III - 13
「歴史上、最初に金目的での放火が問題になったのはイギリスだ。当時は火事の第一発見者には賞金が払われたから、賞金欲しさに火を点けては通報する自作自演が横行した」
岸田が話している。
僕は車内で用意された服に着替える。相変わらず服からは煙草や防虫剤のような苦い匂いがする。岸田がつけたのかズボンのベルトループにヘアピンが留まっていて、座るときにほんの僅かに突っ張るような感覚がする。
運転手は前回と同じ男だ。
火付け屋のドライバーという人間はどれくらいいるのかと思う。
適性とか、そういうものがあるのだろうか。
「日本で保険金放火が最初に問題になったのはラベンダー農家でのやつだ。ラベンダー農家ばかり連続で火災が起きて、保険申請が連続したから放火がバレた。通称・ラベンダー事件。そのまんまだが、ネーミングセンスあるよな」
ああ、いいね、センスある名前だな。ラベンダー事件。
音楽バンドの名前なんかでありそうだ。
グループ名・ラベンダー事件、たぶんデビューアルバムのタイトルもラベンダー事件だ。
「そいつらのおかげで、保険金絡みの火事には放火が疑われるようになった。そうなると、最初は色々と工夫を凝らすわけだ。火事の日だけ偶然にも通帳や身分証明書を持って外出してたら不自然だから、家に置いたまま燃やしちまう。仏壇も燃やすし、必要ならペットも焼き殺す。ガッツがある奴だと自分で放火したあとにしばらく家の中に残って命からがら逃げてきた感を演出したりもする。それで悲劇の被害者面で保険金ゲットだ。しかし、これももう通用しなくなってきた。みんなが身体を張るようになるとそれが普通になっちまうからな、ハッタリとしての効果がなくなってきちまったんだな、これが」
相変わらず奇妙にサイズが合う服の裾を引っ張り、袖を引っ張り、腕を捻る。手を開き、握る。手首の筋が張り、弛むのを感じる。アーミーナイフを取り出して、指の先で刃をなぞる。大丈夫だ。何もかも鮮明だ。足下には播磨に渡された解錠道具一式が詰まった鞄が横たわっている。
「結局、ここで俺たちの出番だ。家主が自分で放火しても保険は降りねえが、哀れな被害者には保険が降りる。偶然にも第三者の放火被害に遭っちまった場合にはな。そうやって火付け屋産業ができた」
スモークがかかった窓の外は夜で、カチカチカチとウィンカーを鳴らしながら車体が本日四度目の左折を行う。ひと昔前なら生活排水がおかまいなしに流し込まれていたような細い用水路沿いを車が走り続けている。
いま乗っているのは白のワゴン車だが、前回と同じ色だったかが思い出せない。
「放火事件の検挙率は五割。そのうちの九割の犯人は家主の知人、友人、親類、縁者だ」岸田が言う。「何の関係もない第三者に場所や時間を散らしながらやられたら、犯人なんかわからねえ」
車は走り、幾重にも落書きの痕跡があるボロボロのコンクリート塀の傍で止まった。フロントガラス越し、車の斜向かいに二階建ての古いアパートが見えた。
岸田が言う。
「待機」
窓の外、街灯がそれぞれ孤立するように光っている。
それから間もなく、アパートから中年の男が出てきた。
薄っぺらな帽子を被り、服は遠目に見ても垢染みて薄汚れている。
ホームレスみたいだなと思ったが、普通ホームレスはアパートから出てこない。
「ホームレスだ」僕の思考を読んだように岸田が言った。「アパートの空室の鍵が開きっぱなしだったのに気づいたホームレスが、勝手に住み着いて鍵の交換までしたらしい。警察も動かねえから、いっそのこと燃やしちまえって家主が言ってるんだとよ」
いつものように、皮肉っぽく岸田が笑った。
ちょっと前のお前と似たようなもんだ、と岸田が続けると思ったが、続かなかった。
僕はポケットの中でアーミーナイフを握る。
ホームレスの姿が見えなくなり、岸田が立ち上がる。
ワゴン車の扉がスライドしながら自動で開いた。
岸田が滑り出るように車を降り、僕はその後を追う。
道を斜めに突っ切り、どこかへと消えたホームレスと入れ替わりにアパートに向かう。
アパートの外壁が日光と雨で風化してまだらな灰色になり、表面に白い粉を噴いている。生垣は枯れ、ひび割れた土と共に白茶けた小枝が集積している。ポストには蜘蛛の巣が張り、巣を作った当の蜘蛛も去った後になっている。
