8-3

 忌童子として生まれる運命にあった冷は、ベルゼバブの力が無ければ今もあの村にいただろう。何の気力もなく、ただ惰性で生きるだけの人形として。生まれながらにして全てを失った冷だからこそ、思うことがある。

 人の愛こそが、人が見る最も大きな夢ではないかと。

「僕が愛されたのは生まれる前だけ。愛情を求めることの何がいけないのかと、毎日ひたすら恨み言を吐き出していた」

 そして冷は一呼吸置き、黙って話を聞いていた彼等を見遣った。一葵達を見つめる表情はとても晴々としていて、漠夜が生きていた頃の冷を彷彿とさせる。

「だけど少佐に出会って、皆さんと過ごして、僕は人を知れた」

 愛されることを知らない冷は、愛することすら知らなかった。愛することも何も知らないまま、それがとても綺麗なモノであるかのようにただ子供のように求めていた。だが、そんな冷は漠夜の人を慈しむ姿を見た。月華や一癸達の、誰かを愛して誰かを大切に思う姿を見た。

 白鷺一番隊に属してから様々な人間関係の在り方を見て、そして冷は知ったのだ。愛情が美しいのではなく、溢れんばかりの愛情を抱える人間が美しいのだと。

「もう一度だけ人を信じてみようと思った。人を、愛してみたいと思えたんです」

 そう思えた時に初めて、冷は自分が帝国魔天軍へと志願した理由をようやく理解した。冷自身も、綺麗な存在で有りたかったのだ。羨むだけだった愛情に、人の暖かさに、触れてみたかった。とても子供じみていて笑ってしまうほどおかしな理由だったが、彼にとっては人生を左右するほど大きくて、意識下に埋葬したはずの小さな願望。

「それを教えてくれた少佐の意思を無駄にするなんて……僕には出来ない」

 漠夜を失ったあの日に末羽の過去を聞いて、自分と彼女は違うのだとわかってしまった。一切の愛を取り上げられた冷と違い、兄である輝の存在が一つの小さな愛を末羽に教えてしまっていたのだと。そのたった一つ大事に抱えていた物を取り上げられ、目の前で粉々に砕かれてしまった末羽の感情など、冷は推し量るしか出来ない。

 愛を知る者と知らない者、それが冷と末羽の決定的な違い。

「僕と同じように人を憎み続けた末羽さんに、伝えたいんです。汚い部分ばかり目に入ってしまうけれど、人はそれほど悪くない……と」

 漠夜が命をかけて教えてくれたそれを、今度は冷が彼の意思を継いで彼女に伝えるのだ。それは、皮肉にも人をやめてから気付いたこと。

「汚い人間は汚い同士、末羽さんを道連れにこの世界で生きてやりますよ」

 冷の覚悟はこの場にいる誰よりも重く、月華達は彼を認めざるを得なかったのだろう。

 諦めたように溜め息をついた月華は、息と共に目一杯浴びせかけようと思っていた罵声も全て吐き出す。音もなく空気中へと混ざり合う彼への不満は、到底口にしても良いものではないと彼自身もよく理解していた。

「なら俺も、命預けるくらいの信頼をお前にやらねえとなんねーな」

 彼が浮かべた笑みに安堵したのは、冷ではなく一歩後ろにいた一葵の方だった。かつて漠夜のパートナーであった月華の彼に対する情は、この四人の中では誰よりも大きい。誰よりも漠夜の事を信頼していた月華を納得させるのは難しいように思っていたのだが、それは杞憂だったかと一葵は肩を撫で下ろす。

「君たちには、特務隊【流】の隊員として、葉邑冷准将の指揮下のもと如月末羽及び共謀者四人の討伐任務にあたって頂きたい」

 話がまとまったタイミングを見計らって命令を下す雅也の声に、四人は黙って頷く。

 白鷺一番隊基地の跡地近くに配備してある隊員の報告によると、どうやら彼女たちは基地に留まったまま動きを見せる様子が無いのだという。タイプMの術者が一名しかいないため、治癒に手間取っているのではないかというのが輝の見解である。伏兵の危険性もあるのではないかと思ったが、それは輝によって否定される。

「末羽はそもそも人間を信用しません。あれ以上の戦力が控えているとは考えにくいですね」

 誰よりも末羽の事を理解しているであろう輝の言葉に、冷も無言で考える。たしかに彼女の生い立ちを考えれば人間を信用していないという言葉には非常に納得がいくが、どうしても何かが引っかかるような気がした。

