第13話 Livin' on a Prayer

 コンビニ船の在庫にあった風邪薬とか解熱剤とか冷却シートを思いつくかぎりお姉ちゃんに施してみたけど、熱はまったく下がんなかった。菌を殺すための抗生物質を投与すると、お姉ちゃんの身体のなかで何かが暴れてるみたいな激しい嘔吐があって、熱はついに四〇度を越えた。いよいよ手の施しようがなく、わたしは治療を諦めてただお姉ちゃんの手を握り続けることにした。お姉ちゃんは悪い夢でも見てたのか、何度か「たすけて」とうわごとを呟いた。苦しみのなか、お姉ちゃんが呼んだのはハイドラでも、幸太郎さんでも、大地くんでも、わたしでもなく、ママだった。「ママ、たすけて」と何度も繰り返した。江泊にいる他の人々も、次から次へとこの熱病にかかっていった。男たちは治療を求めて本州や四国の病院へ向かった。女たちは、誰も江泊から離れようとしなかった。その代わり、症状の末期にはみんな海へと飛び込んだ。まるで、海に還るみたいに。水竜に呼ばれてるみたいに。お姉ちゃんももしハイドラに助けを求めてたとしたら、海に飛び込んだんだろう。でも、お姉ちゃんはママに助けを求めた。お姉ちゃんは、ママの話をまるでしなかった。うらんだりも、あいたがったりも、なにもしなかった。そもそも、お姉ちゃんはママのことを何も知らないんだ。きっと、幸太郎さんが話しただろう身勝手な偶像しか知らないんだ。わたしは、お姉ちゃんにママの話をすることにした。お姉ちゃんがママに憧れてるうちは、生き続けてくれる気がしたから。

「ママはねえ、格好いい男が好きなんだ。そのわりに、本当は幸太郎さんのこと結構好きだったと思うんだよね。いや、結構というか、ガチで。それを思うと趣味わるいなと感じちゃうんだけど」

「ママはね、ぜんぜん怒んないんだ。もう張り合いがないくらい。悪戯しても、ぜーんぜん。でもたぶん、怒り方を知らないだけだと思うんだよね。後になって実は心のなかではめっちゃ怒ってたことを知ると、やべーなと思うんだけど」

「ママは英語とフランス語を勉強してるんだ。なんつうか、分かりやすいよねえ。若い女特有の、外国への憧れ? みたいな。つーかもう若くないし、選ぶ言葉が英語とフランス語ってとこがベタすぎて格好悪いなと感じるんだけど。そう、ママはけっこう、カッコ悪いんだ」

「ママはね、美人なんだ。まあわたしと創子のママなんだからさ、そりゃそうなんだけど。でもね、わたしって可愛い系で、創子って綺麗系じゃん? ママはね、それを足して二で割ったみたいな感じで、いいなあと思うんだけど」

「それでね、それでね、ママはね」

 わたしは思いつくかぎり、ママの話を繰り返した。ひとつもつくりごとはしなかった。嘘をついたら、お姉ちゃんは死んじゃう気がした。わたしはひたすらママのことを考え、想い、できるかぎりほんとうのことを話し続けた。そうしてみると、わたしの知らなかったママがたくさん見つかった。わたしがママのことを好きだということも、ママがわたしのことを好きだということも。

「創子、だいすきだよ」

 わたしはお姉ちゃんの頭をなでながら、そう囁いた。まるでママがお姉ちゃんにそう言ったみたいで、それは嘘になるだろうか。わたしにはわかんない。わたしは、ママじゃないから。ただわかんないことも、わかんないまま、伝えてみる。人を好きになる気持ちなんて、きっとそんなもんだ。きっと誰もが、相手を本当に好きかどうかなんて、分かりやしないんだから。

 家の扉をノックする音が二度した。きっと、大地くんだ。

「はーい」

 そう返事をして、お姉ちゃんの頭をなでた。お姉ちゃんは、少しおだやかな表情に変わったきがする。薬よりも、ママの話がお姉ちゃんの身体をいやしたのだとしたら嬉しい。わたしはお姉ちゃんの頬にキスをして、立ち上がり玄関に向かった。

 玄関の扉を開けると、大地くんが思いつめたような表情で立ってた。右手に握ったやけに大きな刃をわたしに見せた。その刃を、わたしは見たことがある。わたしが初めて江泊に来たとき、大地くんの船に乗ったとき、大地くんはちんこの代わりにその刃でわたしを刺そうとした。巨大な動物でも、一撃で殺すことができるくらいの猛毒があると聞いてる。それは、つまり。

