからかな、それとも、そんな姿になっちゃったハルに、同情しちゃったのかも……そのドレスとても似合ってるよ、ハルの好きな紫色だね」


「貝紫色よ。わたしが一番好きな色。誰にも染まらせない色、アレクサンドロス大王やローマの暴君ネロが愛した帝王紫……そうか……そういうこと……こいつは……この一〇五は、わたしの色を奪うのね……」 


 ハルはドレスを見ながら、ボソッとそう言った。


「どう? 綺麗でしょー、一〇五の自己防衛機構を無理矢理、起こさなきゃいけないから、自傷起動しなきゃいけないのが、難点なんだけどねー。和嶋さんの因果律を一〇五が汲み取り、純粋に染め上げ、ミネラルウェア化したものー、それがフラクチャードレス。いわば、ハードシェル・ミネラルウェアの完成系でありー、唯一無二の和嶋さんだけの服でありー、武具でありー、防具でもあるのよー。着心地はどう?」


 ゴマスは、嬉嬉とした表情をしている。なにが、そんなに嬉しいんだろう。


「なかなかの着心地よ。へえ、フラクチャードレスっていうのね……コレ。ミネラルウェアをフラクチャー……つまり、粉砕する服という事か」


 ハルが両手を広げる。手品のように、両手から銃が飛び出てきて、数発撃ち放つ。わたしの後方にいたナナフシ人間が、撃ち抜かれた。いつのまにか、鎧の女が放り投げた鉱物から、ナナフシ人間が生まれ、巨大な緑柱石の剣を構え、わたし達を再び囲い込んでいる。


「あ、すごい」


 何が「すごい」のだろうか。ハルの虹色の瞳には、何が見えているのだろう。


「ハジメ、そこから動かないで」


 ナナフシ人間が、ハルへ斬りかかってきた。ハルは足を広げ、踏ん張りながら、銃を構える。ドレスの裾が、船のアンカーのように、地面に突き刺さり、固定される。キイインと、ハルの中で、飛行機のジェットエンジンのような、何かが高速回転するような音が聞こえる。


 シュシュシュシュシュ! と、空気が高速で、連射される音。それは、拳銃というより、機銃に近く、ハルはこちらに向かってくるナナフシ人間を一発も撃ち漏らさず、正確に射抜き粉砕していく。明らかに、今までのハルに比べて、連射速度と攻撃力が、明らかに向上していた。


 あの鎧の女、何体ばらまきやがったんだ、次から次へと、無数のナナフシ人間達が、止めどなく、ハルに向かってくる。


 ハルの掃射だけでは、対処できず、ついにナナフシ人間の一体が、ハルを斬れる範囲に近づく。


「エージェントスミスかこいつら……なんだかマトリックスみたいだね。わたしは、さながらキアヌ・リーヴスというわけか。うん、悪くないかも。ガンフーとかしちゃおうかしら」


 ハルはそう言って、足下を固定している、アンカーを外し、左手の銃を捨て、ナナフシ人間の剣を片手で受け止める。ガキンという、とても固い音がした。


「おー、これってレッドべリルじゃん! いただいちゃおうっか!」


 ハルは左手で受け止めた剣を掴んだまま、右手の銃をクルクル回転させる。銃身を右手で掴み、グリップの部分をハンマーのようになるように、持ちかえ、そのまま剣を叩き割る。叩き割った剣の破片を掴んだまま、ナナフシ人間の胴体に破片を刺し込み、杭を打つかのように、刺した剣に、かかと落としを食らわせる。薪割りのように、ナナフシ人間が二つに割れる。


 別のナナフシ人間が、ハルを串刺しにしようとするが、ハルは銃のハンマーで打ち返し、剣先を叩き割り、次に足先を狙って、よろけさせ、バランスを崩したナナフシ人間を、ドラムの高速連打のように、メッタ打ちにする。あっという間に、元の石ころの姿へと、粉砕されていくナナフシ人間。


「あははっ! 楽しいっ!イメージ通りに体が動くよっ! ハジメ見てっ! 鉱物が掴み放題の、取り放題!」


 ハルはハイになっているのか、野獣のように吠えながら、踊るように、時に撃ち砕き、時に叩き割り、時に己の拳で殴り、蹴り、引きちぎりながら、ハルは、わたしに今まで見せたことのない、恍惚に満ちた笑顔で、ナナフシ人間達をバイオレンスかつフェイタリティで、リズミカルに破壊している。


