1‐4

 嘲笑を止めたくて、近くを飛んでいた蝶を叩き落とす。すると、蝶が消える瞬間に右手に強い違和感が走り、周囲に焼け焦げたような強い刺激臭が立ち込めた。不思議に思い見てみると、蝶に触れた部分を起点として徐々に皮膚が腐って爛れている。

(……このまま消えてしまえばいいのに)

 腐食が進行してく様子を見て冷の胸に去来した感覚は、間違いなく安堵だった。

 攻撃を仕掛けてくる様子のない彼女に背を向けて、冷は漠夜を探すべく走り出す。黒い森の中は方向感覚を麻痺させてしまい、同じ場所を走っているような気にさせる。

 息を弾ませて森の中をひた走っていると、不意に耳元で声が聞こえた気がして、冷はその場で立ち止まった。ひどく取り乱したような女性の声だ。

「お願いだから母さんなんて呼ばないで!」

 先ほどよりもひどく鮮明に聞こえたそれから逃げるように、冷は再び足を動かしてその場から走り去る。女性の声を皮切りに徐々に増えていく言葉たちは冷の頭の中を反響して、意識を遠い昔へと引きずり戻していく。

 『化け物』と、その言葉が重なっていく。

(僕はなんでこんなに頑張っているんだろう……)

 逃げるようにひた走っていた冷だったが、絶えず罵声が響いていたせいで走る気力はほとんど削がれてしまっていた。このまま座り込んで、静かに一人で腐敗して死んでしまいたいとすら思い始めたその時だった。見慣れた白い背中が視界に入り、黒い森の中でも輝きを失わない銀髪が目に飛び込んできた。

「少佐……」

 ふらふらと彼に歩み寄り、助けを求めるように声をしぼりだす。まだ距離があったと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。微かな声にも反応した漠夜が振り返り、澄んだ青色と目が合った。

「馬鹿野郎! 伏せろ!」

「えっ?」

 漠夜の眼が見開かれたと思ったと同時に、体に強い衝撃が走る。地面に倒れ込んだ冷が慌てて体を起こしてみると、そこに広がっていたのは赤と白の洪水。細く長い氷柱に体を貫かれている漠夜の姿だった。

「少佐!」

 おそらく末羽がどこなに潜んでいたのだろう。そして、漠夜を見つけて気が緩んだ冷を狙って氷柱を放ち、それに気が付いた漠夜が再び冷を庇った。今度は自分で結界を張ることすらできず、生身でその凶刃を受けてしまった事はすぐに察することが出来る。

 脇腹を貫通したそれは漠夜の血液にまみれて地面に突き刺さっており、苦しそうに息を吐く彼が苦々しくそれを睨みつけていた。

『はは、ぜったい庇うと思った』

 漠夜から少し離れた場所に、末羽がゆっくりと姿を現す。木々が少なく開けた場所だったため、彼女が愉快そうに笑う表情も何もかもがはっきりと窺い知る事ができた。

 漠夜が冷を庇う事を確信して氷柱を放った少女は、狙い通りに深手を負った漠夜を鼻で笑いながら見下している。

『相変わらず甘いね、漠夜は。そんな無価値な羊なんて庇う必要ないのに』

「うるせえ……っ」

 息も絶え絶えになりながら、漠夜は剣を携えて立ち上がる。筋肉に力が入るからなのか、それだけの動作でも出血はひどくなる一方で、このままでは命に係わる事が明白な状態だ。彼は治癒・防御系統の魔術を使えるようだが、傷を塞ぐのに回す魔力も残っていないのかもしれない。

「本当に、どうしてそんな状態で僕なんか庇ったんですか……!」

「知るかよ……っ」

 無意識のうちに、口から言葉が滑り落ちる。戦況は劣勢で、足手まといを抱えたまま戦うのが困難ならばさっさと切り捨てればいいのだ。なのに、彼はそれをしなかった。結果彼に深手を負わせ更に戦況を悪くしているのだから、その事実が冷の心に重くのしかかる。

「こんな僕なんて、放っておけばいいのに……どうして少佐は庇ったんですか? 僕が何もできないのなんて、少佐だって知ってるでしょう!」

 簡易的に傷を塞いだ漠夜が末羽に向けて剣を振りかざすのが見える。それを軽やかにかわしながら放たれた氷柱は正確に漠夜の心臓を狙い一気に突き破ろうと一直線に飛んでいく。至近距離での攻防線だったが、予備動作の少ない漠夜の方がわずかに行動が早く、体に触れる前にそれらを全て切り落としていく。

