第二十五話 『狐面』④ 五田俊

 江美の両腕が私の肩にまわる。心の中を読まれたのかと動揺した私は、抱きつかれたまま何も答える事が出来なかった。


「わたしはキツネが好きよ。あなたがわたしのために離婚してくれたら、わたし、女狐になっちゃうのかな」


「何度も言ってるけど、沙苗と別れるつもりはない」


「すぐに気が変わるわ。ねえ、わたしを縛ってみて」


「もう終わりにしないか。君は暴走している」


 私がそう言うと、江美はしばらく黙った後、私の耳元で囁き始めた。


「ここの公園、昔はたくさんの人で賑わってて、お祭りなんかもあったのよ」


「話を逸らさないでくれないかな」


「小さい頃、お父さんに連れてきてもらった事があるの。楽しかった」


 強い風を受けた山の木々が、激しく揺れる音が聞こえる。


「それでね、出店に並んでいたお面が気に入って、買ってもらったの。プラスチックじゃなくて、ちゃんと土で出来ている綺麗な狐のお面」


「もう君とは会えない。連絡もしないでくれないか」


「この間、離婚したらすぐ家を出られるように、荷物を整理していたの。そしたらね、物置の奥から出てきたの。その狐のお面が」


「家を出る準備なんてする必要はない。俺は沙苗と別れない」


「奥さん以外の、あんな若い子と寝るなんて許せない!」


 囁いていた声が突然大きくなり、思わず顔を背ける。


「やっぱり、見ていたのか」


「どこで誰が見ているかわからないのよ」


「またそれか」


「あなたの事ならなんでもわかるの。言ったでしょ? 幽霊よりすごいって。昨日、あなたが奥さんと一緒に食べた豪華な料理も、スーツ姿の若い女の子と行ったおしゃれなレストランも、あなたがわたしとの関係を終わらせたがっているのも、全部、知ってるわ」


「そこまで知ってるなら話は早いな。もう消えてくれ。これ以上、俺を付けまわす為にうろついてると君も危険だぞ」


「大丈夫。あなたを見ているわたしはどこにもいないの。世界中のどこにも」


「意味がわからないな」


「あなたを見ているのは、あなた自身」


 私にしがみ付く江美の腕に力が入る。


「わたしを捨てたらどうなるか、もうわかってるはず。選択肢なんてないのよ」


 この女は狂っている。四六時中私をつけ回した挙句、今度は脅しにかかってきた。


「どっちがいい? わたしと幸せになるか、今まで手に入れてきたものを全て失うか」


 滾る感情を抑えていた我慢の線。それを一気に引き千切られた様な気がした。


 座席に置いてあった縄に手を伸ばし、掴んだ縄を江美の首に巻き付けるまでの時間は二秒を切っていたかもしれない。


 私の肩から手を離し、首に巻きつけられた縄を掴む江美の表情が苦痛に歪んでいく。


「君にずっと聞きたかった事がある。教えてくれ。誰かの愚痴を吐く事と不倫をする事以外に楽しみのない人生に意味はあるか? 生きていて、楽しいか?」


 情事の際、自分の首を絞めて欲しいと江美が懇願する事は何度もあった。しかし、今この縄に込めている力はその時の比ではない。


「考え直した方がいい。君は勘違いしているんだ。俺と君は対等じゃない。全てを手に入れてきた俺が、愚痴を吐きながらセックスするしか脳の無い女の相手をしてやっているんだ。ありがたく思わないのか? 俺を舐めるなよ」


 縄を掴んでいた江美の腕が力なく垂れ下がる。


「どうだ? 気が変わったか? 誰かに感謝した事なんてないだろう? ほら、言ってみろよ、俺に! 今までありがとうございましたと、言ってみろ!」


 江美を殺してしまうかもしれない、と案じた時には既に何もかも遅かった。


 縄から手を離すと、息の耐えた江美が私の胸に倒れこんだ。


 殺意はなかったか、自分に問いかけた。『あった』と即答する声が体の内側に木霊した。


 この女に二度と会う事のなくなった私は、全てを失う事になるだろう。


 胸に崩れこむ江美を眺めたまま長い時間、放心状態になっていた。


 やがてとてつもなく大きな焦燥感が津波の様に押し寄せてきた。


 こんな、こんな女のせいで全てを失ってたまるか。


 死体、凶器の縄、それからこの女の私物を全て山に埋めるのだ。だがどうやって埋める?