 そんな、豹変したハルの姿を呆然と見ながら、わたしは思った。いつもの悪い癖。


 なんで、ハルなんだろう……と、思ってしまった。


 わたしの目の前にいる和嶋治という女の子は、才色兼備の生徒会長であり、家がお金持ちで、見栄っ張りの八方美人で、隠れオタクで、甘い物が好きで、二重人格で、わがままで、口が汚くて、恐がりで、寂しがり屋で、泣き虫で、そして、わたしの事が、どうしようもないほど、大好きな先輩のはずなのに……。


 何か……何だろう、この気持ち悪さ、違和感。うまく説明できない。でも、わたしはこんなハル、何かが違う気がした。


「ねえ……ハル」


「ハジメ見て、トラピッチェエメラルドよ! この見事な歯車模様! このカラットなら、数百万はくだらないわよ!」


 ハルは一体残らず片づけた、ナナフシ人間の亡骸の山の上で、粉々に砕けた緑柱石の中から、大きな鉱物の原石を選り好みしていた。


「……なんでなの?」


「んーなんでって? なにが?」


「なんで……ハルなの? ハルはどうして、こんなことをしているの……」


「こんなことって、わたしは……ハジメと一緒に……」


「……あなたって、本当にハルなの?」


「え?」とハルは言って、数百万はくだらないという、エメラルドの原石をコロコロ落とす。わたしの足下で、転がってきた原石は、ウネウネと動きながら、やがて煙のように消えて、無くなっていた。




 翌日の夜。わたしは、バイト先の「レインボーアイズ」にいた。


 時計の針は夜の八時を回っている。この時間になると、客足は途絶え、わたしも、店の後片づけをぼちぼち始めていた。


「レインボーアイズ」は、個人で経営している小さなフォトスタジオ兼、DPE店であり、老婦人オーナーの土屋イワさんと、夕方五時から夜九時の間、遅番の交代シフトで、週に三回、わたしはバイトをしている。


 個人で経営しているお店なので、バイト代はお世辞にも良くはないが、ほとんど、一人でお店を切り盛りするワンオペであることと、度が過ぎないくらいまでだったら、写真を焼いてもいいということなので、貧乏で、なおかつ、しがらみだらけの対人関係を拒むJKには、おあつらえむきな仕事であり、とても居心地がいいバイトだ。


 店内のスピーカーも、近所迷惑な音量と、過激で過剰なデスボイスがなければ、何を流してもいいそうなので、わたしが厳選した六十年代から八十年代の、大人しめなハードロックやプログレを流して、バイトが出来るのも、わたしにとって、大きなポイントだった。


 わたしはフィルム現像機を止める作業をしながら、業務用プリンターから出てくる写真をまじまじ見ていた。一昨日のハルの姿を撮影したもので、呆然とハルとナナフシ人間との闘いを見ていた割には、結構な数の写真を撮っている自分に感心し、呑気なものだと、自虐的に呆れていた。


「一〇五」「因果律」「インクルージョン」「NN」「結晶現実」「ミネラルウェア」「相転移」「ハードシェル」「プロポーショングリッド」「フラクチャードレス」「ナナフシ人間」「鎧の女」


