第05話 黒歴史手帳


「……は?」

「菜奈姫の名の許に、其の記述をここに実現するものとする!」

「ちょ、そうでは――」


 ない、と言いかけても、もう遅い。

 奈菜姫の全身から発せられていた琥珀のオーラが広がり、そして、中空に漂い続ける手帳へと集結する。

 琥珀色が空間全方位から灰色を圧迫し、そのまま混ざり合おうとするのだが、そこで、


「ぬぅ……っ」


 両手を合わせた菜奈姫が、苦悶の声を漏らした。人形のように整った顔に歪みが入り、眉根にも力が籠もり、大きな瞳をグッと細まる。

 肝心の手帳はと言うと、中から滲み出る灰色……とは違う紫の煙みたいなものが、菜奈姫の発する琥珀色のオーラを押し返していた。

 何だろう、この紫煙は。

 まるで、身体の奥底から寒気が走るような何かが秘められているような――


「くぉの……!」


 と、菜奈姫がしっかりと体勢を立て直して、合わせていた両手を、扉を開くかのように押し広げる。

 するとどうだろう。紙のちぎれるような音が鳴り、手帳の中から滲み出ていた紫煙が手帳から切り離され、そのまま文字通りの風となって――窓の隙間から外に出ていった。

 途端に、室内の揺れがぴたりと収まる。中空に浮かんでいた手帳も地面に落ち、そのまま沈黙。灰色のオーラは、もう浮かんでいない。


「ふぅむ……なんだったんじゃ今のは」 

「なんだったんじゃ、じゃねーよっ!」


 即座に那雪が手帳を拾い上げて、菜奈姫をどやしつける。もしこの娘に実体があったなら、そのおかっぱ頭を持ってる手帳で叩いていたところだ。


「なに勝手に願いを叶えようとしてんだよっ!」

「これは異なことを言う。どうにかしろと言ったのはお主ではないか」

「意味がちげーよ! 私はこれを処分する意味で言ったんだ」

「なんじゃ勿体無い」


 やれやれと息をつく菜奈姫に、那雪は『ああもう』と毒づいて……ふと気付く。

 あの手帳の内容が実現されたとなれば、自分の身に何かが起こっていようものなのだが、身体のあちこちを見ても何かが起こった痕跡はない。

 もしかして、その願望は叶えられなかったのだろうか?

 少し気になって手帳をパラパラとめくってみる。……久しぶりに目にした中学二年生の妄想満載の内容に、那雪は思わず顔を背けたくなった。


「ん? なんじゃ? この、和洋が入り交じった鎧みたいな絵画は」

「な……み、見んなっ!」


 後ろから菜奈姫が興味深そうに覗き込んでいたのに、那雪は慌てて手帳を隠そうとするが、手が滑ってその手帳が手元から離れてしまい、


「ゆっきー、これ、もしかしてあの黒歴史手帳?」


 その矢先に居た桜花が手帳をキャッチして、まじまじと中身を見始めた。

 それだけで、那雪の頭の中が沸騰した。


「ちょ、こら、桜花、返せっ!」

「ぶっ……『滑空舞空』……こ、これは初っ端からクライマックス……!」

「こ、声に出して読んでんじゃねーよっ!」


 那雪が取り返そうとするも、桜花は自分の長身を活かして、手帳を上に掲げて見上げるようにして中身の検分を行う。那雪と桜花の身長差はちょうど二十センチ。そうやって上にあげられると、ジャンプしても届かない。


「なんじゃ、気になるではないか、我にも見せてみい」

「んー、ナナちゃんにはこのページかな」

「なになに、『直下雷撃』?」


 しかも、那雪の包囲を掻い潜って菜奈姫に中身を見せている器用さは、呆れを通り越して感心してしまった。


「天高く跳躍し、迅雷の如く超速急降下して、標的の頭頂から爪先に至るまでに衝撃を貫通させる超必殺の蹴り技……お、おおぅ……これはえげつないのう」


 感心している場合ではなかった。

 手帳を見せられた菜奈姫は、衝撃を受けたかのように仰け反っている。『えげつない』というのは技の内容云々ではなく、当時の那雪の脳内を指し示していると、誰の目から見ても分かった。


