第2条第5項 出向その1

 そして、再び土曜日。

「これって……」

 ツトムが合渡の運転で連れてこられた建物の中は、床に柔らかいマットが敷き詰められ、壁には色とりどりの岩のような出っ張りが並んでいる。

「ボルダリング。初めてかい?」

 ツトムのすぐ隣で、トレーニングウェアに身を包んだ長身の女性……石動ケイコがほほ笑んだ。

 ルアの自信に満ちた笑顔や、キッカのきらめくような表情とはまた違う、凛々しくも柔らかな印象だ。


「そ、そうですね。こういうのは、機会がなくて」

 ツトムも彼女と同様、トレーニングウェアと着込んでいる。ちなみに、ケイと同じデザインだが、彼女よりも一回りワンサイズ小さい。なぜか、色はピンクである。ケイはブルーだ。

(……これ、くれるって言ってたけど……)

 トレーニングウェアとしては、かなり質のいいものらしい。丈夫で、体を動かしやすい。

 腿と左胸に、大きくロゴが入っている。ツトムも知っている、国内大手スポーツブランドだ。


(本当に、スポンサーなんだ)

 目の前にいる女性(ただし、ツトムやシュウトよりもよほどハンサムに見える)は、そのスポーツブランドと専属契約を交わしているらしい。

 ケイは、エクストリームスポーツの競技者として知られている。パルクールやBMXバイシクルモトクロスによるストリート演技をウェイクウィンクで発信したところ、その動画が爆発的にシェアされ、ついにスポーツブランドの目に留まったのだ。

 だから、彼女と一緒に配信を行うなら、ツトムもそのスポーツブランドのウェアを着てくれ、というわけだ。

 ……と、その情報は、前日にルアから聞かされたものだけど。


「ルアからは、好きに使ってもらって構わないといわれてるけど、あいにく、ボクは個人競技者だからトレーニングに付き合ってもらうだけだ」

「は、はい」

「ボルダリングは普段使わない筋肉を動かすから、いい汗がかけるんだ」

 緊張しているツトムの様子がおかしいのか、その口元に小さく笑みが浮かんでいた。

「……まあ、たまにはトレーナー以外と一緒にトレーニングするのも悪くない」

 男女問わず魅了するような、さわやかさをふりまく笑顔は、この人をずっと見ていたいと思わせる。


「柔軟体操から始めよう。けがをしないように」

 ケイのハスキーボイスも、実に配信向きだ。今思い返せば、ルアが最初に会った日、ツトムの声を気にしていたのは配信コンテンツに使いやすいかどうかを吟味していたに違いない。