 わたしがこの一ヶ月ぐらいに目撃した現象と単語の数々……それを写真の後ろに書きながら、わたしは悶々としている。


「あーっ……もう、訳分からん……わたしはフツーに生活して、ハルと一緒にいたいだけなのに」




「じゃあ……ハジメはどんな風なフツーが良かったの?」


 あのナナフシ人間との戦いの後、鎧の女は、結局、姿を現さなかった。


「まだ殺すなって、インクルージョンから言われている」と、鎧の女は言っていたが、こっち側と、向こう側のインクルージョンは何がしたいのだろうか。


「ハジメだって、映画とか好きだよね……だったら、こんな非日常を望んでいたんじゃないの?」


 ハルはドレスから、元の肉体の姿へと変える。穴だらけで、ボロボロの制服姿のハルに戻る。右のわき腹から鍵がポンっと出てきて、それを中島に放り投げる。


「そりゃ、望んでたよ……でも、こんなのなにかが違う……違うような気がするの」


「違うって……なにがよ」


「分からない……分からないけど、こんなのいつものハルじゃないって事だよ。だって、ハルはもっと……」


「もっと? ……出会ってから、二ヶ月しか会っていないのに、随分と偉そうに、わたしのことを分かっているような事を言うんだね、ハジメは」


「えっ?」


「あ……」


 ハルとわたしは、ハッとしたような顔をする。


「ご……ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」


「ううん……いいよ……いいの。とっとと、帰って休もうよ」


 ハルの瞳は、虹色から涙ぐむ、いつもの茶色の瞳へと変わっていた。




 それ以来、ハルとわたしは会話をしていない。次の日も、ハルは部室には来なかったので、だいぶ堪えているらしい。その事について、なんてハルに謝ればいいのか、わたしはバイトをしながら、ずっと悩んでいた。


「まだ、プリントできますか?」


 閉店三十分前ぐらいに、二十代ぐらいの、見慣れない女性の客がやって来た。サラサラした黒髪ロングヘアに、大手のファストファッションのチラシに出てくるモデルのような、端整な顔立ちをしている美人だったが、少し気になったのが、もう時期が、七月頭の初夏だというのに、その女はタートルネックのセーターを着ていることだった。


 なんでだろう、わたしは彼女をどこかで見たことがあるような気がした。


「いらっしゃいませ。フィルムは機械を止めちゃったので、明日の仕上がりですけど、デジタルで二、三十枚ぐらいだったら今日中、すぐに出ますよ」


「あーそれはよかったわ。ごめんね、閉店ギリギリに駆け込んじゃって」


「いえいえー、どうせ暇だったので……」


 彼女はデジカメの受付機でSDカードを差し込み、写真を読み込ませる。店に入ったとき、一緒にハエか何かが入ってきたのだろうか、さっきからブンブンと小さな羽音が聞こえる。


「へー、渋いねー。これ、ブラックサバスでしょ。あなたののチョイス?」


「え……はい」


 彼女は店内に流れているブラックサバスのアイアンマンに反応する。少し嬉しかった。


「そんなに若いのにブラックサバスとはね……関心、関心。あ、ここのトニーのギターがいいのよね」


 トニー・アイオミのおどろおどろしい、ギターソロのところを鼻歌しながら、写真の受付機を操作している。わたしもブラックサバスに反応してくれるお客さんが来店したおかげか、上機嫌になりながら、お店の閉店業務を続ける。


「十枚ぐらいだけど、すぐ出来そう?」


 手慣れているのか、彼女はすぐに受付を終わらせて、わたしに受付レシートを渡す。


「すぐに出来ますよ。次の曲が、ネオンナイトなので、終わるころには。写真は出てきてます」


「いいわね。ディオ時代の、サバスも大好きよ」


 わたしはプリンターに繋げたモニターから、受付した写真を読み込ませる。画素数が高いのか、少し読み込みが遅かった。


 間を置いて、画像が表示されると、どういうことだろう、そこには、わたしがさっき見ていたような写真が表示されていた。串刺しになるハル。ミネラルウェアの姿になっているハル。再び、串刺しになるハル。フラクチャードレス姿のハル……間違えて、わたしが撮っていたものを読み込ませてしまったのだろうか、いや違う……だってその写真には、カメラを構えるわたしの姿が収められていたのだから。


 しばらく、思考が停止するわたし。頭上のスピーカーから、ディオのハイトーンな歌声で、「ネオンの騎士!」と叫んでいた。


「ネオンの騎士じゃなくて、ゴメンね鈴木さん」


 彼女は、何故か謝っていた。なんで、わたしの名前を知っているのだろう。聞き慣れた、氷が割れるような音がした。そして、右肩に何か乗っているのに気づく。巨大で、半透明の緑色の剣の先みたいだ。


 剣……つまり、彼女は、以前ハルを襲った鎧の女ということなのだろうか。人は見かけによらないということ……いや、見かけ通りか、美しい女には、トゲがあるもんね。ハルにも言えてることだけど。


