5-3

「正気の沙汰じゃねえっすよ、そんなの……」

 耐えかねて姿を消すことは当然のことと言えるような仕打ちに、玲は吐き気がした。そう吐き捨てれば冷は黙って微笑んで隊服を着直し、静かに腰を降ろした。すっかり感情が抜け落ちた彼からは、つい昨日までの明るさなど微塵も感じられない。どちらが本当の彼なのか、一瞬わからなくなってしまいそうだ。

「ベルゼバブを宿していたから、末羽の腐敗の呪いが効かなかったのか……」

「あの時から、少佐は何か気付いていたんですよね? 呪いの進行具合に訝しそうな顔してましたもんね」

 ことり、と冷が首を傾げる。静かに、人形のように。

 それを真正面から見据えていた漠夜は、冷の仕草の異様さにも何一つ表情を変えることなく平然とした態度で口を開いた。

「それで? お前はどうしたい」

 漠夜の口から発せられた一言に、冷と玲は目を見張って顔を上げる。あの悲惨な過去を聞いてから、まさかそんな返答が出てくるとは思わなかったのだろう。冷の表情にわずかな感情が戻った事に安堵した気持ちもありながら漠夜を見れば、彼は呆れたように足を組んで腕を組んでいた。

「同情してほしけりゃ教会に行けと俺は言った。その後お前はなんて言った?」

「え……?」

「忌童子なんかじゃない、葉邑冷だ……そう言ってたのは俺の聞き間違いか」

 緩慢とした動作で冷の顔が上がり、漠夜をじっと見つめる。息をするのも忘れたかのように一心に見つめるその表情には先ほどまでとは違った生気が宿っており、青年・葉邑冷そのものの姿を取り戻しつつあった。瞬きすらせずにじっと漠夜に視線を注いでいた冷が何を考えているのか玲と漠夜にはわからなかったが、少なくとも自分を卑下する思考からは解き放たれかけているように見える。

「葉邑冷から忌童子に戻るか?」

 漠夜の問いかけに、冷がゆっくりと首を横に振る。

「お前は神代村の人間を許せるか?」

 二度目の問いかけにも、首を横に振りながら答える。

「お前は俺のパートナーか?」

「……はい」

 最後に投げかけられた問いには、小さく掠れた声ではあるがしっかりと言葉で肯定を示す。問いかけの間に俯いてしまったため表情は掴めないが、その声音から彼の感情が伝わってくるような気がした。

 膝の上で握り締められた冷の手が震える。判決を待つ罪人のごとく漠夜の言葉を待つ彼に向けられた最後の言葉は、ひどく簡素な一言だった。

「ならそれでいいじゃねえか――冷」

 話は終わりだと言わんばかりに立ち上がる漠夜と同時に、冷がはじかれたように顔を上げる。その双眸は滂沱に濡れて新緑色の瞳を揺らし、唇は泣き声を堪えるかのように引き結ばれている。漠夜が放った一言は傍から見ればなんてことない一言だったが、それが冷にとっては過去の記憶よりも強く惹きつけて止まない一言だった。

 冷が自らの経歴を偽った際に名前を変えなかったのは、それが両親から与えられた唯一の贈り物だったからだ。生まれる前から決められていたという名前を名乗り続ける事は冷にとっては己が人間として愛されたただ一つの証拠で、それを手放す事が彼にはどうしてもできなかった。

 そして忌童子として虐げられ続ける人生に絶望し、それでも愛情を求めて一人で村を飛び出した冷が初めて見つけたのが、パートナーである月折漠夜の存在。その彼から事実を知ってなお名前を呼ばれるという行為は、忌童子という拭い去れない過去を払拭するには十分だったのだ。

 忌童子という人間ではなく、葉邑冷という一人の人間として存在を許されたのだと。

「ありがとう、ございます……っ!」

 去って行く漠夜に向かって、冷が深々と頭を下げる。その様子を隣で見ていた玲は、人間同士が結ぶパートナーという絆が少しだけ羨ましく感じて、無意識のうちに目を逸らしていた。

 









「あれから調べてみたが、あの龍は元々この土地を守護する氏神だったようだ。それが許容量を越える邪気を吸収しちまったもんだから、ああして苦しんでいるみたいだな」

「あれって苦しんでるだけだったんすか」

 翌日、手に入れた情報をもとに街の図書館で文献を探していた漠夜は、龍の正体を突き止める事に成功した。

 龍は元々邪気の湧きやすいこの土地を鎮めるために召喚された氏神であり、忌童子とはその龍を補佐する役割を果たしていたのだという。邪気の発生を龍が抑え、それでも微かに漏れた邪気を忌童子が肩代わりする事で機能し続けていたが、冷が土地を離れた事でついにその均衡が崩壊してしまった。