「……で、いいかな?」

 そういって、ケイが目を向けたのは、スーツ姿のままタブレットを構えた合渡に向けてだ。つまり、そのタブレットからリアルタイムで配信が行われているのである。

「もちろんです。お二人の自然なままにしていただければ」

 低く落ち着いた声で、老人は答えた。


「それじゃあ、ボクと同じように」

「は、はい」

 二人は並んでストレッチを始めた。開脚して胸が床につくほど柔軟なケイに比べれば、体育の授業ぐらいでしか体を動かさないツトムの体は硬い。

「あいたた……っ、す、すごいですね。いつもストレッチしてるから、ですか?」

「柔らかいほどいいってわけでもないんだけどね。君は、もう少し体をほぐしたほうがいいな」

「あはは……」


 今一つ集中できないのは、隣で体をほぐすケイの体を見ると、以前目撃した下着姿を思い出してしまうからだ。

 もう五日も前のことだというのに、今でも鮮明に思い出してしまう。思春期の男子に、女子の下着姿をさっさと忘れろというほうが無理というものである。

「……聞いてるかい?」

「あっ!? い、いえ、はい、えっと!?」

「……みんなが見てるから、あまり気を抜かないほうがいい」

 合渡が構えたタブレットをちらりと見て、ケイは軽く肩をすくめた。


「まずは、簡単なところから始めよう。一番上の赤いホールド出っ張りにタッチするところまで登るんだ」

「簡単って……」

 ケイはあっさり言っているが、赤いホールドはツトムの身長の倍近い高さにある。

「はしごを登るのと同じさ。足をかけて、体重を支えながら上のホールドに手をかける。やってごらん」

「わ……わかりました」

 背後に合渡と、カメラの気配を感じながら、まずは膝ほどの高さのホールドに足をかける。


「最初のうちは、両手足のうち3つで体を支えて、1つを動かすように」

「動かすのは、一本だけ……」

 握りやすそうな大きさのホールドを両手でつかむ。床に残ったままの左足を離してホールドにかければ、すでに壁に張り付いているような格好だ。

「う、っく……」

 両手の指に力がこもり、筋肉が突っ張る。普段使わない筋肉、とケイは言ったけど、それどころか、今まで意識したこともないような力のかかり方だ。


「こ、これ以上、動けません……」

 どこか一か所でも動かせば、すぐに落ちてしまいそうだ。ぷるぷると、全身が小刻みに震える。

「力の使い方が身についていないだけだよ。落ち着いて。ほら、支えてあげるから」

「……えっ?」

 両肩に、ケイの手が添えられる。ツトムはたった20センチほど壁を登っただけだから、耳元にケイの息遣いを感じられるほど近い。


「肘を曲げているから、余計な力がかかるんだ。肘を伸ばして、周りをよく見るんだ。そうすれば、次にどう動けばいいか、想像できるはずだ」

「い、いや、でも。今肘を伸ばすのは……」

「心配しないで。やってごらん」

 落ち着いた声色は、確かにこの人の言うことに従うべきだという安心感を与えてくれる。

(もうどうにでもなれ……!)

 二人が体を寄せている姿が配信されて、かなりの視聴数を稼いでいることなど、ツトムの頭からは抜け落ちている。体重を後ろにかけ、胸を張り、肘を伸ばし……


 ふにゅん。

 柔らかい感触が、ツトムの背中に触れる。

「う、うわっ……!?」

「ボクが支えているから、足を上げて」

 驚きの声を、落ちそうになった悲鳴と受け取ったのだろう。ケイの声はしっかりと落ち着いたものだ。

(そ、そうだ。ケイさんにとっては、スポーツは大事なものだから……!)

 必死に呼吸を落ち着けて、意識を自分の体に向ける。

 その結果、ますます神経が研ぎ澄まされ、背中に当たる、スポーツウェア越しの柔らかさをはっきり感じることになってしまうのだが。


(だ、大事なものだから、こんなこと気にしてちゃだめだ!)

 ……もしかしたら、ツトムのことを男としてみていないだけなのかもしれないが、それをまともに検討すると悲しいので、頭から追い出しておく。

 しっかりとした体幹に支えられていると、自分の体重がどう分散しているかが少しずつ分かってきた。

 両足に3分の1ずつ、両腕に残り。自分の決して大きくない体重くらいなら、片足のぶんを残りにかければ、何とかなりそうだ。

 息をゆっくり吐きだしながら、左足を上げる。目を下に向けて、ホールドの位置を確かめながら、そこに足を移した。


「そう、その調子。次は、右足を」

 腹筋と背筋……と胸……でツトムの背中を支えながら、ケイが囁く。

 左足は上げた分曲がっているから、今度は伸ばした腕に体重をかけて、左足と同じ高さまで右足を上げ、ホールドにかける。

「足で体を支えて、次は腕を」

 ぐ、っと、背中に力を入れて体を起こす。ケイに支えられなくても、自分の体が固定されているのがわかった。

 右手。左手。今度はずっと楽だった。


(はしごを登るように……)

 手足を一つずつ、ホールドから離し、別の場所にかける。そうして、また別の手足を動かす。

 アリが登るように、ゆっくりとだが確実に、壁面を進んでいく。

「そう、そうだ。呑み込みが早いね」

 ケイの声は、喜びと興奮を含んだものになっている。

(あと少し……!)

 全身の筋肉に負担がかかり、心臓が激しく脈打つのを感じながら、ツトムは手を伸ばし……


 その手が、赤いホールドに触れた。

「やった!」

 ツトムとケイの声が重なる。その配信を見ている視聴者からも、達成感を共有するコメントが多くついたことは言うまでもない。

 しかし次の瞬間、もう一方の手が限界を迎え、指から力が抜けた。

「あっ……!」

 ツトムの体が大きく傾く。とっさに、その体を受け止めようとケイが腕を広げ……


 二人の体が重なる。落下の衝撃に、ツトムは息を詰まらせる。

 クッション性の強い床と、ケイが受け止めてくれたおかげで、痛みはない。それどころか……

(柔らかい……)

 疲労と衝撃でにぶった頭は、その感触を数秒味わってから……自分が、あおむけになったケイの胸に顔をうずめていることに気づいて、慌てて体を起こした。


「う、うわっ、すみません!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ。しかし、床に背中を預けたケイはおだやかにほほ笑んでいた。

「すごいな、いきなりであそこまで登れるなんて。筋がいいよ、君は」

 本当に、ツトムとの接触をかけらも気にしていない様子である。

「あ……う、い、いえ、そのー……あ、ありがとうございます」

 真っ赤になりながらうつむく。

 ウェイクウィンクのコメント欄が、ケイにあこがれる女性ユーザーからのブーイングであふれていることをツトムが知るのは、まだ先のことである。

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