第三十六話 『運命』② 村寺芳夫

 首に加えられた力で顔が水中に浸かる。


 水面の向こうに揺らめく管理員の顔を見つめ、ようやく理解する。


 私が尊敬するこの男は、私を殺そうとしているのか。


 理由は解らない。それについて考えている時間もあまりなさそうだ。


 管理員の腕を掴み、力を込めてみる。


 だが全く引き離せそうな感じがしない。


 当たり前だ。この男は、私の理想の姿なのだ。今の非力な私の力で捻じ伏せられるはずがない。


 今度こそ、ここで死ぬのだろう。


 理想の姿である男によってハナの下へと送られる事を考えると、それほど悪い気もしない。


 もともと自分で命を絶つ為にここへ来たのだ。ここで殺されるのなら、結果的に当初の目的通りだろう。


 悔やまれるのは、この男に出会って見出した望みを叶えられずにこの世を去る事だ。


 だが、そう上手くは行かない。一度足りとも本気で生きようとしなかった者に、そう都合の良い事は起こらない。


 世の中には、幸せになれる人間とそうではない人間がいるのだから。


 管理員の腕を掴んでいた手を離し、遠ざかる意識の中で声が聞こえた。


「おいおい。終わっちまうぞ。いいのか? 死ぬ前に教えてやる。おまえの連れを轢き殺したのは俺だ。おまえの叶えたい事のひとつが目の前にいるんだぜ。根性見せてみろ」


 脳裏に浮かんだのは、ここへ来る途中に見た事故車だ。


 あれを見た時、ハナを轢き去った車に『似ているような気がする』とは思った。後部座席に死体があったが、そう言えば運転席には誰も乗っていなかった。


 そうか。


 そうだったのか。


 いつの間にか閉じていた目を開いた。


 水面の向こうに見えるハナのかたきに向かって腕を伸ばす。


「届いてねぇぞ!」


 この男の言う通り、水中から伸ばす私の腕は仇の首に届かない。


 もう一度、首にかかる腕を掴む。


 ドールのハナと過ごした日々を思い返す。


 ハナ。出来るかどうかは解らない。でも、最後にやれるだけやってみるよ。


 私は本当に、君を愛しているから。


 手に力を込める。


 それでも一向に引き離す事が出来ない。




 視界に異変が起きる。


 揺らめく仇の顔の後ろに、水色の影が現れた。


 すぐに解った。私自身が選んで買った物なのだから忘れようもない。


 水色のサマードレスを着たドールのハナが、仇の首を掴むのが見えた。


 私の首に加えられている力が弱まる。


 一気に上体を起こして一呼吸。そしてまた水中に押さえつけられる。


 腕を伸ばすと、仇の首に手が届いた。


 冷たいハナの手に自分の手を被せ、一緒に力を込めて、握る。


ハナの手の甲の冷たい感触が伝わる。


 これまでの人生の後悔を、悲しみを、怒りを、全て手の平に集中させた。


 それでも私の首を絞める手は離れない。


 私達二人の力を持ってしても、この男を退ける事は出来ないのか。


 仇が倒れるのが先か、私が殺されるのが先か。


 ハナの姿を見て息を吹き返した私の意識が再び遠退く。




 気付くと、仇と私の間に『それ』は現れていた。


 水面の向こうに映る人の形をした白いもやは、その白い手を伸ばして私の手の甲に重ねた。


 水に浸かる私の耳に声が届く。


「イッタダロ…… クビヲシメテコロスッテ」


 ここへ来る途中に仇に退治されたはずの化物が、また現れたらしい。


 私とハナと、そして化物から首を絞められるこの男は一体何者なのだろうか。


 必死で私を殺そうとしている形相は、とても公園の管理員には見えない。


 まるで今まで何人もの人間を殺してきたような、そう、言うなれば殺し屋の表情だ。


 この男は私に生きる目的を与えてくれた。そして同時に目的そのものとなった。


 ただ、ハナの為に、この男は殺さなければならない。 




 私の首にかかった手が離れると同時に、上体を起こした。


 まず、息を吸い込む。


 それから、私の胸に力無く倒れ込む仇を眺めた。


「殺した…… のか」


 皮肉だ。


 廃人同然だった私を、本気で生きる気にさせてくれた理想の男。この男は、奇しくも私の最愛の人の命を奪うことで、私に生きる目標を与えた。


 そして今、私はその目標を達成した。


 ハナと共に。


 そうだ。ハナは。


「ハナ!?」


 周囲を見渡すが、ハナも化物の姿もなかった。


 最後に私をもう一度助ける為に、現れてくれたのだろうか。


 石が飛んでくる直前、私の体を押したのもきっとハナだったのだろう。


 私の顔に纏わりつく池の水に、涙が混じっていく。


 立ち上がると、息絶えた仇の上半身が水面に倒れこんだ。


 この男に対する感情は、最早言葉では言い表す事が出来ない。


 最愛の人を殺した最も憎むべき相手であり、廃人だった私に生きる意味を与えてくれた感謝すべき相手でもある。


 この男のような力と意思があれば、私はもっとマシな人生を送る事が出来ただろう。


 そう考えながら男の死体を眺めていると、ふと私の首を絞めていた手に視線が引き付けられた。


 化物を退治した男の、強さの象徴でもあるかのような軍手に心が奪われる。


 この男のように、強くありたい。


 そう思う気持ちが私を動かした。


 この軍手をはめたところで、この男のようになれるはずはないだろう。


 だが、それを手にする事で少しでもこの男の意思を身に宿したいと思った。


 動かなくなった男の手から軍手を外し、自分の手にはめる。


 目を閉じて、イメージする。


 化物と格闘していた勇敢な男を、自分に重ねる。


 私は、変わる事が出来るだろうか。


 きっと出来る。


 私を見守っているハナも、きっとそう言ってくれている。

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