「悲鳴をあげても、逃げようとしても、あなたの首を跳ねます」


「あの……襲う人を間違えてませんか?」


「いいえ、あなたに用があって来たのよ」


「用って?」


「大したことじゃない、ただ、個人的に、鈴木さんに直接会いたかったの」


 わたしは振り返る。彼女の瞳から、見慣れない模様が浮き出ている。瞳の中心から六つの黒い線が、歯車のように浮かんでいた。女性の右手から、ハルの腕を切り裂いた、あのエメラルドの大剣をわたしに向けている。


「……ミネラルウェア」


「逃げないでよ。わたし、まだ力の加減が分からないからね……生身のあなたを殺しちゃうかも」


「……ふうむ」と、わたしは、しばらく考える。あまりにも、突然の出来事だったので、逆に、冷静になっていた。


「……えっと、あのさ……もう少し、ビビってくれない? 一応、鈴木さんにデカい刃物向けてるんだし……この際、レジの金でも寄越せって言えばよかったかな」


 彼女は、わたしに呆れたかのように、ポリポリと顔をかく。


「強盗するにしても割に合わないですよ。今日の売り上げだって、三万ちょっとぐらいですし……第一、今時、写真屋を強盗するバカはいませんよ」


「あれ……なんかわたしがバカみたいに言っていない?」


「いえ、歯車の目をした、バスターソードもどきを振り回している、いい年して、中二病に侵された、痛いトックリババアに言っているんですよ」


「だ、だれが、中二のトックリババアよ! これでもまだ、二十七なのにっ! ってか、別にはじめから強盗するつもりなんてないし! ああっ! どいつもこいつも、三十近くになれば、ババア扱いしやがって! クソ野郎っ!結局、若い子のほうがいいんですかね! 三十近くは賞味期限切れ……女を家畜の牛肉か豚肉みたいに品定めしやがって! 若いほうが美味しいってか! クソッタレのウンコ野郎! ブタの肥溜めに落ちて、便所虫に金玉喰われろっ!」


 ババアと言われ、ムキになるトックリババア。なんか、この綺麗な女性の口から出てくると思えない、幼稚で汚い言葉のマシンガントークを、以前にも聞いたことがある気がする。


「次にトックリババアって言ったら、鈴木さん……本当に殺しちゃおうかな?」


「一応、脅しだと捉えたいですけど……殺すだって?いいえ、あなたはわたしを殺すことはできない。できるはずがない」


「……どうしてそう思うの?」


「インクルージョンが言っていたから、わたしに危害を加えるなら、中島が、NNが……あなたのNNと、わたしのNNが黙っているはずないから」


「へえ……さすが、鈴木さんね。こんな状況でも、冷静で……そして、ドライ。そこまでは承知しているなら……奴らが鈴木さんをどうやって守るのか、気にならない?」


 彼女が向ける剣の先に、黒い虫が止まる。さっき、女が入店したときに、一緒に入り込んできた虫だろうか。よく見ると、それは虫ではなく、小さな黒い矢尻のようなものに、足が生えたようなものだった。この矢もなにかの鉱物のようで、黒光りしていている。


「その矢みたいなものは、ブラックダイヤモンドと呼ばれていてね、ボルツマン級NNユニットが用いる上位ミネラルウェアの一つ。人工ダイヤとはいえ、高密度のカーボナードで構成されているから、わたしでさえも、破壊は不可能……よっ!」


 彼女が突然、振りかぶり、わたしに斬りかかる。


「え、ちょっ!」と、わたしが言った瞬間、女性の剣がパンッという破裂音と共に、粉々になって、飛び散る。受付をするカウンターの上に、エメラルドのような鉱物があちこちに散らばる。


 彼女は左手のほうからも、手品のように、何もないところから、同じような剣を手の上から生成し、わたしに斬りかかる。


 再び砕け散る剣。右、左、右、左と……交互に、徐々にテンポを上げながら、わたしに斬りかかるが、その剣の刃がわたしに到達する寸前で、剣が粉々に砕け散る。小さな黒い矢が、ピュンっという高く、軽い音を出しながら、高速で動き回り、剣を次々と破壊しているようだ。高速の矢と剣の応酬によって、間近で扇風機にあおがれているようで、わたしは後ろによろめきそうになる。


