第19話 狙われし者たちの夜

「テキア殿も自由なお方だ。部屋にいてくださいとあれだけ頼んでおいたのに」

 廊下を行くギャロッドは、何度目かのため息を吐いた。

 つい愚痴をこぼしてしまうのは、思うように行かないことばかりだからだろう。ケレナウスがいなくなってしまったので雑用は増えているし、副隊長のアースは勝手なことをするし。あらゆることがままならない。

 気が重くなったところで、ギャロッドは一度足を止めた。苛立ちを隠しきれないままテキアと顔を合わせるのはまずいだろう。そう判断できるくらいの余裕はある。依頼人との口論だけは裂けなければならない。

 この廊下の先、曲がり角の向こうにテキアはいるはずだった。テキアは普段から気を隠しているので姿を見失うと探すのに時間がかかるのだが、バンが同行するようになってからは楽になった。バンの気は見つかりやすい。

「しかし廊下で一体何をしているのだか」

 ギャロッドは首を捻った。バンの気は先ほどから一歩も動いていない。どこかの部屋の中かと思っていたが、この位置は廊下だ。まさかのんびり外を眺めているわけでもないだろうし。

 ちらと窓の外を見遣り、ギャロッドは瞳をすがめた。重たげな曇天からは今にも雨が降り出しそうだった。今夜は雨になるだろうか? もうじき日も暮れる。つまり、魔物の時間がやってくる。

 額当てに指先で触れ、ギャロッドは歯がみした。次は一体誰が犠牲になるのか。そう考えるとどうしたって気分は落ちる。

 すると、廊下の向こう側からかすかな話し声がした。テキアとバンだろうか? 気を引き締めたギャロッドは、再び一歩を踏み出す。ギャロッドは気を隠していないから、二人も誰かが近づいてきたことくらいはわかっているだろう。

「バン殿までそう仰るのですね。もし彼女がゼジッテリカを狙っているなら、機会などいくらでもあるでしょう」

 ついで聞こえてきたのは、苦笑と共に吐き出されたテキアの言葉だった。ギャロッドの鼓動は跳ねる。彼女というのはあの直接護衛のシィラのことか? いまだにつかみ所のない技使いだ。

「しかし、より最適な機会を狙っているとしたら?」

「というと?」

「より衝撃的で印象的な機会を狙っているなら、と考えれば? それこそ皆の前で八つ裂きとか、ですかね」

「バン殿は空想家ですね」

 続くバンとテキアの会話にギャロッドの肝は冷えた。この二人はこんな廊下で一体何の話をしているのか。人通りが全くないのはせめてもの救いだろう。

「機会は待つものではなく作るものですよ。より衝撃を与えたいのなら、ゼジッテリカの首を皆の前にさらすだけでもいいでしょう。それでも十分効果があります」

「なるほど、それもそうですな。しかし、テキア殿も恐ろしいことを平気で仰る。ゼジッテリカ様の前とは別人のようですな」

 ギャロッドが歩調を落としたところで、さらに恐ろしい話が飛び出してきた。つい耳を疑ってしまう。

 時々、テキアという人間がわからなくなる。物腰柔らかで理知的な当主代理だが、何があっても物怖じしないところもあった。そして時折、このような恐ろしい顔をのぞかせる。

「姪の前で怖い顔をしても仕方がないでしょう。それに、あくまでたとえです」

「ええ、わかっています。テキア殿」

 このやりとりの最中に踏み込むべきか否か、ギャロッドは逡巡した。正直なところを言えば聞かなかったことにして戻りたいが、それはできない。

 大体、誰かが来ていることはあちらもわかっているはずなのだ。つまり二人はこの会話が筒抜けになってもよいと思っているらしい。

「信じがたい」

 口の中で呟いたギャロッドは、意を決して曲がり角の向こう側へと双眸を向けた。そこには案の定、テキアとバンがたたずんでいた。黒いスーツに身を包んだテキアと、緑と黄色の奇怪な衣装を纏ったバンの様子は対照的だ。

「テキア殿」

 躊躇いがちにギャロッドは声をかけた。テキアがおもむろに振り返ると同時に、バンは妖艶な視線をこちらへ向けてくる。この眼差しだけはどうしても慣れなかった。

「ギャロッド殿、どうかされましたか?」

「ちょっと確認したいことがありまして。ところで、こちらで何をされてるんですか?」

 足を止めたギャロッドは眉根を寄せた。テキアたちがいる廊下の奥には、大きな扉が一つあるだけだ。何故こんなところで立ち話などしているのか。

「今ちょうどゼジッテリカ様とシィラ殿が入浴中なので、見張りをしているのですよ」

 意気揚々と答えたのはバンだった。思わぬ返答に目を丸くすれば、バンはいかにも楽しげに笑い声を漏らす。混乱した頭でどうにか思考を働かせてみたが、どう反応すべきかわからなかった。この屋敷にきてから、護衛の定義が覆されてばかりだ。