 邪気に侵された龍は苦しみにのたうち、今にも邪龍へと堕ちようとしてしまっている。

「龍ってああ見えて繊細っすからね……」

 清廉な気に満ちた場所を好む龍にとって、邪気の湧く土地というのは毒の海に身を沈める行為だ。そんな場所で数百年もずっと暮らしていたのだから、あの龍は相当な力を持った氏神なのだろう。

「とりあえず、結界を張って龍を邪気からいったん隔離する。それから――」

「そこから先は、僕に任せてください」

 術を発動させるための結界符を携えた漠夜の言葉を、静かな言葉が遮る。後ろで二人のやり取りを聞いていた冷は、漠夜が言い終える前に遮ると一歩進んで二人の前に立った。

 腰まで伸ばした金の髪が朝日を浴びて光り、乱反射するそれを受けて振り返った冷の表情は穏やかな笑みを形作っていた。

「大丈夫です、やれます」

 笑いながら告げられた言葉に、玲と漠夜は一瞬目を見合わせる。自暴自棄になっている様子が見られない事を確認した漠夜もふ、と小さく笑い、結界符を携えたまま腰を上げた。

「俺と玲で結界を張る。五分もあれば充分だな?」

「はい」

 二人が並び立ち、冷が頷いたのを確認してから左右に散る。苦しみに悶えて絶えず咆哮を上げている龍と一定の間隔を保ったまま対面に立った玲と漠夜は、二人で同時に術を展開して大地の邪気から龍の存在を切り離す。

 途端に体を強く押し付けられるような負荷が体に走り、受けてのいなくなった邪気が彼らに対して猛威を振るう。結界を維持するために構えた両腕はミシミシと関節から悲鳴を上げ始め、一瞬でも気を抜けば地面に両ひざをついてしまいそうなほどだ。邪気の影響で頭は鋭い頭痛に侵され、耳は鼓膜を引き裂くような鋭い耳鳴りが走る。体にかかる負担を考えると、漠夜の言う通りもって五分といったところだろう。

「冷、行け!」

 漠夜の合図を受けて、冷が結界の中に飛び込む。

 邪気から遮断された結界の中で深く息を吸い込んだ彼は、苦しみで息を切らした龍にゆっくりとした歩幅で近付く。襲い掛かる気配は見せずに横たわったままの龍の前に立った冷は、なるべく刺激しないように緩やかな動作で彼の頬に触れた。

「怖がらないで」

 触れた瞬間に身じろぎした龍に向けてそっと声をかけた冷は、そのまま両手をついて頬を寄せる。頬を合わせた体制になった冷の言葉は龍の耳にもしっかり届いているのか、彼は一瞬身じろぎをしたきり体の動きを止めた。

「ごめんね……知らなかったとはいえ、君を一人にしてしまった」

 目を閉じて静かに語り掛ける冷の口調は穏やかに澄んでいて、昨日までの恐慌ぶりが嘘のようだった。噴き出す邪気に耐えながらその様子を見ていた玲にはまるでそれが神聖な儀式のようにも見えて、思わず呼吸を止めて見入ってしまう。

「僕らは生まれた時から一つだったんだね……」

 冷の語り掛けに、龍が短く喉を鳴らす。それを肯定の返事と受け取った冷は顔を離して微笑むと、自らの懐から一本の小刀を取り出した。冷が取り出したのは、事前に漠夜に作ってもらった魔力の込められたもの。蒼白く冴え冴えとした光を放つそれを自らの首元へと添えた冷は、そのまま腕に力を入れて一気に横に引いた。

 ばらばらと宙を舞うのは腰まで伸びていた金の髪。それを肩につかない範囲まで短く切り取った冷は、それを丁寧にまとめると地面にそっと落とした。

「邪気は全部僕が貰っていくから。君はもう自由だ」

 龍の沈め方について漠夜たちと一晩話し合った冷が出した結論は、おのれが忌童子として生まれ持った力を利用して邪気を引き受ける事。それでは昔の二の舞になると玲が反対したが、冷はそれに対して首を頑として縦に振らなかった。

 元々、ベルゼバブを宿して生まれた冷は他の忌童子に比べて邪気に対する耐性が高かった。二年間という短い期間だったが、その間ずっと邪気に晒されずに魔術の使い方を学んだ冷ならば、もしかしたら歴代の忌童子よりもはるかに長い間邪気を受け止めきれるのでは。そう見解を示したのは漠夜だ。

 冷はそれに頷き、自ら『忌童子の役割を全うする』と言い出した。

『僕はもう過去から逃げない』

 そう宣言する冷に玲が異を唱える事はできず、ならば少しでも負担を減らすべく考えられたのが今の手順だ。

 成長に伴い少しずつ伸びる髪の毛には、それと共に少しずつ魔力が宿っていく。それを依り代にして冷と回路を繋いでおけば、この土地を離れても邪気を肩代わりできるはずなのだ。同じ原理で漠夜や輝の魔力から派生した肉体を持つ玲の言葉には説得力があったため、漠夜も冷もそれに異を唱えなかった。