 その様子を見ているのがつらくて目を固く閉じれば、苛立ちの混じった漠夜の怒声が上がるのが聞こえた。

「お前は何のために軍人になったんだ! 自分から選んでおいて、いまさら泣き言を抜かすな!」

 ひときわ大きな音を立てて術が相殺され、二人はいったん距離を取って間合いを図り直している。末羽の表情には余裕が残っており、漠夜の出方を楽しんでいるようにも見えた。

「少佐に何がわかるんですか! 僕が、なんでこんな……っ」

「知るわけねえだろ! 同情してほしけりゃ教会にでも行ってろ!」

 漠夜に負けず大きく声を張り上げれば、ぐっと胸倉を掴んで持ち上げられる。息が詰まりそうな感覚に思わずむせ込めば、彼は小さく舌打ちをして手を離した。

「自分が何のためにこの道を選んだのか、よく考えてみろ。こんなとこで死ぬためじゃねえだろ」

 漠夜の顔を直視する事が出来なくて、冷は顔を逸らして黙り込む。なんの為にこの道を選んだのか、今はそんな事を考える気力は冷には存在していなかった。

「知りませんよ……そんなの」

「……そうかよ」

 小さく言葉を漏らすと、漠夜が呆れたような表情でこちらに背を向ける。やはり見捨てられたかと思えば、惨めな気分になるどころかどこか爽快な気分ですらあった。生きる気力を失いかけた冷にとって、この場で死ねるのならばそれでいいと思えるほどに疲弊していたのだ。

『茶番はもうお終いかな?』

「ああ、ケリをつけようぜ」

 座り込んでしまった冷を背に、漠夜は再び彼女に向き直った。周囲を飛び交う無数の蝶の群れを切り落としながら接近し、彼女の胴めがけて長剣を大きく振り払う。それを軽やかな動作でかわした末羽は漠夜に向けて大きな氷柱の嵐を放つ。

 先ほどとおなじことの繰り返しのように思えた術の応酬だったが、それでも漠夜の顔にはどこか勝ち誇ったような笑みが浮かべられていた。

「これで終わりだ!」

 降り注ぐ氷柱を一つ残らず砕いた漠夜は、地面に向けて長剣を突き立てる。その意図が掴めず、冷は一瞬瞬きをしたが、次の瞬間に体を襲った大きな揺れで全てを理解した。

 長剣が付きたてられた部分から赤い空に向かって大きな亀裂が走り、耳障りな音を立てて空間が瓦解していく。剥がれ落ちた赤い外殻の向こうには青い空が広がっていて、漠夜が末羽の固有空間を破壊したことを悟る。

『なるほどね……こっちのフェニックスに意識を移してたわけか』

 崩れ行く空間を見て末羽が笑う。

 固有空間を突破するには、術者自身を戦闘不能にさせるか、外側にある楔を破壊するしか方法がない。そのため、おそらく漠夜は固有空間の外に取り残されたフェニックスに意識の一部を預けて、楔を破壊する機会を窺っていたのだろう。

 黒色が天然色に塗り替えられ、風船が破裂するように固有空間が消えていった。

「これで互角だ」

 笑いが止まらない様子の末羽に、漠夜が剣先を突き付ける。フェニックスが咆哮を上げ、彼女に狙いを定めている所を見ると、彼の言う通りこれからは互角の勝負になるだろう。

 己がいなくても、きっと。そう思った冷の心は未だに這い上がれておらず、ただ茫然と彼らのやり取りを見守るしかできない。漠夜の能力を考えれば、下手に手を出しても役に立たないどころか足を引っ張るだけで、本当の意味で役立たずになってしまう可能性がある。それがひどく恐ろしく感じて、冷の指先は動く気配を見せない。

『こんなんで互角になったつもり? 本番はここからだろう』

 漠夜の言葉を受けて顔から笑みを消し去った末羽が、長大な牙のような武器を作り出す。おそらく召喚魔術の応用で作り出された蛟の牙なのだろう。鋭く、それでいて滑らかなそれは穿つ能力に長けていて、まるで一本の槍のようだ。

 小さな体のどこにそんな力があったのかと不思議に思うほどの身軽さで猛威を振るう末羽の凶刃を、漠夜は長剣で受け止めながら切り返す。末羽と漠夜の距離が近い分迂闊に動けないのか、フェニックスは先ほどから威嚇するような咆哮を上げているのが響いていた。

