III - 10
ドアが閉まって岸田が去り、僕は取り残された。
「先に、道具を差し上げます」
播磨は長机の上に置いていた道具や箱をまとめ、革の鞄に収めて僕に手渡した。
鞄を開き、平坦な黒いケースに収められた道具を確認すると、上等なロックピックや鍵穴を覗くための道具、イヤホン付きのコンクリートマイクまでもが入っているのが見えた。完全にプロのピッキング道具で、腕がよければたぶん金庫破りまでできる。
「端的に言うと、動機が弱いですね」
播磨はそう言い、向かいの椅子に腰掛けて脚を組んだ。
「……動機が弱いっていうのは、なんですか」
「欲、と言い換えればいいでしょうか」
播磨の声が僅かに変わった。システム的な話し方が和らぎ、落ち着いた声はカウンセリングを行う精神科医のそれに似ている気がした。
「人間一人分の居室を用意する程度のことは簡単なんですよ。簡単にできますし、簡単にふいになります。破錠はともかく解錠できる人間はいま少ないですから。他に繋ぎとめておくための動機が欲しいんですよね」
何を言っているかはわかるが、何が伝えたいのかがわからなかった。
「動機って、そんなものじゃないですか。岸田も似たようなものだと思いますが」
「彼は、破滅したいだけですよ」
窓の外で陽が落ちて部屋が深く暗くなった。
「岸田くんがどうしてこの仕事を始めたか聞いたことはありますか?」
「……ありませんけど」
「ですよね」播磨はくすりと笑った。「私が話したってことは内緒にしてくださいね」
ほんの僅かに、播磨は言葉を崩した。
あえて距離感を曖昧にする話し方を選んで、あえてそこに言葉を乗せていた。
「闇金……って言い方はまだあるのかな? まあ、いいんですけど、あの子はね、お父さんがそれに手を出しちゃったんです。それがきっかけで、火点け屋なんか始めることになっちゃったんですよね」
「……借金の肩代わりじゃないですか。あいつ、そんな殊勝なやつだったんですか」
「違いますよ」播磨は手をそっと口にあて、小さな笑い声をあげた。「岸田くん、闇金の方のつてにお願いして火点け屋に入れてもらったんですけど、そこでできたお金をすっとお父さんには渡さなかったんですよ。たかだか何十万かをあげる代わりに自分のお父さんを土下座させたんです。お父さんが嫌いなんでしょうね」
話が本当なら、岸田はこのことを僕には話さないだろう。
何度も吹聴すれば、事実は軽くなる。
物語は単なる不道徳な武勇伝になる。
「その、親父に土下座させるのが動機だっていうなら、それこそ、動機が弱いですよ。もう岸田の目的は済んでるじゃないですか」
「それがね、あの子はそのことに罪悪感を覚えてるんですよ。変でしょう? しかも、半ば無意識的に勧善懲悪を信じているところがあるんですよ。ずっと悪いことをしていれば、何かの拍子に罰が当たる、罰してもらえると思ってるんですよね。だから、岸田くんは何も言わなくても続けますよ。文字通り、死ぬまでね」
播磨の言葉には、何か、有無を言わせぬ説得力があった。
そうなんですね、知らなかったですよ、となんとなしに聞き流せない程度に思考にまとわりつき、かといって否定しようとしても敵う気がしなかった。
「そんなの、特例じゃないですか。そんなやつばっかりってわけじゃないでしょう」
皆が皆、岸田みたいなやつばかりじゃないだろ。
「当然です。ほとんどの人の動機はお金ですよ。岸田くんみたいなのは特例です」
「なら、播磨さんは、なんで、この仕事を始めたんですか」
僕が言うと、播磨が立ち上がって歩で円を描いてくるりと身を翻した。
「聞きます?」
「……できれば」
「じゃあ、話しますね。岸田くんから聞いたかもしれないですけど、私の役目ってね、キミたちが家や部屋を燃やしてる間の住人の監視なんです。外にいるときに声をかけたりね」
小さくスカートを揺らし、播磨はまた笑う。
「人を見てるのが好きなんですよ。どこか遠くで自分の家が燃えてる瞬間の不安そうな顔とか、家が燃えてるのにそれを知らずに楽しそうにしてる顔とかね。墜落してる瞬間の人の顔を見てるのが、好きなんですよ。なんていうのかな、みんなが幸福なわけじゃないんだ、って確認すると安心できる気がして」
ふ、と笑い、播磨は屈んで僕の目を覗き込んだ。
暗闇に近づいていく部屋の中で播磨の瞳孔は大きく開き、鳶色の虹彩が爛々と光っていた。香水か何かをつけているのか、洋菓子のようなほのかに甘い匂いがした。
「街に出て、皆が幸せに見えると、自分だけが取り残されたみたいで孤独になるときがあるでしょう。そういうときに他人の破滅はよく効くんですよ。だから、そうですね、私にとっては精神安定剤みたいなものなのかもしれませんね。この仕事が無くなったら、私はどうすればいいかわからないですから」
話しながら播磨は歩き、僕の傍で止まって剥き出しのフローリングに緩やかに膝を突いた。
播磨が座った僕を見上げ、手を伸ばして僕の手を覆った。
「……なんですか」
僕の手を撫で、手の甲をかりかりとくすぐるように搔きながら、播磨が囁く。
「思ってたよりもずっと木戸くんの腕がよかったから、手放したくなくなっちゃって」
播磨はまた僅かに声色を変えた。声が、耳から脳内に入り身体を麻痺させるように響いた。