建築物の死骸。
そんなものの中に僕らは入る。
階段を横目に一階を進む。
奥の奥の奥。
廊下を進み、他の部屋と違うドアノブがついたドアの前に立つ。
他の部屋は円形のドアノブだが、この部屋は横に伸びたレバー式だ。鍵も他の部屋のものと違う。真新しいわけではないが、建物のようにボロボロなわけでもない。何処かの家のお古を持ってきたんじゃないかと思う。
「ここだ」
岸田が言い、僕はレンチを鍵穴に滑り込ませる。アーミーナイフから引き出した刃を指の腹を撫で、鮮明な指先の感覚を確認し、ピックを繰り出して鍵穴の中を探り始める。
古くはあったが、明らかに一回目より良い錠だった。
開き難い錠で、開けるコツを掴ませ難い錠だった。
それでも、僕には問題じゃなかった。
ゆっくりと息を吸い込み、息を止める。
ぴんと張った緊張状態に感覚をぴたりと止める。肺の中に吸い込んだ空気をなるべく遅く燃やしながら、空気の流れも、血液の流れも感覚から遮断し、小さなピンの動きだけを感知する。研ぎ澄ました感覚をピックの先端にまで行き渡らせる。指先から飛び出した神経が細く細く伸びてピックの上を這い、鍵穴の中に潜り込んでいくような感覚。
鍵穴の奥、錠の内部でピンが滑っていくのを感じる。
ほんの僅かずつ刻むように正しいピンの位置を探る。
左手からレンチに力をかけながら、ピンを滑らせる。
小さな砂粒が水に落ちた波紋のような手応えを拾う。
ピンの本数だけ綱渡りを繰り返す。
身体の中を絶対的な静寂で満たす。
肺が新しい空気を求めている。
緊張でこめかみが軋む。
息は吐けない。
僕があって錠がある。
頭の一箇所に血が集まって圧力が上がっていくような錯覚。
ほんの小さな手応えすら見逃さないような静寂を滲ませる。
一瞬、視界が白んだ。
カチ、と鍵穴が回った。
岸田の靴底がコンクリートの床を擦る音が聞こえた。
僕は岸田を見る。岸田はドアに手をかけて引き、僕の顔を見て笑う。
岸田に続いて部屋に入ると、予想はしていたが部屋は狭かった。狭い空間に台所やトイレや必要最低限の設備を埋め込んでいるという有様で、部屋を区切るという概念がないような詰め込み方だった。
そこら中に古新聞紙や青いビニールシート、衣類らしきものを詰め込んだゴミ袋が散らかっていて、じっとりした空気と鼻にまとわりつくような刺激臭が漂っている。
岸田は土足のまま玄関を跨ぎ、軋む床を踏む。
部屋を見回り、それからカクテルを撒く。
岸田がカクテルを撒くと、撒いた端からゴミがそれを吸い上げた。擦り切れた畳がカクテルを行き渡らせ、古新聞や雑誌が黒く染みながら歪んだ。なんとなく、ゴミが焼死したがっているように見えた。
着火道具はまた紙マッチで、また白いパッケージに赤い星が二つプリントされている。
「今回は、俺が着火してもいいか」
僕が尋ねると、岸田が少しだけ驚いた顔をした。
「どうした」
「なんというか、たまには、自分でやりたくて」
短く考える素振りを見せたあと、岸田が紙マッチを手渡す。
「……うっかり焼身自殺したりしてくれるなよ」
岸田から紙マッチを受け取り、一本を千切り取る。
これは、自殺だ。
この間までの僕も、ホームレスも、本質的には変わらない。どちらも、他人の部屋に侵入することでしか居場所を確保できない人間だ。ただ、少しだけ、図々しさが違う。僕には鍵を交換して部屋を占拠するほどの神経はない。そして、僕には紫苑がいて、それが僕に大義名分を錯覚させている。ホームレスの男は小汚くて、多くの人が不快感を覚える風体をしている。
それだけ。
それだけで、その一方は間もなく墜落する。
千切り取った紙マッチを着火する。
指の付け根が小さく震えた。
いまこの瞬間、播磨はどこかに居て、僕が束の間だけ見たホームレスを観察しているのだろうか。建築物の死骸のようなアパートの一角を占有している、慎ましくも傲慢な中年の男が行き場を失くす瞬間を、播磨は観察しているのだろうか。
手の震えが変に規則的で、それがおかしかった。
上下に等幅で揺れる指先で炎がゆらりゆらりと揺れた。
炎が宙を舞った。
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