『このまま放っておいたら、君は死んでくれるかな?』

 彼女の牙が漠夜の左半身を貫く。筋肉を引き裂かれて小さく呻いた漠夜の声ではっと意識を戻した冷は、そこで微かな違和感を抱いた。

 先ほどから彼は結界や治癒魔術を使うそぶりを一切見せない。彼ほどの術者ならば同時使用だって容易い筈なのに、長剣を使った切り合いという単調な戦闘に甘んじている。

「死ぬときはお前も道連れにしてやるよ」

 ほとんど動いていない左腕から膨大な血液を垂らしながら、それでも漠夜は不敵に笑う。元々は白だったと判別できない程真っ赤に染め上げられた軍服を翻しながら末羽に向けて長剣を振り上げる彼の身体を突き動かすものは一体何なのか、冷にはわからない。

 振り上げた長剣が末羽の髪先を掠める。至近距離に迫った漠夜に向けて彼女は膨大な量の蝶を放つが、持ち前の瞬発力で距離を取った漠夜が一羽二羽と切り落としていく。蝶の持つ腐敗の能力によって長剣は徐々に腐食しており、そろそろ剣としての役割を果たせなくなってしまうだろう。

 そこで、不意に漠夜が落とし損ねた蝶が冷に向かって近づいて行く。それに気が付いた冷だったが、反射的に腰を浮かそうとしても、頭はほとんど生きる事を拒否しているため満足に動けない。

 末羽の蝶が眼前に接近し、接触を覚悟した冷の耳に術の発動音が聞こえたのは、目を閉じた直後の事だった。

「――え、」

 彼女の蝶が、冷に接触する寸前で突如発生した結界によってはじかれて消えていく。うっすらとした青色の結界はドーム状になって冷の身体を護っており、少し触れただけで感じる魔力はそうとう強固な結界であることを示している。

「これは、少佐の結界……!」

 慌てて立ち上がり、足元を中心に周囲を見回す。すると、冷が座り込んでいた場所からちょうど死角になるような位置に血まみれになった呪符が落ちていることに気が付いた。そこに綴られた文字は判別が出来なくなってしまっているが、間違いなく漠夜の結界符だ。

 かつて『化け物』と呼ばれ忌み嫌われた記憶の海に沈んでいた冷は、その結界符を見た途端に頭を強く殴られたような衝撃に体を震わせる。

(これじゃあ昔の僕と同じだ)

 はっきりと開いた視界に映るのは、全身を地で染めながらも果敢に立ち上がる漠夜の後ろ姿。彼がなぜ頑なに立ち上がり続けるのかわからなかったが、ここに結界符を残していった事に気が付いてようやくその真意に気が付いた。彼は、自分が倒れないうちは冷を護る術が発動し続ける事を知っていたのだ。だから彼は自分の傷を治すのを後回しにしてまで、冷の元に結界を貼る札を残していった。

 冷静になった頭で彼から掛けられた言葉を一つ一つ飲み下していけば、それらは単なる叱責ではなく、いつでもたった一つだった。

 『生きろ』と、彼は冷の事を否定せずにただ守り続けていた。

 漠夜が残していった結界符を握り締め、冷は動悸を抑えるべく息を深く吸い込む。不器用な漠夜からの無言の言葉は、理解した時それはどんな言葉よりもまっすぐ冷の心に響く言葉だった。

 符に小さな水滴が染みる。漠夜は、拒絶せずに全てを許していたのだ。

「そうだ……僕はもう忌童子なんかじゃない」

 結界符を懐にしまい、代わりに取り出したのは冷の仕様する媒体である魔鏡。内側から流れ出た恐怖という感情を拭い捨てた冷は、はっきりと意思を取り戻した目で前を見据えて地を蹴った。向かう先で奔る火花の嵐に、思考が体に追いつく前に割って入る。

 手に持った魔鏡は末羽の牙を受け止めており、もう片方の手は漠夜を庇うように伸ばされていた。火事場の馬鹿力とでも言うのだろうかと呑気に考える頭を軽く振りながら、冷は魔鏡を持つ手に力を込めた。

「僕は葉邑冷――白鷺一番隊の軍人です。忌童子なんて名前じゃない!」

 混信の力を込めて結界を発動させ、末羽の身体を弾き飛ばす。今までほとんど魔力を使っていなかったおかげで万全の状態で発動させられた結界は、少なくとも彼女の攻撃をわずかに防ぐほどの効果はあるだろう。

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