 ぶっちゃけ「なんで、生きているのだろう」という状況で、わたしは、粉砕され、足下に山のように積まれていく、エメラルドの結晶を、ジーッと眺めていた。


 あーあ、破片と風圧で、狭い店がメチャクチャに……棚に陳列されたSDカードとかのメディア類、フィルム、インスタントカメラ、アルバム、フォトフレーム、お客さんに渡す写真、現像機、プリンター、タンクに溜めた廃棄用の処理液、受付機などなどが、見るも無惨に吹っ飛ばされ、切り刻まれていく。オーナーになんて説明すればいいのだろう。


 店を一通り、破壊尽くした後、彼女はわたしへの攻撃を止め、服に付いたエメラルドの粉砕された破片をポンポンと、手で払った。


「これで、大体、分かったでしょ。鈴木さんは完全に守られているの、奴ら……インクルージョンらによってね。だから、わたしがあなたに危害を加えることは、金輪際、出来ないことを分かってもらったことを踏まえて、一つ、鈴木さんに頼みたいことがあるの……」


「は、はあ……頼みたいこと?」


 わたしは、とっとと、この状況から逃げ出したかった。っていうか、NNがわたしを守っているなら、この場から、逃げ出しても問題ないのでは……と、考えていた。


「わたしとデートしない?」


 逃げようとするわたしを尻目に、彼女の口から思わぬ言葉が出てきた。


「デ……デート?」


「もうすぐ、九時だし、お店閉めるでしょ。だったら、丁度いいじゃない。少しぐらい付き合ってよ」


「で……でも、こんなに散らかっていたら……」


 わたしは、爆弾テロに遭遇したような、メチャクチャになっている店内をあちこち指差す。


「ん? ああ……お店を荒らして、ごめんね……インクルージョン、お願い」


 彼女が首のネックレスに話しかける。そのネックレスは、巨大なルチルクォーツの原石のようなものを留めていた。


 頭上の蛍光灯が、フリッカーを起こし、点滅する。すると、どうだろう、嘘のように、店内は元通りになっていた。足下に散らばっていたエメラルドの欠片も消え失せ、切り刻まれた写真も、吹っ飛ばされたインスタントカメラも、全て元通りになっている。スピーカーから、ブラックサバスのプラネットキャラバンがスローテンポで、おどろおどろしく流れていた。


「外で車停めているからね」


 そう言って、彼女は何事もなかったように、店を出て行った。


「もう……こういう目に遭うの、一体何回目なんだろ」


 わたしは何が何だか分からないまま、いつも通りの閉店業務を終えて、店を閉めた後、彼女の車の助手席に座っていた。彼女はスパスパと安タバコで有名な、ゴールデンバットを吹かしている。


「ってか! なんでわたし、ノコノコと、アホみたいに乗っているの!」


「えっ! 今更、それ言うの?」


 彼女も、わたしの遅めの突っ込みに驚く。


 彼女の運転する車は、燃費の悪そうな古いシトロエンで、ヘッドライトが猫の目のようなのが特徴的で、とても可愛い形をしていた。


「……これからどこへ向かうの? 人質にしたって、わたしに危害を加えられないんじゃ、意味ないでしょ」


「だ・か・ら、ただのデートよ。やましい気持ちなんて、毛頭ないわよ」


「本当に?」


「本当よ。安心して、絶対、無駄に、無謀に、無意味に、無作為に、無造作に何もしないから!」


「うわっ……それって、信用出来ない奴がよく言うやつじゃん」


「もうっ! からかわないで、ハジ……鈴木さんっ! とりあえず、遊園地に向かうわよ!」


「遊園地って……浦安の? もう閉まりますよ。そんなことも分からないんですか、バカなんですか」


「バカって……相変わらず、辛辣な言葉をわたしに浴びせるんだね、鈴木さんは……浦安のほうじゃなくて、市川のほうに決まってるでしょ」


 遊園地。千葉で、なおかつ北西部に住んでいる者ならば、浦安のあの世界的巨大リゾートを連想するだろうが、時計はもう夜九時を過ぎていて、十時に閉まるあの夢の国にわざわざ向かう者はいない。車は案の定、浦安へ向かう南方向とは正反対の方向へと向かっていた。