 薄く靄がかかったように正体の掴めない引っかかりを感じているうちに、彼らの話し合いはどんどん進められていく。

「出発時は俺の補佐である夕月白羽隊員と、如月輝大佐にも同行してもらう予定だ。なんとしても被害をここで食い止めるんだ」

 左右に控えた二人の隊員を指す雅也の言葉を聞いて、その場に緊張が走る。輝はもとより、夕月白羽と呼ばれた少年は法術師であるということ以外の一切が不明だ。しかし法術師は扱う能力の強大さから、人間兵器とすら称されるほどだと聞いている。そんな人員を起用するという事は、つまり末羽の事をそれだけ脅威に思っているという事なのだろう。

「各自、明日に備えて体調を整えておくように。以上だ」

 雅也の解散命令を聞いて、一人また一人と会議室から出ていく背中をぼんやりと見送る。彼らの命が自らの肩にかかっているのだと思うと、ずしりと重い何かが圧し掛かるような錯覚に襲われた。

 その正体はおそらく責任感。漠夜が長年一人で背負い続けた一人ひとりの命に対しての責任が、今度は冷に託されている。指揮系統を預かるという時点から覚悟はしていたが、いざ本当に命を預けられると、予想を超える重量に驚いてしまう。

 それら一つずつを噛み締めて自らを奮い立たせ、冷も彼らに倣って会議室を出る。急にぽかりとあいてしまった時間をどう埋めようかと思案していると、目線よりわずかに低い位置から声がかかった。

『冷、時間があるなら漠夜の所に寄りたいのだが、構わぬか?』

「え? ええ……大丈夫ですけど」

 会議室でのやり取りを静観していたベルゼバブの提案を聞いて、冷は意図が掴めず戸惑いながらも頷く。

 何となくであったが、ベルゼバブはもう漠夜に対する興味を失っていると冷は考えていた。彼の力をもってすれば漠夜をもう一度蘇らせられるのではないかと尋ねた時に、それは無理だとはっきり言われてしまっていこう、話題に上がる事もなくなっていたからだ。そんな彼が、急に漠夜の元へというからにはきっと深い意味があるのだろう。踵を返して漠夜の死体が安置されている場所へと足を向けた冷は、何か考え込んでいる様子の彼の横顔をそっと観察した。

 漠夜の遺体が安置された場所は、今は使われていないため誰の姿もなく静まり返っている。月華や神姫、輝の誰かが欠けていたらこの場に運び込まれる遺体がかなり増えていたと考えると、改めて彼らの頑張りに敬意を表したくなる思いでいっぱいだ。基地が襲撃され、死者は一名。その数字は奇跡的だと、本部の人間が口々に話していた事を思い出していれば、ベルゼバブの足音が漠夜に向かっていくのが聞こえて冷は意識を戻した。

「どうしたんですか?」

『お主の肉体と同化してから、ずっと気になっていた。なぜ漠夜がフェニックスを使役できていたのかを』

 漠夜の遺体の真横に立ったベルゼバブは、冷の頭を指さして口を開く。肉体が同化した時に冷の十八年分の記憶を読み取ったらしい彼は、そこでふと違和感に気が付いたのだという。

 それは、普通の人間では本来不可能であるはずの、ソロモンの悪魔を使役していたことについて。

 ソロモンの悪魔とは真名と紋章、そして魔法陣と指輪の四つが揃って始めて召喚が成立する高度な魔術だ。ソロモンの血筋を引いている輝や末羽ならばまだわかるが、なぜ縁も所縁もない漠夜が悪魔たちを使役していたのか。それを疑問に思ったベルゼバブは、こうしてわざわざ漠夜の身体を調べに来たようだ。

『真名と紋章はまだわかる。しかし残りの二つはそう易々と手に入る物では――』

 輝と漠夜の関係を考えると、真名と紋章は輝を通して知ったと考えたならば辻褄があう。しかし最も必要な要素である指輪はどうなのか。そうやって漠夜の記憶を読み取ろうとしているベルゼバブの後ろ姿を見ながら、冷はふと一つの可能性に思い至って表情を変える。

 漠夜が身に着けている指輪。そんなもの一つしか存在しない。

「少佐の、左手の薬指……!」

 胸の上で組まれていた指を解いて、慌てて彼の左手を確認する。婚約者がいたと聞いて以降、なんの不思議にも思っていなかった。失ってしまった婚約者に一生を捧げる覚悟の表れなのかと考え、冷自身もあまり問いかける事のなかった銀色の華奢な指輪がそこに嵌められている。