「水竜を、殺しにいくの?」

 わたしが尋ねると、大地くんは大きく頷いた。

 氷や嵐に続き、この病を起こしているのは水竜であろうということは、江泊を管理する人々のあいだで早くから囁かれてた。一刻も早くその水竜を殺す必要があることは明らかだった。でも、江泊に住む人間は次々と病に倒れてしまい、いま、病にかかっていないのは、わたしと大地くんのふたりだけだった。そこに意味があることを、わたしたちは感じてた。

「水竜が、俺たちを呼んでんだ」

 大地くんはそう言って、毒刃のうち三本をわたしに分けてくれた。先端にこまかいギザギザがたくさんついてて、後ろにはプロペラみたいな羽根がついてる。

「俺が作った水竜を殺すための毒刃だ。水竜を見つけたら思い切り投げろ。女の力でも、簡単に遠くまでまっすぐ飛ぶ。かすり傷だけでもつけたら、水竜を殺せるようにできてる」

 わたしは手に握った毒刃をじっと見つめた。俺が作った、と大地くんは言った。女の力でも、と大地くんは言った。水竜と戦うのは、水竜を殺すのは、男だけのはずだ。そうではない、水竜と戦い殺す女の存在を、大地くんは予期してたんだろうか。それがお姉ちゃんであるわけがない。じゃあ、わたし? 大地くんは、きっと幸太郎さんからわたしの話を聞いてたはずだ。もしかして大地くんは、わたしのことを待ってたんだろうか。水竜を殺す存在として。

 大地くんに預かった毒刃はなんだか重く、わたしは水竜を殺したくない、なんて言えそうにもなかった。でも、水竜を殺せる気もしなかった。江泊に住む女性たちは誰かや何かを殺すことがない。ただ、海に流すだけだ。殺すということは、それだけの覚悟と動機を要する。わたしは水竜に対し、なんらの覚悟も動機も持ってなかった。

「安心しろ。基本的には俺が水竜を殺す。でも、もしも俺が水竜を殺せなかったら」

 大地くんは、わたしの頭を撫でながら言った。

「その毒刃で、俺を殺してくれ」

 それなら、わたしには出来るかもしれない。


 大地くんの操縦する水上カブの後ろに乗って、わたしたちは江泊を離れた。海はなんだか、とても静かだった。カブのエンジン音だけがパカパカと響いた。波も少なく、鏡張りの海面に群青色をした夜空が映った。江泊でいま起きている騒ぎがなんだか嘘みたいで、海はやさしくて、でもそんなやさしさのなかに含まれる殺意こそがいちばん怖かった。

「ここでいいだろ」

 大地くんは水上カブをとめた。エンジンを切ると、周りには波音すらも聞こえない。エンジン音の残響がゆっくりと減衰し消えていくと、あたりには耳が痛いくらいの静寂が広がった。

「そろそろ返して」

 大地くんはそう言い、わたしが首から下げた笛を奪い取った。大地くんに貸してもらったそれは、何かあったとき大地くんを呼ぶために吹くよう言われてたものだった。

 そうではなかったのか?

「なんなの、その笛」

 わたしが尋ねると、大地くんは、

「水竜にしか聞こえない音が出る、水竜を呼ぶための笛」

 と答え、思い切り息を吸って笛を吹いた。

 やっぱり、なんの音も聞こえなかった。大地くんが笛を吹くのをやめてしばらく経つと、静寂のなかにかすかな波音が混じりはじめた。それは次第に大きくなり、さざ波がこちらに近づいてくるのが分かった。

「来るぞ!」

 大地くんがそう叫ぶと同時に、海中から白い大きな塊が飛び出してきた。大地くんが慌ててしゃがみ、一撃目をかわす。その白い塊は大地くんだけを狙ったようで、わたしは全く傷を負わないかわり、目の前を通り過ぎるその姿をはっきりと目視することができた。他の水竜よりひとまわり小さいその身体、ずっと白く美しい肌、ぴんと長い睫毛、やさしい瞳。わたしがずっとすぐ傍で見てきて、抱きしめ、じゃれあったこともある姿を見間違えるはずもなかった。