 大慶園遊園地。市川市の北の端にあり、森と霊園と梨畑に囲まれたところから、突如、煌々と光り輝く、米軍基地のような巨大施設が現れる。想像できるアミューズメントはほとんど揃えながら、二十四時間経営という、娯楽好きのわたしにとっては、狂ったように素敵過ぎる遊園地だ。


 以前、動物園のついでにと、ハルと行ったことがあるが、ミサイルからカウンタックまである、カオスでやけにアメリカンな内装に、ハルは興奮しながら、カメラで撮ったり遊んだりしていた。


 そんな遊園地に、わたしと鎧の女は、あろうことか、二人きりでデートのようなことをしている。


 デートと言っても、わたしは彼女が、バッティングセンターで百四十キロのコースでバカスカ、ホームランを打ちまくるのを、ただ呆然と眺めていたり、クレーンに磁石でも付いているのかと言わんばかりに、五百円以内の金額で、プライズのフィギュアや、ぬいぐるみ、菓子の詰め合わせなどなどを、次々と穴に落とすのを、唖然と眺めることしか出来なかった。


 デートに誘っておきながら、エスコートはどこ吹く風で、自分勝手に楽しむ、どこかの誰かさんと似ている。


 わたしは鞄から、いつも持ち歩いている、ニコンのカメラで彼女を撮り続ける。


「それ、お父さんの形見のレンズでしょ? そんなコソコソ撮っていないで、一緒に撮ろうよ」


 彼女は馴れ馴れしく、わたしと肩を組み、わたしのカメラを奪って一緒にセルフィーする。


「なんで、そのことを知っているの?ハルにも、教えたことないのに……」


「フフフ……わたし、鈴木さんのことは何でも知っているのよ」


「なにそれ、キモい……しかも、そんなにプライズを取って……」


「いやー……懐かしくてね、テンション上がっちゃって、ついつい」


「懐かしいって……そのアニメのプライズ、去年やってた奴ですよ……そんなことより、まさかあなた、その目で……」


 彼女の目を見ると、歯車の目に変わっている。


「そう、分かった? プロポーショングリッドを使えば、造作もないのよ。この程度」


 彼女はホームランやクレーンで手に入れた大量のぬいぐるみや、体に悪そうな駄菓子の詰め合わせを両脇に抱えながら、自信満々の笑みを、わたしに浮かべる。


「要は、ズルということですよね。そんなことして、インクルージョンが許すんですか?」


「この程度なら、問題ないよ。ここのクラリティが悪くならなければね」


「クラリティ……インクルージョンも言っていたけど、なんなのそれ?」


 彼女は、クレーンの景品で手に入れたロリポップを噛み砕く。


「あっ……そうか、鈴木さんにはまだ、説明していないのか、インクルージョンも情報の出し惜しみするなあ……ったく、んじゃ、カートでも乗ろうか?」


「は? カート?」


「そ、わたし好きなんだよねアレ」


 大慶園には、遊園地によくあるゴーカートがある。しかも、レールでノロノロ進む子供用カートではなく、本物のレーシング用のスリックタイヤを使っていて、中々のスピードを出すことができる本格的なカートだ。


 やろうと思えばドリフトが出来るらしいけど、ハルが躍起になってドリフトを試みるが、全然出来なかったことをすごく悔しがっていた。


 彼女は二人乗りのカートを選び、わたしをそれに乗せる。レース場には、わたしたち以外誰もいない。ポツンと、彼女とわたしが乗るカートが、スタートラインで待機している。


 思い返せば、今日の大慶園は、従業員を除いて、わたしたち以外の客はどこにもいなかった。今日が平日のせいだからか、それとも彼女か、インクルージョンの仕業なのかもしれない。どちらにせよ、人のいない娯楽施設ほど不気味なものはないなと、わたしはふと思った。


 ランプが青になり、カートが発進する。カートのエンジンが、けたたましく鳴りだし、彼女は左右に、カートをフラフラ蛇行させながら、次のコーナーで、ドリフトを始める。プロモーショングリッドのおかげか、手慣れた感じで、外枠スレスレのところでドリフトを行う。