「だから読むなっつーのっ! いい加減返せっ!」

「良いではないか。これはなかなか楽しいぞ。いろんな意味で」

「お、ナナちゃんにも受けがいい。良かったねゆっきー、神様にも好評だよ」

「嬉しくねーよっ!」


 業を煮やした那雪はジャンプをするのを諦め、ほとんどバンザイの体勢になっている桜花の身体に背中から抱き着いた。ガバっと、全身でぶつかるかのように。

『え? ゆ、ゆっきー?』と桜花の戸惑った声が聞こえたような気がしたが、それにも構わず、


「ふんっ!」

「はぐおっ」


 腹にまでしっかりと腕を回し、渾身の力で締め上げることで、桜花は苦悶の声を上げて崩れ落ちた。

 師に教えられた蹴り技とは別に、我流で修得したベアバッグ。狙ったのが胴回りともなれば、彼女が保有する大盛りの胸部緩衝材もまるで意味を成さない。


「まったく……」

「むう、もう見せてくれんのか?」

「見せねーよ」


 取り落とされた手帳を拾い上げる那雪に向かって、菜奈姫が上目遣いで視線を送ってきている。

 その様は、ご主人様にご飯のおかわりを物欲しそうにねだるわんこの如し。

 かなり可愛かったが、どんなに可愛くてもこれ以上の羞恥は御免だ。

 手帳を元の机の下に仕舞おうとして、ふと、那雪は違和感に気付く。改めて見ると、手帳の中盤あたりのページが、何枚か破れてなくなっていた。


「……?」


 ふと、那雪の頭の中で、窓をすり抜けて出ていった紫色の煙のことが思い浮かぶ。

 アレは、一体何だったのだろう?


「菜奈姫」

「なんじゃ、やっぱり見せてくれるのか?」

「違う。これの何枚かが破れてなくなっているんだが、さっきの紫のやつとなにか関係があるのか?」

「んん? ああ、詳細はわからぬが、おそらく願望に潜む陰の気みたいなものだったんじゃろう。だから願望を叶えるのを取りやめて、その部分だけ切り離して、彼方に吹き飛ばしてやったんじゃ。我の全力をぶつけたからには、あとは陰の気も浄化されて野に還るだけじゃろうて」


 えっへん、と自慢げに無い胸を張る菜奈姫なのだが。

 那雪の中にある違和感は、まだ拭えなかった。


「陰の気っていうのはなんだかよくわかんねーが、野に還るって、その破れたやつはどうなるんだ?」

「元の、願望の綴られた紙片になるだけじゃ。神としては、町に紙屑を解き放つのはいささか忍びないんじゃが、ああいう陰の気は早急に……って、どうした、チンクシャ」


 菜奈姫の説明を聞いているうちに、那雪は全身に嫌な汗がダラダラと流れていくのを感じた。

 単なる紙片になる、ということは。

 ――アレに書かれている内容が不特定多数の誰かに見られるかも知れない。


「ほぅわっ!」


 悟った瞬間、変な声が出てしまった。


「む、チンクシャ、その面妖な発声は件の書物に記されている超必殺技なのか?」

「……いや、違うってか、なんでおまえはそこまで興味津々なんだ?」

「ナナちゃん、ゆっきーはあの手帳の中身を誰かに見られるから変な声を出しただけだよ」

「察しが良いのは助かるがいちいち言わんでもいいってか、桜花、復活早いなっ!」

「なんじゃ、ああいう陰の気が封じ込められとったからには、我の考えには及びもつかぬ超必殺技が記されているのかと期待したんじゃが……」

「人のことなんだと思ってんだよっ! ってか、おまえ超必殺技好きだなっ!」

「ゆっきー、確かその辺りのページ、特撮怪人の設定とか書いてたページだよね。こう、闇色のぬりかべとかマタンゴグレートとかガーゴイルフォースとか……ぶふーっ、お、思い出しただけでも、これまたクライマックス……!」