何を言うつもりかはわからない。
とにかく反発すべきだ。抵抗すべきだ。拒絶すべきだ。
頭の奥底、蚊の鳴くような音量でかろうじて警報が鳴っている。
僕の頬に指が触れた。
播磨の頬が寄せられ、播磨の胸が小さく上がり、小さく下がるのが見えた。
身体が動かない。
僕は空いた手でポケットの中のアーミーナイフを探った。ポケットの中でアーミーナイフの鈍い刃を引き出して、指に当てた。体温が乗り移った刃は存在感が曖昧で、いつも明確にあるはずの輪郭が曖昧だった。ことり、とアーミーナイフがポケットから転げ落ちた。
「セックスさせてあげようか」
しっとりとした甘えるような声でそう言って、播磨は笑った。
口から漏れた息が熱を帯びていて、それが僕の肌を撫で、鼓膜を這った。ぞくりと電流が背を走るような感覚がした。息を吸うのが聞こえ、息を吐くのが聞こえた。
冗談、と播磨の声は続かなかった。
「はは、例の女の子とはそういうことはしてないんだ」
播磨はまたくすくすと笑い、僕のワイシャツの首元に触れた。細い指先で弄ぶように小さなボタンを転がしながら、播磨は僕の首に口元を埋め、言葉を並べ続ける。
「木戸くんが続けるなら、キミが解錠する限り、キミがしたいように、させてあげるよ。私、それなりに顔も可愛いし、胸もおっきいでしょ? キミの好みに応えられると思うんだけど、どうかな」
声がするりと僕の中に入っていく。
「キミが好きな女の子にいくら献身的に尽くしても、その子がキミを好きになってくれるとは限らないよ? きみがしてくれたことには感謝してるけどさ、恋愛とか、そういうのはまた、別だよ、なんて言われちゃったりしてね」
播磨が笑い、息がこぼれる。
「ここまでしてるのに結局フられちゃったりしたらきっと耐えられないよ。僕はあんなに尽くしたじゃないか、って男の子が泣くのは惨めで仕方なくなっちゃうよ。それにね、キミは普通には幸せになれないよ。他人の家を燃やしても平気な人っていうのはね、自分の家が燃えても平気な人なんだよ。本当に他人の痛みが分からない人なんていうのは実は少なくて、単に自分が痛くないから、できちゃうんだよね。木戸くんの家庭のことは知らないけど、きっと、家庭環境はその子と似たようなものでしょ。だから、そういう子を好きになるんだよね。そんな人間はね、絶対にまともになれないよ。私も、キミもね。だから、いまのうちに動機を変えておこうよ」
ずっと聞いているといつの間にか身体を乗っ取られるような声。いつの間にか乗っ取られ、そして死んでいることにも気づかせずに死なせるような声。そんな風に響きながら言葉が耳から侵入する。
抱くように播磨が僕に身を寄せた。
播磨の胸が僕の身体に沿って形を変え、鼓動が伝わった。
「ああ、キミは何かを欲しがることができないんだよね。たぶん、いままでなんにも無いのに慣れすぎたせいで、欲しがり方がわからないんだ。下手に何かを欲しがると失望するだけだし、もしかしたら笑われるかもしれない、って思ってるうちに欲しがり方がわからなくなっちゃったんだよね。それじゃ、やっぱりキミはまともになれないよ。上手く何かを欲しがれないし、何かを手に入れてまともになろうとしても、失くすのが不安で仕方がなくなって、自分から手放しちゃう。絶対に、そうなるよ」柔らかい唇が僕の首筋に触れ、硬い歯が触れた。「このまま、犯してあげようか?」
延々と温かい泥の中に飲み込まれていくような気分だった。
いつかは死ぬだろうが、いつの間にか死ぬのも悪くないんじゃないかと思えた。
それから、紫苑のことを考えた。
いま、仮に、紫苑がいたとして。
三文ドラマの修羅場のように、扉を開けて紫苑が現れたとして。
紫苑は怒ったりはしないだろうと思った。
「すみません」僕は言う。「顔向けできなくなるので」紫苑。「勘弁してください」
たぶん、紫苑は、失望する。
紫苑は僕を軽蔑する。
それだけだった。
力の入らない指先がパイプ椅子の脚を引っ掻いて、暗闇の中で視界がちらちらと白んだ。
「そんな、夢なんか見てませんよ、別に。大丈夫ですよ、クズの自覚自体はありますから、惚れてもらえるとか好きになってもらえるとか、都合いいことは考えてません。期待してないんだから、裏切られてもなんともないです、大丈夫ですよ。それに、ピッキングの技術なんか評価してくれるのはここしかないんですよ、やめるわけないじゃないですか。それこそ、僕からこの技術をとったら何も残らないんですから」
それまでの分を一気に吐き出すように、淀みなく僕の口は動いた。
言葉が言葉を引き摺り出し、やけに饒舌な台詞になった。
相手を納得させるために作ったにしては過剰な量の言葉が出てしまった気がした。
短く音を立ててパイプ椅子が軋んだ。
播磨は僕に預けていた身体を起こすと、僕の頬を撫でてにこりと笑った。立ち上がり、床に突いていた膝を軽く払うと、何か憑き物でも落ちたかのように播磨の雰囲気が戻った。
「なら、安心しました。末永く、よろしくお願いします」
播磨はそう言い、真っすぐにドアに向かって姿を消した。
部屋には僕だけが残った。
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