V - 02

 空が紫色に滲み出してから、紫苑に電話をした。

 短いコール音のあと通話が繋がった。


《……おそいよ》


 電話口の紫苑は拗ねた声を出した。


「ごめん。まだ起きてたか」

《きみが帰ってこないからね》

「ちょっと、いろいろあったんだ」


 紫苑に被せられた帽子を目深に被る。

 振り続ける雪がアスファルトを黒く濡らしている。

 都会の排ガスを吸い込んだ濁った雪。積もりもせず、何かに触れた途端に溶け、不快な湿り気としてまとわりつくだけの雪だ。降った端から泥水になったそれが、側溝から排水溝へと細く流れている。


《その、いろいろ、は終わった?》

「もう少し、昼くらいまでかかる」

《長い用事なんだね》

「ああ」


 ポケットからアーミーナイフを出して、繰り出した刃を冷たい夜気に晒した。小さく、切れ味のまるで残っていない刃が街灯の光を返して白んだ。刃の腹に雪が付き、露になるのを指先で拭った。


「正直に言うとな」僕は言った。「今、あまりよくない状況にいる。トラブルというか、アクシデントというか、とにかく、よくないことが起こった。昼頃に終わると思うけど、いまのところ、どうなるかわからない。どうもならない可能性もあるし、どうしようもなくなる可能性もある」


 まるで不細工な会話運びだった。

 相応の流れとか、相応の雰囲気とか、そんなものが何もなかった。


《……急に、何の話かな》

「今は、言えない」

《出る前に言ってた、悪事、の話?》


 僕は答えない。

 この先、話す機会があったとしても、僕は話すつもりはない。

 告白して、告解して、紫苑に荷を分けるつもりはない。


「……前に渡した金があっただろ。後でそれを持って出かけろ。夜までどこかに出かけて、必要ならどこかに泊まれ。できたら、また、電話するから。頼む」

《頼むって……いったい、何をやってるんだよ、きみは》


 僕は質問には答えなかった。

 束の間だけ沈黙が生じた。

 手の中でアーミーナイフを返し、冷たい刃を指の腹で撫でた。


《あのさ、待ってるから、何事もなく電話して、何事もなく帰ってきてよ。本当に、私は、きみを心配してるんだよ。きみは私と似てるところがあるから、自分のことをどうでもいいと思ってるかもしれないけど、きみに何かあったら、きっと、私は苦しくなる》


 紫だった空の際で白が滲み始めている。

 紫苑が言った。 


《だから、これはわがままだけどさ、私のために、きみは、きみを助けてよ》

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