第二十一話 『ラブドール』④ 村寺芳夫

 夜の街を歩く。


 『蜜柑色』と書かれた看板は、相変わらずオレンジ色の光を煌々と放っていた。


 待合室に入ると、ボーイが顔を出した。


「ムラさん! いらっしゃいませ。お待ちしてましたよ」


「悪いね、しばらく来れなくて。今日はハナちゃん忙しいかな? 指名したいんだけど」


 そう言うと、ボーイが酷く苦い顔をした。


「ムラさんすいません。ハナさんなんですけど、今日いないんですよぉ」


「いない? 今日は休み?」


「ええ、その、ちょっと…… 体調、そう、体調が悪いみたいで」


「風邪かい?」


「そうみたいですね。ほんとすいません」


「心配だな。大丈夫なの?」


「そうですねぇ、大丈夫……かな? いや、かなりツラそうだったんですが」


「そうか…… 早く良くなるといいね」


「そうですね」


 待合室から出ようとした時、ボーイが出口を塞いだ。


「ムラさん、帰っちゃうんですか?」


「え? あぁ」


「もったいないですよ。今、キャンペーン中でして、千円オフなんですよ」


「でも、ハナちゃんいないんだよね」


「新人の子入ったんですよ。可愛いですよ。いつもは指名だらけなんですがね、今ちょうど、ほんと、たまたま指名入ってなくて、すぐ呼べますよ」


「はぁ」


「キャンペーン中に来てくれたお客様は、次回来店時にも千円安くなるんで、どうですか。ハナさん戻ってきて、次来られた時、安くするんで」


 私がこういう押しに弱いのは、最早言うまでもない。今まで相手の提案に乗る事なく、自分の意思を押し切ったのは退職を決めた時くらいだ。


 結局、四十五分だけ、特に愛想が感じられない新人の子と時間を共にし、店を出た。


 帰り道、小さな公園のベンチに座り、自分は一体何をしているのだろうと悩んだ。


 婚約者が去り、自ら職を手放し、若い女性に稼いだ金をつぎ込み、捨てられていたドールを拾い、それに愛情を注ぐ事にも疲れ、また店に行き、別の女性に金を使う。


 どう考えても、私にもう未来はない。これ以上、生きていても仕方ないだろう。何も貯金がなくなるまで粘る必要もない。


 いよいよ、山へ向かう時が来たのだろうか。


 立ち上がり、腕時計を見る。深夜1時45分を回ろうとしていた。


 家に帰り、ドールを車に積み込んであの山へ行こう。最後に愛した女性とともに、死を迎えたい。


 アパートに戻り、駐車場に佇むセダンを確認する。もう随分動かしていないがちゃんとエンジンはかかるだろうかと心配しながら、自宅のドアを開ける。


 静まりかえった短い廊下をゆっくりと進み、リビングに辿り着く。


 顔を上げて部屋の光景を視界に入れた時、大きな違和感を覚えた。


 椅子に、ハナがいない。


 出掛ける前にテーブルに並べたはずの料理に目をやる。


 何も乗っていない、皿だけが置いてある。


 これは、どういう事だ?


「おかえりなさい」


 私の横にあるバスルームの方から声が発せられた。


 止まりそうな呼吸を調整する余裕もなく、ゆっくりと首を横にまわす。


 暗いバスルームの洗面台の横に立つ、ハナの姿が見えた。


「おつかれさま。お仕事はどうだった?」


 暗闇の中でそう声に出すハナの口が、僅かに動いている様に見えた。


 ついに止まった呼吸と同じく、私の思考は完全に停止していた。


「香水かしら。あなたから、とてもいい香りがするわ」


 最早、気のせいだとは思えない。洗面台の横に立っていたはずのハナは今、既にバスルームの中ではなく、私の目の前に立っていた。歩いた訳ではない。ただ、いつの間にかそこにいた。


「ねぇ、ほんとうは、ドコニイッテタノ?」


「やめて…… もうやめてくれぇ!」


 溢れ出した恐怖が叫びとなって口から飛び出し、ドアを開けてアパートの廊下を走り抜けた。


 こんなんじゃない。私が求めて続けてきた愛は、真の愛は、違う。こんなはずではなかった。どうしてこうなってしまったのだ。誠実に生きてきたはずなのに。手に入れたのは愛ではなく、悪夢を具現化する狂気だけ。こんな、こんなのはあんまりだ。


 夜の街を必死で走りながら思い浮かぶのは、これまでの己の人生。目まぐるしく現れては消えていく情景はさながら走馬灯の様だ。


 自分が今、何処を走っているのかも理解していなかった。




 視界の隅からヘッドライトの光が差し込んだ瞬間、自分の体がスローモーションの様に鈍くなる感覚がした。


 光の方向へ視線を移す。


 目の前に接近してくる車が見えた時、さっき頭に浮かんでいた情景は、本当に走馬灯だったのだと悟った。


 ここで車に轢かれて、死ぬのだ。


 私という人間の命が、ここで、終わる。


 全てを覚悟して目を閉じた時、背後から声がした。


「あぶない!」


 背中に強い衝撃を感じた。


 突き飛ばされる感覚。勢い良く車道に転がり込んだと同時に、鈍い音が辺りに鳴り響いた。


 上体を起こし、振り返る。


 猛スピードで遠ざかって行く車。


 歩道に倒れている人影。


「……ハナ?」


 立ち上がり、歩道へ歩いていく。


 そこには、ドールのハナが横たわっていた。


 体中の至る所から流れ出る血液が、水色のサマードレスを赤く染め上げていく。


「ハナ…… ああ、ハナ」


 空を見上げるハナを抱きしめて思った。私が今まで誰からも愛されなかったのは、私自身が誰も愛していなかったからなのだと。サヤカが去っていったのも、私が愛しているふりをしていただけだったからだ。


 私は、いつもそうだったのだ。


誰かに認められたい、真実の愛を手に入れたい、そんな事を言いながら実のところ、この世の全てを億劫だと感じるどうしようもない自分を正当化したいだけだったのだ。


 その証拠に、どうしようもない自分を唯一、愛してくれたハナから逃げ出した。


 そして、ハナはそんな私を庇ったせいで車に跳ねられて、血に塗れている。


「すまない……ハナ、しっかりしてくれ! 死なないで…… 頼むから」


 私の目から流れ出た涙が、ハナの顔を染める血と混ざる。


「ヨシオさん。ありがとう。わたし、うれしいの」


「そんな、どうして! こんなになってるのに、私のせいだ…… 許してくれ、死なないで!」


「そう、こんな血だらけになってる。人形なのに、血が出ているの。ヨシオさんが本当に、わたしを人間だと想って愛してくれた証拠なの」


「ハナ……」


「最後に人間に戻れて、ヨシオさんに愛してもらえて、本当に嬉しかった」


 そう言った後、ハナがもう一度話す事はなかった。


 ハナの体から伝わる人間の肌の温もりを噛み締めながら、体が張り裂けるほどの懺悔の念に身を任せた。


 ハナ。すぐに行くよ。私もすぐにそこへ行く。静かな山奥で、永遠に、一緒にいたいんだ。


 願わくば死ぬ前に、ハナを轢き去った者に鉄槌を下したい。だが、ナンバーは愚か車種すら解らないのではどうしようもない。


 それより早く、ハナの元へ行きたい。


 私は息絶えたハナの体を抱え、アパートの駐車場へ向かった。

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