「なんで憶えてんだ桜花! 憶えててもいちいち内容を言うな! あと吹くなっ!」


 ツッコミに疲れる二人だったのだが、疲れてきただけに、いくつか頭が冷静になった。

 そう。

 桜花の言うとおり、この破れたページは自分が思いついた怪人の設定などを書き記したページだ。といっても、怪人というよりRPGにありがちなモンスターを特撮風にアレンジしてみた感じ……って、詳細まではどうでもいい。

 問題は、破れて何処かに飛んでいったページのことだ。

 よくよく考えれば、誰かに見られたとて、見た当人がそれを那雪作のものであるというのはわかりようがなく、那雪が羞恥を感じる必要はないのだが、そういう理屈を考えてみても、落ち着かないものは落ち着かないし。

 ――あの、紫の煙を見た時からずっと、例のざわざわ感が自分の中で渦巻いている。

 そして、先程、菜奈姫と会った時と同じように。

 こういうざわざわ感は気のせいと捨て置くと、あとでとんでもない目に遭う。


「……しゃーねー、行くか」

「ゆっきー、もしかして」

「ん、まだ外も明るいし、ちょっと捜すだけな」

「よし、我も行くぞっ!」


 と、菜奈姫が勢いよく挙手をするのに、那雪は少々驚いてしまった。

 てっきり、後のことを那雪達に丸投げにして、さっさと得意先に行ってしまうものかと思っていたのだが……。


「失礼なことを思っておるようじゃな。お主の顔からしてまるわかりじゃぞ」

「あ、いや、まあ。……やけに協力的だなって」

「うむ。こうなってしまった責は我にあるからの。いずれあの書物は暴走をしていたであろうが、暴走のきっかけを与えてしまったのは我じゃ。人の子から徳を得る神としては、その責を投げっぱなしというわけにはいかん」

「…………」


 すべてが菜奈姫の責任であるのかというと、那雪は違うと思った。


「いーや、私のせいでもある」

「チンクシャ?」

「私にも落ち度があるんだから、菜奈姫一人が全部背負い込むことねーよ」


 なにせ、菜奈姫の言う『陰の気』が込められた危険物を、今の今まで処分せずに持ち越していたのは那雪なのだ。

 今日、何度かこの手帳を処分をすると心に決めていたのだが、いざその時になって、この根強い願望を引きずって処分を躊躇ってしまう可能性もあったわけで。

 それらを考えると、この手帳を処分するという踏ん切りを付けさせてくれた菜奈姫に、有り難さを感じたりもした。


「で、ナナちゃん、実際の本音はどうなの?」

「うむ、その書物の願望全てが叶えたらどうなるものかというワクワク心と、それによって得られる徳がどこまで膨大になるかという期待じゃな」

「おまえいちいち台無しだなっ!」


 彼女から感じる有り難さを訂正したくなった。……まあ、菜奈姫の思惑はどうであれ、ここでウダウダしていてもしょうがない。


「桜花はどうする?」

「もちろん、わたしも行くよー」

「だよな」


 桜花がノートパソコンの電源を落としていそいそと出かける準備をしているのに、那雪は苦笑するしかない。

 過去に、桜花の知らぬところで命の危機に陥った経験があるだけに、彼女にはもう心配をかけないというのが那雪自身の誓いであるし。


 那雪の危機には、桜花が必ず共にあること。

 桜花の危機には、那雪が必ず共にあること。

 そして、何が何でもお互いのことを守ること。


 それが、二人の間で築いた約束だ。

 ここで桜花が同行を希望するのは……おそらく彼女も、自分と同じ嫌な予感を抱いているからなのかもしれない。

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