「しかし、何故シィラ殿が一緒に……」

「マラーヤ殿が屋敷外に行ってしまったので、交代要員がいなくてですね。とりあえず今日はということで」

 呆然と呟けば、苦笑したテキアがそう付言した。はっとしたギャロッドは背筋を正す。そういった問題については全く考えていなかった。

「そうでしたか。それは本来はこちらが何とかすべき問題でしたね。申し訳ありません」

「いえ、ギャロッド殿には伝えていなかったのですから当然です」

 テキアは頭を振った。護衛に無茶な要求を突き付けてこない依頼人だ。こういった点は本当に優しい。そうなだけに、先ほどのような発言が際立った。

「ただ、明日以降については検討してもらわないといけませんね」

 そう続けたテキアは、不意に天井辺りを見上げた。今まで見たことのない挙動だった。ギャロッドが首を傾げると、側にいたバンも怪訝そうに眉根を寄せる。バンが何かを囁いたわけではないらしい。

「どうかいたしましたか? テキア殿」

「ああ、いえ。何か……聞こえたような気がしまして」

「おやおや、空耳でしょうか。お疲れなのでは? このところよく休まれていないでしょう」

 苦笑するテキアに向かって、バンは大袈裟に顔をしかめながら相槌を打つ。口元へと持って行った袖の先が、ゆらりと揺れた。

 テキアは狙われ続けているようなものだから、当然ゆっくり眠れるわけもない。加えてこのバンが四六時中一緒なのだから、気も休まらないだろう。ギャロッドは密かに同情する。

「仕方がありません。この屋敷のことは何でも私が決めたことにしないと、使用人も周囲も納得しませんし」

 つとテキアは肩をすくめた。護衛とはいえ、大勢の見知らぬ人間が出入りしている状況を快く思わない者がいるのは理解できる。技使いの実態を知らない人間からは、野蛮人だと思われることも多かった。

 ギャロッドはそっと瞳をすがめる。テキアの敵は、思うより多いのかもしれない。当主代理としての責務はいかほどだろう。なるほど、恐ろしいことを淡々と告げられるようになるわけだ。

「護衛の配置も見直しています。どうか今夜くらいはゆっくり休んでください」

 今のギャロッドには、そう告げるくらいしかできなかった。魔物との見えない攻防はいつまで続くのか、考えるだに恐ろしかった。




 日が暮れてしばらくすると、次第に冷たい雨が降り出した。それは時折強くなるものの肌を叩く程ではなく、煙るように一帯を包み込んでいる。

 塀の傍に立つ男は、目深にフードを被って身を震わせた。塀と屋敷の間をすり抜ける風が、思い出したように鳴き声を上げている。それはまるで生き物の慟哭のように聞こえ、男を落ち着かなくさせた。

 夜の警備の人員が増えたため、男は一人の青年と共にこの持ち場を任されるようになった。このところ体力の衰えを自覚している男にとっては、厳しい配置だ。

 その上、先ほど青年――サミオンは腹が痛いと言って制止も聞かずに走り出してしまった。このまま逃げるつもりではないかと、男は危惧していた。さすがの男も、この場に一人取り残されるのは恐ろしいのだが。

「こういう時、どちらが狙われるんだろうな」

 静寂に耐えかねて男は呟いた。剣の柄へとやった手がかすかに震える。

 魔物が動くのなら、おそらくこんな時だ。襲う側の心理を想像すればそうなる。魔物にどの程度の知性があるのかは知らないが、やり方を変えてくるくらいだからそれくらいは考えられるだろう。

 吐き出した息は、弱い雨に混じって溶けていった。もうそろそろ日付が変わる頃だろうか? 厚い雲のせいで月明かりさえないため、辺りには濃い闇が横たわっている。

 突然寒気を感じて、男は身震いした。身動きを考慮した防具は寒さをしのぐ目的のものではないから、このままではどんどん体が冷え切ってしまいそうだ。

「年はとりたくないものだな」

 そうぼやいた時だった。彼の耳はかすかに、何者かの靴音を拾った。濡れた石を踏みつける音が、右手から聞こえてくる。

 敵か? 味方か?