 穴を掘る道具など車には積んでいない。そう考えた時、ここが自殺の名所である事を思い出す。水死体が発見されたというニュース映像が頭に浮かんだ。縄を使って木に吊るすより、池に投げ込んだ方が良いのかどうか。


 とにかくここはまた人が来る可能性がある。もっと山の奥に移動しなければ。


 そう思って運転席へ移動しようとした時、江美のバッグが助手席から落ちた。その衝撃でバッグから飛び出たそれが、私の視線と動きを止めた。


 狐の面だ。


 細く鋭い目の中心に穴が開いている。大きく開かれた口は真っ赤に塗られていて、耳の部分と同じ色をしていた。それ以外は白く塗られているが、顔の半分が酷く黒ずんでいる。


 これが江美の言っていた物なのだろうか。


 震える手で狐面を掴む。ざらついた感触をしていて、少し重みがある。


 この不気味な面をバッグに忍ばせて私を付けまわす江美を想像した時だった。


 夢を見ているのだと思った。


 目の前に、昨夜の光景が激しく流れ込んでくる。自信作の料理を口に運ぶ沙苗。それを見て笑う私。場面は変わり、次に流れ込んできたのは寝室の窓から不安そうな表情を浮かべてこっちを眺めている沙苗だった。


 またすぐに激しく場面が変化する。会社の前で立っている麻紀。そして数時間前に訪れた橋の見えるレストラン。遊歩道の横のレストランの窓越しに、ワインを飲む麻紀と、笑いながら話している自分が見える。


 息の詰まる様な嫉妬心が沸き起こる。これは、この光景を眺めている江美の心情だろうか。


 体に強い衝撃が走り、私の手に掴まれた狐面が見えた。


 息を荒げながら周囲を伺う。間違いない、私の車の中だ。後部座席に倒れる江美の体が見える。


 一体、今のは何だったんだ。


『あなたの事ならなんでもわかるの』


 既に息絶えた江美がもう一度そう言った様な気がした。錯乱しているのか、私は。


『あなたを見ているわたしはどこにもいないの。世界中のどこにも。あなたを見ているのは、あなた自身』


 江美の声が聞こえる。


 私の意志ではない。何かの力が働いて、私の腕を動かしているかの様だった。


 まさか、そんなバカな事がありえるはずが。


 遊歩道から私を見つめていた自分自身が脳裏を過ぎる。


 あれは、私に化けた江美だったのか? 私は、狐に化かされていたのか。


 狐面を顔に重ね、再び強い衝撃が体中に走った。


 狐面を外した時、常識を逸脱した疑いが全て真実である事に驚愕した。


 ルームミラーに映っているのは五田俊ではなかった。


 江美だ。顔も、髪も、体も、服も。私の容姿は全て、砂井江美へと変貌を遂げていた。


 さっきより激しく震える手で再度、狐面を顔に重ねる。


 衝撃の後、私の姿は五田俊へと戻った。


 夢ではない。


 江美の言っていた事はハッタリではなかった。江美はこれを使って、私の心情を読み取りながら姿を変えてつけまわしていたのだ。


 手に掴んだ狐面と江美の死体を交互に見ながら考えた。


 これを使って、なんとかこの最悪の状況を打開する事は出来ないだろうか。


 こんなに動揺した状態では、とても良い策は思い浮かばない。冷静にならなければ。目を閉じて、呼吸を整える。


 瞼がぼんやりと赤く染まっていく様に見えた。


 異変を感じ、目を開ける。


「……どうなってる? 一体、何が起こってるんだ」


 暗闇に閉ざされていた山々が、夕焼け色に染まっていた。空も、木々も、駐車場のアスファルトも、窓の外の公衆トイレも、全てが橙色に変化していた。


 腕時計を確認する。午前2時20分。夜が明けるには早過ぎる。


 状況が把握出来ない。人を殺めた私に天罰が下ろうとしているのだろうか。


 ここは、地獄なのか?


 後部座席に倒れ込む江美の顔も夕焼け色に染まっている。


 少し笑っている様に見えるのは、気のせいではない。

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