「ハイドラ!」

 わたしがそう叫ぶと、ハイドラはいつもと同じようなかわいらしい鳴き声をあげながら、遠くへ去っていった。

 大地くんが水上カブのエンジンをかけ、クラッチを蹴り上げて急加速し、ハイドラを追う。

「ちょ……ま……」

 わたしは大地くんを止めようとするが、風が激しくて言葉にならず、大地くんにしがみついてるのが精いっぱいだ。

「しゃべんな! 舌噛むぞ!」

 ハイドラからの二撃目があった。先ほどよりも激しい勢いで、同じように大地くんだけを狙った攻撃を、大地くんは水上カブをターンさせてかわした。水上カブは慣性力に任せて回転する。その先には、ハイドラがこちらを狙って泳いでるのか白い波がぐるぐるまわってるのが見える。

「けけけっ、けけけっ」

 ハイドラの鳴き声が何度かあった。

「水竜の歌ううたは、電子機器の調子をおかしくさせる。だから、最新の船だと水竜とは戦えないんだ。俺はハイドラを殺すため、水上カブを調整して、このチャンスをずっと待ってた」

 ハイドラからの三撃目。大地くんは、水上カブを急加速させてかわした。まっすぐに走る水上カブの後ろを、ハイドラが追いかけてくるのが分かる。

「やっぱり直線の速度だと水竜には勝てねーな」

 大地くんはクラッチを蹴って水上カブを急停止させた。勢いのまま止まれないハイドラは、遠く離れていく。大きく弧を描いて、ふたたびこちらに近づいてくるのが分かる。

「大地くん、ハイドラを殺さないで!」

 水上カブが止まり、ようやく喋れるようになったタイミングで、わたしは大地くんの耳元で叫んだ。

「いやだ」

 大地くんは、ハイドラを睨んだまま言う。右手には、毒刃を携えてる。

「ハイドラは、病で創子を殺そうとしてる。創子を海に還そうとしてる。だから、俺は創子を守るため、ハイドラを殺さないといけねーんだ」

 四撃目に合わせて、大地くんが毒刃を放つのだと分かった。ハイドラが、高速でまっすぐこちらに近づいてくる。大地くんは、右手に握った毒刃を構える。

「ちがう、愛情表現だ!」

 四撃目。わたしは大地くんを押し倒した。毒刃を投げようとしてた大地くんはバランスを失い、そのまま海へ落ちた。わたしたちの真上をハイドラが飛び越えていった。大地くんの持ってた毒刃は、すべて海へ沈んでしまった。

「なにすんだよ!」

 大声で叫ぶ大地くんの口を、わたしは唇でふさいだ。それから、怯えと戸惑いが同居する大地くんの目を真っ直ぐに見つめ、

「わたしは君が好きだ」

 と言った。

「わたしが好きな創子を好きな君が好きだ。同じように、ハイドラも好きだ。君とハイドラはきょうだいみたいなものだ。だから、君たちが殺し合っては駄目だと思う」

 わたしは水上カブにまたがり、見様見真似でクラッチを蹴り、スロットルを開いた。水上カブは小気味いいエンジン音をあげながら急加速した。

「わたしがハイドラを殺す」

 ハイドラは、わたしを狙わない。わたしは女だから。わたしの半分には創子がいるから。じゃあどうして、ハイドラはわたしと大地くんを熱病にしなかったのだろう。それはきっと、大地くんのことを嫌いだから。それはきっと、わたしのことを。

 ハイドラは大地くんを殺すため、まっすぐ大地くんに向かって泳いだ。わたしが操縦する水上カブとすれ違う瞬間。

「ごめんね」

 わたしは毒刃をハイドラに刺した。ぶすり、という肉の手応えで手が痺れたとき、わたしは。

 もし生まれ変わるなら、水竜に生まれたいと思った。


「ハイドラは、創子の子どもなんだ」

 わたしとお姉ちゃんがハイドラと遊んだいつもの浜辺に、ハイドラの死体が流れ着いてた。その前に立ち、大地くんはぽつりと言った。

「こいつは俺だ」

 わたしは、大地くんのその言葉に頷いた。

「ハイドラのこと、覚えていてもいい?」

 それは、わたしに尋ねたのか、ハイドラに尋ねたのか、それともなにか、運命のようなものに尋ねたのか。

 大地くんは、ハイドラを食べた。肉を食らい、吐いても、なお食べ続けた。愛のともぐいみたいだと思った。

 ハイドラと大地くんと、水竜と人間と、どっちが化け物なんだろう。きっと、どっちもおんなじだ。それはつまり。

 ハイドラがそうしたように、いつか大地くんは、お姉ちゃんを殺す気がした。

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