 男は精神を集中させた。気配はするのだが、気は小さく抑えられている。今日組まされたばかりの青年――サミオンの気に似ているように思えたが、完全に覚えるほど一緒にいたわけでもなかったので断言はできない。

 だが魔物だとすれば、こうも気配露わに近づいてくるだろうか? そんなことはあり得ない。ならばきっとサミオンだ。

 男は自らにそう言い聞かせた。それでも鼓動が速まるのを止められなかった。頬へと張り付いた髪が、何故だか急に煩わしく感じられる。

「ペグダさん!」

 しばらくもしないうちに、男の名を呼ぶ声が聞こえてきた。やはり魔物ではなくサミオンだ。そう安堵した彼は、剣の柄から手を離した。謎の護衛殺しは毎日起きているわけでもない。過敏になっていたのだろう。

 突としてまた風が吹いた。あおられたフードがばさばさと音を立てながら、男の視界をふさぐ。慌てて男は手を伸ばした。

 フードを持ち上げた次の瞬間、目に飛び込んできたのは異様な光景だった。塀の脇に続く砂利道を走る青年、その背後に見えたのは白くて巨大な生き物だった。

 空に浮かんでいるせいか足音はしないが、伝承で見る熊と巨大な蛇を足したような奇怪な姿をしていた。暗闇の中でぼうっと浮き上がる白い体躯と、ぎらついた青い瞳が男の目に焼き付く。

「ペグダさん! 実はさっきそこで奇妙なものを――」

「サミオン!」

 男は息を絞り出した。声は震えたが、今はそんなことなどかまっていられなかった。腰から剣を引き抜こうとするが、焦りのためかうまくいかない。

「後ろだ!」

 こんな時に役に立たない腕を、男は忌々しげに一瞥した。砂利を蹴る靴音が、忽然と止まる。

「……え?」

 サミオンが立ち止まるのと同時に、ペグダは走り出した。剣が握れないなら技を使うしかない。サミオンが殺されれば男と魔物は一対一となる。そうなってしまえば終わりだった。

 白い生き物の手が、振り返ろうとするサミオンに向かって振り上げられる。その手のひらにぼんやりと赤い光が収束する様が見えた。

「避けろ!」

 叫んだ男は、結界を生み出そうと精神を集中させた。しかし間に合いそうになかった。白い生き物の生み出した赤い光球が、サミオンへと放たれる。肩越しに振り返ったサミオンがどんな表情をしたのか、男には見えなかった。

「うわぁ」

 小さな悲鳴がサミオンの口から漏れた。全てがひどくゆっくりと、男の目に映った。

 暗闇を裂くように赤い光が進む。が、それがサミオンの体を包み込むことはなかった。忽然と、光球はサミオンの前で霧散した。

 呆然とする暇もなかった。サミオンはその場で虚脱したように尻餅をつく。つまり、今のはサミオンの技ではない。別の護衛か?

「早く立ち上がってさがれ!」

 男は怒声を上げた。近くに誰かいるのなら気を探りたいところだったが、今の男にその余裕はなかった。とにかく目の前の魔物を遠ざけなければならない。

 男は必死にサミオンの傍へと駆け寄った。そして今度こそ勢いよく剣を引き抜くと、それを前方で構える。

 白い獣は、まるで狼狽えているようだった。一体誰の仕業なのかと訝しむよう、顔らしきものを盛んに左右へ動かしている。

 何が起こっているのかわからないが好機だ。しかし同じ奇跡がもう一度起こることを期待してはいけない。男はぐっと奥歯を噛んだ。

 今の彼らにできるのは時間稼ぎだ。護衛の配置は増えているから、戦闘が長引けば必ず誰かが気づいてくれるはずだった。自分たちだけでこの魔物が倒せるとは思えないが、派手に技を使うだけでも意味がある。

「やってやる」

 そう男が決意した時だった。奇跡は、もう一度起きた。いや、それを奇跡と呼んでよいのか、男にはわからなくなった。

 目の前で何が起こったのか、一瞬理解できなかった。突然白い獣の体が、真っ二つに裂けた。血しぶきを上げながら絶叫した白い獣は、ぼとりと地面に落ちる。そしてその場でのたうち回り始めた。

「……え?」

 サミオンの気の抜けた声が鼓膜を揺らす。そんな青年を𠮟咤激励する余裕もない。体を切り裂かれてうめく白い獣を呆然と見つめるしかできなかった。白い体躯から流れ出した鮮血が、辺りをさらに暗く染めていく。

 それでも獣が苦しんでいたのはさほど長い間ではなかった。そのうちうめき声が途絶えて、空へと伸ばされた白い手が地面へと落ちる。と同時に、光の粒子となって消えてしまった。

 瞬く間の出来事だった。呆気にとられている男たちの前で、まるでその存在などはじめからなかったかのように消え失せる。幻でも見ていたのかと思うほどだ。砂利道に残された血だまりと鼻につく臭いだけが、白い獣が現実にいたことを訴えている。

「ペ、ペグダさん。これって……」

「ああ、魔物の仕業、ではないな」

 男は固唾を呑んだ。そしてゆっくりと辺りへ視線を巡らせる。周囲の気を探ってみたが、護衛の誰かが傍に潜んでいるような気配はなかった。遠くから近づいてくる気が、感じられる程度だった。

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