 邪気の届かない正常な空間で冷と龍の魔力を込めた依り代をその場に楔として打ち込み、守護を完成させる。それが今回の任務において導き出された結論だ。

「よし、玲! 結界を解け!」

 漠夜の小刀と共に地面に髪の束が打ち付けられたのを確認すると、漠夜は対面にいる玲に聞こえるよう声を張って合図をする。それに従って術を解いた玲は、無意識のうちに詰めていた息を吐き出して大きく深呼吸した。

「っはー……疲れた」

 その場に座り込んでしまった彼を見た冷はすっかり軽くなった頭を揺らして笑みをこぼし、それから漠夜に視線を向ける。彼は神と小刀が邪気を吸収するための依り代としてきちんと機能するか確認しており、今は冷の隣にしゃがみ込んでいた。

「体は」

「大丈夫です、なんともありません」

 徐々に体に流れ込んでくる邪気を体になじませるように手を開閉させた冷は、ほんの二年前まで感じていた懐かしい感覚に目を細める。体内を流れる血流がまるで生き返ったかのように力強く脈動し、体の奥底から力が湧き出す感覚がひどく懐かしかった。

「よし、確認した。本部に戻るぞ」

 湧き出る邪気の正常なルートの確保を確認した漠夜は、龍が沈静化したのを確認して腰を上げる。邪気に晒されなくなったからなのか、龍は見違えるほど大人しくなっており、それどころか冷にすっかり懐いているようにも見えた。

 その状態の彼を置いて行くのは冷としては若干心苦しかったが、いくら何でも龍を本部に連れて行くのはできないだろうと自分に言い聞かせる。

 通信機を作動させてトランスポートの使用を申請しようとする漠夜の背を見ながら立ち上がった冷は、もう一度彼に向って小さく頭を下げた。

「……妙だな、反応がねえぞ」

 しかし、帰還の準備を始めていた冷と玲の手を止めたのは、漠夜のそんな一言だった。彼は左耳に着けた送信用通信機に手を当てながら何度か捜査をしているが、どうやら一向に反応が無いようだ。それを訝しく思い冷も同じように送信機を操作してみるが、こちらもやはり反応は無い。どうやら玲も同じようだったようで、視線を向ければ彼は無言で首を横に振った。

「おかしいですね……僕たちだけならまだしも、少佐の通信機まで繋がらないなんて」

 漠夜の通信機は、白鷺一番隊の特攻隊長として専用の回路が仕込まれた特別なものだ。効果範囲も強度も一般隊員に支給されている物とは比べ物にならず、それこそ本部の通信機器を全て遮断しなければ漠夜からの送信が困難になる事はあり得ない。

 ならば何故、と考えていると、右耳に装着している受信機の方が通信の通知を示す機械音をその場に響かせた。漠夜と冷、そして玲の三人全員の通信機が同時に鳴り響いたその異様な事態に、何か嫌な予感を感じた。

『えーっと、これでいいのかな?』

 ざあざあとした雑音の向こうから、年若い少年の声が響く。それにひどく聞き覚えのある漠夜たちは咄嗟に身構えるが、今は本部から遥か遠くに離れた辺境の地だ。本部からの通信だと一瞬でわかるというのに、今すぐ駆け付けられないこの距離がとてももどかしく感じる。

『あー、白鷺一番隊の諸君。あんたたちの本部は俺たちが頂いた。各地に残った隊員は俺たちが直々に殺しに行ってあげるので、大人しくその場で待っているように。以上!』

 通信機から聞こえてきたのは、つい数週間前に末羽と共に吸血鬼事件を引き起こした奏馨の声だ。その彼が発信したのは、おそらく緊急時専用の回線なのだろう。中央大陸全土に散らばる隊員たちに一斉に知らされたそれは、隊員たちのみならず漠夜や冷を震撼させるには十分すぎる内容だった。

 白鷺一番隊において一番の実力者である如月輝が護りを固める本部を落としたというのは、それほどまでに信じがたい行為だったのだ。

 本来ならばあり得ない事態に、三人の間に緊迫した空気が流れる。言葉を発するのも躊躇われる状況の中で一番に口を開いたのは、やはり漠夜であった。

「そこの龍を起こせ! いますぐ本部へ戻る!」

「……っはい!」

 疲れ果てて冷の隣で寝ていた龍を、漠夜の指示に従い揺り起こす。トランスポートが使えない状況下でどうやって本部に戻るかが最大の難関になると思っていたが、それはどうやら漠夜にとっては些細な事だったようだ。

 飛竜でもあるこの龍に乗って行けば、距離や時間の関係など軽く解決させられるだろう。起きた龍に事情を説明して背中に飛び乗れば、彼は大きな翼を広げて上空へと飛翔した。


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