「あーっ! やっぱり、これ楽しい! 鈴木さんもやってみる?」


 彼女は興奮した様子で、ハンドルをパタパタ叩く。


「そろそろ……説明してくれませんか?わたしを連れてきた理由を……」


「……どの程度知っているの?」


「どの程度って、なんの程度のこと?」


「聞くことなんて、一つしかないでしょ、わたしが和嶋さんを殺そうとする訳」


「……ハルの中にある一〇五と呼ばれるモノを奪う為でしょ」


 どういうわけか、さっきまで、カートのエンジン音で、お互い喋れるはずもないのに、エンジンの音が小さくなった気がする。以前、ゼリ屋でインクルージョンがやっていた、遮音フィールド……音を消したのだろうか。まったく……スタートレックの世界かこれは。


「うん、そうよ。わたしは、和嶋さんの、一〇五を奪い、わたしはこのバカげた戦いから、とっとと、上がってね、わたしはわたしの日常を取り戻したい。でも、鈴木さんは肝心なことを知らないでいるのよ」


「と、言うと?」


 彼女は、わたしの事を見ながらハンドルを切る。気持ちいいくらいにドリフトしていくカート。


「わたしが何者だっていうこと」


「……そういえば、あなたの名前をまだ聞いていないですよね」


「……こうやって、動いている車は大好き。妙に落ち着くのよ。カートでも、実車でもね。外側の世界が速ければ、速いほど、乗っている内側の私たちは、限りなく静止しているの、石みたいに、時間がね。このまま、一緒に、永遠にいれればいいのに……」


「一体、何を言っているの?」


「これ、鈴木さんが……いえ、ハジメが言った台詞よ。二十二の時、大学の卒業旅行で、高速の渋滞から、やっと抜け出したときの車内で、ハジメが言ったことなのよ」


「……わたし、まだ十六で、あなたと、卒業旅行なんて行ったことないですが……」


 ああ……まさかと思ったが、わたしは彼女が何を言いたくて、彼女が何者なのか、分かってしまった気がする。


「うん、言ったよ、六年後にね……そんなカッコイイ事、言った直後にね、ハジメ、あなた車酔いしちゃって……わたしも、もらいゲロしちゃって、もうメチャクチャだったよ」


 頼むから……そのタートルネックを下げないで、と心底願ったが、彼女は……未来のハルは、わたしに、首に隠していたオリオン座のほくろを見せつけていた。


「そのほくろ……」


「さっきの質問なんだけどさ、クラリティというのは、インクルージョンが優先的に保護している四のCの一つ、カットカラット重さカラークラリティ透明のこと。クラリティというのは、この世の透明性のことよ。奴等はこの世界そのもの……EIをグレーディングしているの」


「EI……グレーディング? 四つのCって、ダイヤモンドの価値を決める基準のことでしょ?」


「でも、四つのCと言っても、実際は五つあるのよ。現実のダイヤモンド同様にね、コンフリクト……つまり、闘争を意味するCがね。二十二……この数なにか分かる? これまで、二十二回、わたしはわたし自身と対立し、殺し続けていたのよ。でも、そこには、ハジメはどこにもいなかった。何度も、何度も、何度も、何度も……EIを行き来しても、ハジメの姿はどこにもいなかった。でも……やっと……ここまで来れた。辿り着けた。わたしは、もう、ハジメのことを離さないから」


 おいおいおいおい……待てよ待てよ待てよ待てよ……今、彼女は、二十二回殺したと言った?わざわざ、わたしに会う為に、二十二回、ハルは……ハル自身を殺し続けてきたというの?


「あなたは……誰なの?」


「もう、分かってるでしょ、ハジメ。わたしの名前は和嶋治。今から、十年後の、わたしよ」


 十年後のハルは、邪気のない純粋な笑み浮かべながら、わたしにキスをする。この強引さ、そして、このスープの味……少し、タバコ臭かったけど、間違いなく、ハルそのものだった。ハルはカートをドリフトし続ける。世界が回る。映画のキスシーンように。グルグルと、わたし達を中心に、この世が回転していく。まるで、メリーゴーランドのように。


「……なんで、ハルなんだろう?」


「そう、なんでわたしなんだろうね……ハジメ、会いたかったよ」


 ハルは泣いていた。泣き虫のハルは一瞬だけ若返り、わたしの知っている、十七歳のハルへと姿が変わっていた……変わっていたような気がした。


「ごめんね、ハジメ……」


 そしてハルは、わたしをギュッと抱きしめたかと思うと、わたしは意識を失っていた。

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