『こやつは神に愛されているのか? それとも嫌われておるのか? 幼い頃腹に詰められた指輪が……まさかソロモンの指輪だったとは』

 漠夜の記憶を読み取り、左手の指輪も確認したベルゼバブの表情が驚愕に染まる。

 幼い漠夜が絶命する原因となった盗品の一部が体内に残留し、奇しくもそれがソロモンの指輪という秘宝であった。小さなものであったため、おそらく盗賊団も取り出す時に見逃してしまったのだろう。漠夜の身体に残る古傷の数を考えると、何らかのきっかけでそれが体内から検出されてもおかしくはない。

『上手い事考えおったな。結婚を約束した者がいるとなれば、指輪を身に着けていてもなんら不思議ではない……』

 漠夜の指から抜き取った指輪を観察しながら漏らされた言葉に、漠夜が結婚を了承した本当の意図を察した冷は身震いした。ベルゼバブから授けられた攻撃魔術を最大限発揮することが出来る最強の召喚魔術を、誰にも怪しまれることなく使う事ができる。まさかそのために彼女との結婚を利用したのだろうかと、嫌な考えが脳裏を過ぎる。

 考えたくもない現実から目を背けたくて彼から視線を外すと、入り口の方に影が差しているのに気が付いた。

「――それは私が提案したんです」

 入り口横の壁にもたれて腕を組んでいた輝は、冷の目線が向いた事に気が付いた様子で静かに口を開いた。

「漠夜は最初、本来の持ち主である私に返すと言って聞かなかったのですがね」

 そう語りながら足を踏み入れる輝を呆然と見つめ、冷は彼の言葉の意味を理解しようと必死で頭を働かせる。ソロモンの指輪の本来の持ち主は、その血筋を引く輝である事までは理解できる。しかしその先、漠夜に指輪を預けた彼の意図がまるで掴めない。

『やはりお主が入れ知恵したのか』

「ええ。本当の婚約指輪は未羽の遺体と共に燃やしてしまいました」

 解かれた漠夜の指を丁寧な仕草で組み直させる輝は、まるで昨日の事のように朗々と言葉を紡ぐ。

「どうして……」

「言ったでしょう? 漠夜に勝手に期待を押し付けていたと。私もね、馬鹿だったんです。彼なら末羽を止めてくれるかもしれないなんて、そうやって彼らの思い出まで利用して……」

 再び組まれた漠夜の指に、輝の手が添えられる。俯いた彼の表情は窺えないが、なんとなく見てはいけない事のような気がして冷も目線を逸らす。

 漠夜と未羽の結婚式は失敗に終わり、交換するはずだった指輪は未羽の遺体と共に火葬し埋葬され、漠夜は代わりに自らの命を奪った指輪を身に着けて生きてきた。それが輝の言う漠夜の本当の姿。如月家の因縁に巻き込まれる形で輝からの期待を背負い、それでも一人で立って歩み続けた漠夜は何を思って生きていたのか。彼の心中は、知れば知るほど実像がぼやけてしまう。

「この指輪が漠夜を死に至らしめた物だなんて知らなかった……なんて、言い訳にもなりませんね」

 自虐的に笑う輝に何も言えず、冷は言葉を詰まらせる。もしも自分が彼の立場だったなら、きっと糾弾される事を恐れて告解することすらできなかっただろう。しかし、漠夜に二度目の死をもたらしてしまった自分にはその権利が無いのだと、冷は目を背ける事しかできなかった。

『断罪が望みか?』

 言葉を失う冷の代わりに口を開いたのは、輝の目をまっすぐ見つめて聞いていたベルゼバブだった。その言葉を聞いて目を丸くした輝の姿も黙って見据えている彼の意図が掴めずにいると、目の前の彼がふと笑う気配がした。

「いいえ、自分の罪は自分で背負います。――漠夜に預けた分まで」

 覚悟を決めた瞳は美しく輝き、冷の心を震わせる。自分と同じように、彼もまた命を賭けて漠夜の意志を継ぐ気なのだと雄弁に語る彼の表情を見るに、おそらく最初から誰からも許しを受ける気なんて無かったのだろう。糾弾も嫌悪も何もかも抱えて、たった一人でも末羽を今度こそ止めて見せるという強い意志。

 実の妹だけでなく、玲という存在を失った彼の導き出した結論がこれなのだと冷は悟った。

「これは大佐にお返しします」

 ベルゼバブから受け取った指輪を、輝の掌にそっと乗せる。綺麗に磨き上げられたそれは室内の僅かな光を反射して輝いており、その銀色は漠夜の背中を彷彿とさせる。

 指輪をしばらく無言で見下ろしていた輝は、表情を引き締めてそれをしっかりと握った。

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