第21話 老狐の決断─2
「へい……てん……?」
ルソーさんが言った言葉を、私はうわ言のように呟いた。
「そう、店を閉じるの。もう私も年だしね」
「そ……そんな!!」
私は思わず、座っていたソファから立ち上がった。
「どうして辞めちゃうんですか!? 腰痛が酷いから? 足が悪いから? だから辞めるんですか!?」
「舞」
私の喚きを切り裂くような、凛とした声をネロは発した。
「落ち着け──君が慌てるような事じゃない」
「…………」
ネロに諭され、私は席に座る。その時にチラリとネロを見たが、とても難しい表情を浮かべていた。
「まぁ、舞がいきなり慌てるのも分かる──退院してきてすぐに、『店を辞めるから手伝え』と言われたら、誰だってね」
「あら、そう言う割にはネロちゃんは平然としてるじゃない」
「僕は一々、感情を顔に出さないよう心掛けているからね。これでも内心は穏やかじゃないよ」
無表情でそう答えるネロを見て、ルソーさんは目を細めて笑った。
「なるほど……流石は探偵さん、と言うべきなのかしらね」
「別に探偵の必須要項では無いけどね……」
「じゃあ、そろそろ本題に入ってもよろしいかしら?」
「構わないよ。具体的にどんな依頼なのか気になるし」
ネロの答えを聞くと、ルソーさんは少し悩んでから話始めた。
「私はこの商店街に来てから……もう50年近くになるわ。元々ここで床屋を切り盛りしていた、私の主人の所へ嫁いだのが切っ掛けでね」
ルソーさんはここで生まれ育った訳では無かったのか。少し意外だ。
「昔は主人と一緒に働いていたんだけど、五年前に主人が亡くなってからは、ずっと私が一人で床屋を切り盛りしていたの」
しれっと言われてスルーしかけたが、やはり旦那さんは既に亡くなっていたか……床屋にルソーさん以外誰もいなかったから、まさかと思ったのだが。
「その話は僕も聞いてる。それがどうかしたのか?」
「……私がこの場所でやってこれたのも、この商店街にいる皆のお陰だと思うの」
「だからね? ただ辞めるんじゃなくて、商店街の皆に何か感謝の気持ちを伝えたいのよ」
「その手伝いを、依頼として僕に頼みたいと?」
ルソーさんが頷くのを見ると、ネロはしばらく考えた後に、コクンと頷いた。
「分かった──他ならぬルソーさんからの頼みだしね。引き受けることにするよ」
「本当? 良かったわぁ」
「ただ……一つだけ聞きたい事がある」
「……?」
ネロの言葉に、私とルソーさんは耳を傾ける。
「床屋を辞めたら……その後あんたはどうするんだ?」
「……それは……」
言葉に詰まり、ルソーさんは間を開けたが、すぐに笑って答えた。
「──それは、その時になってから考えるわ」
「……そうか」
そう言ってネロも笑い返し、ソファから立ち上がろうとしたルソーさんの手を取った。
「しかし本当に辞めてしまうと、僕が困ってしまうな。獣人の毛も刈ってくれる床屋は、僕の知る限りルソーさん以外いなかったのだが……」
「そればっかりは自分で何とかするしか無いわねぇ」
最後まで笑いながら店を出ていったルソーさんの背中を見送ると、事務所は一気に静かになった。
「──さて」
その静寂を破るように、ネロが口を開く。
「これから忙しくなるぞ」
私は、ただ黙って頷くことしか出来なかった。
「おいネロ!! どういう事だ!!」
その日の夜、事務所のドアを勢いよく開けボックルちゃんが入り込んできた。
「……どうしたボックル。僕は見ての通り忙しいんだが」
「それどころじゃない!! ルソーさんが店を畳むって本当か!?」
「……本当だよ。今朝ルソーさんから、その事について依頼を受けた。だから今忙しいんだ」
淡々と答えるネロに、ボックルちゃんが詰め寄る。
「辞めるんなら……なんでそれを止めようとしないんだよ。俺達の時みたいに、なんで止めようとしないんだ!!」
「君の時とは事情が違う。君はハナから店を畳む気など無かったけど、ルソーさんは自分から閉店すると言ったんだ。部外者の僕らがとやかく言える事では無い」
「…………」
仕事机の上のタイプライターから目を上げず、ネロは冷たく答えた。
「それより、君の店は大丈夫なのか? 少しはマシになったのか?」
「あ、あぁ。宅配制度も広まってきて、客も少しずつ来るようになってる。俺達だけで回すのが大変になったら、従業員を雇おうかと考えていて──」
「……従業員?」
ボックルちゃんが言った言葉で、私はふと閃いた。
「そうだ……従業員だよ!! 従業員の人をルソーさんが雇えば、ルソーさん一人で店を切り盛りしなくても済む!!」
「あ、そっか!! その方法があったか!!」
興奮気味になった私とボックルちゃんは、そのままネロとの距離を詰める。
「ネロ、今すぐルソーさんに提案しよう。そうすれば、ルソーさんも店を畳まないで良くなるからって」
「俺からも頼む。体調が悪いってだけで、店を辞めたら勿体ねぇよ」
私達の声に、次第に熱っぽさが宿る。
だがそんな私達を嘲笑うように、静かにネロは言った。
「提案する?……何と言って? どこかの誰かを適当に金で雇うから、思い出の店をそいつに預けろってかい?」
「…………」
私達は言葉を失った。
「……少し、頭を冷やした方が良いな」
ネロは立ち上がって、部屋の窓を開けた。窓から吹き込む夜風が、商店街の匂いを部屋に運んでくる。
「あまり思いつきで好き勝手言うもんじゃない。ルソーさんは、君達以上に悩んで結論を出したんだと思うよ。なにせ、旦那さんとの思い出の店を畳むんだから」
「…………」
「ルソーさんの気持ちを考えずに、安易に『辞めるな』と言うのは簡単だ。でもそれは、結果的にルソーさんを傷つけるかもしれない」
「…………」
「何かを始めた者は、同時にそれが終わる瞬間を覚悟しなくちゃならない。その瞬間が来たんだ」
そう言って私達を諭すネロの声には、さっきまでの冷たさは無い。いつも通りの、暖かい声だった。
「今僕らがすべきことは、店の存続方法を考える事じゃない──ルソーさんが満足する形で、店を畳む方法を考える事だ」
うつむいていた私は、ネロの方へ顔を向ける。
ネロの顔は、いつもにも増して真剣だった。
「一緒に考えよう──最高の幕の下ろし方を」
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