第1条第7項 打刻(または、手を重ねる二人)

「あの、さっきの、労働時間の話なんですけど……」

 労働交渉の隙間を縫って、ツトムが遠慮がちに手を上げた。

「その時間って、どうやって確かめるんですか? タイムカード、とか?」

 不意の質問に、ルアが整った形の眉を寄せる。

「そういえば、考えてなかったわね。事業所と同じって分けにもいかないし……」


 それをよそに、荒生弁護士がひとつ、大きく頷いた。

「いい質問ね」

 そして、細かな文字が印刷された数枚の紙を取り出した。

「これは平成29年に策定されたガイドラインです。細かい説明を省くと、最近の残業増加を受けて、どうやって労働時間を把握すべきかを指示したものです」

 そして、内容を読み上げる。


『労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン(平成29年1月20日策定)

4-(2)始業・終業時刻の確認及び記録の原則的な方法

使用者が始業・終業時刻を確認し、記録する方法としては、原則として次のいずれかの方法によること。

ア 使用者が、自ら現認することにより確認し、適正に記録すること。

イ タイムカード、ICカード、パソコンの使用時間の記録等の客観的な記録を基礎として確認し、適正に記録すること。』


「つまり、労働時間を確認するのは使用者の責任、ということです」

「それなら、簡単ね。あなたの勤務場所は、基本的に私がいる場所、なんだから。私が記録を取ればいいだけ」

「どのように記録するかには、定めはないのですかな?」

 と、合渡。

「特には。ただし、時間が経っても容易に参照できるものが良いでしょう」


「ふむ……」

 告げられて、ルアが下を向き、頬からあごにかけてのラインをゆっくりなぞった。

「それじゃ、せっかくだからいろいろ試してみましょう。とにかく、記録に残せばいいわけよね」

 荒生が頷いて答えた。

「ただし、使用者が不当な改ざんをしないように、ツトムくんも自分がいつからいつまで働いたか、きちんと覚えておくのよ?」


 荒生はぴしり、と、指を一本立ててみせる。

「そういう相談、多いんだから」

「は……はい」

「そんなことしないわよ」

 不満げに、ルアが髪をかき上げる。

「一般論として、です。それに、この契約はきわめて例外的な内容が多いですから。念には念を入れないと」


「ま、いいわ。あなた、もし働くことになったら……」

 お嬢様の視線がツトムにまっすぐ向けられて、口元が自信たっぷりに半月を描いた。

「私が、この八頭司ルアが、ルールの穴を突いたり、数字をごまかして利益を出したりしない、器の大きな経営者だってこと、たっぷりとわからせてあげるわ!」



   📖



 ツトムは息を切らせながら歩いていた。

 走るのはまずい。学校の廊下で走って誰かとぶつかったりしたら、大問題だ。

 初日から、そんな目に遭うわけにはいかない……ましてや、そのせいでルアを待たせたりしたら、どんな扱いを受けるかわかったものじゃない。

(まさか、やめさせられるとか……)

 ひやりとしたものが背中に走る。この学校に通うのも、生活するのだって、ルアに雇われていることが前提だ。


 もしも解雇されれば、ツトムに残るのは、1億2000万の借金だけだ。

 階段を一段ずつ、踏み外さないように降りていく。ケガも困る。資本は体だけだ。

 ケガでも病気でも、働けなくなったら……

 想像の中で不安が膨らんでいく。だけど、そのとき、一条の条文が思い出された。


『労働契約法 第16条

 解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。』


 その一文は、荒生に何度も聞かされた。

『遅刻したとか、失礼なことを言ったとか、そんなことで解雇はできないわ』

 荒生はそう言って、お守り代わりにその条文を書き付けた紙をくれた(変わった人だ)。

 そのメモ書きは、今もツトムの生徒手帳に挟まれている。鞄の内側から、勇気をくれる気がした。


 シューズボックス。スクールシューズを安物のスニーカーに履き替えた。

 きっと、ほかの生徒はもっと高いものを使ってるんだろうと思ったけど、そんなことを確かめている場合ではない。

 ばらばらと下校をはじめた生徒たちの間を縫って、校門へと急ぐ。

 見えた。同じ制服でも、ひときわ目立つシルエット……16歳、と言われてもなかなか信じられない……が、ツトムの姿を認めた。


「こっちよ、早く来なさい!」

 ルアはなぜか手を上げ、一度だけ振ってから、なぜかそれを逆の手でつかんで降ろし、大きな胸を大きく上下させてから、別の言葉を言い直した。

「私を待たせるなんて、いい度胸ね!」

「そ、それ、朝も聞きました……」

「お、同じ状況で同じ事を言って何が悪いのよ!」


 左手で右手をつかんだまま、息を切らせたツトムから顔をそらし、ルアが叫んだ。

「す、すみません」

「ま、いいわ。それじゃ、ちょっと待ってなさい」

 そう言って、ルアは鞄の中からタブレットを取り出した。さらには、それを胸で支えながら(すごい、とツトムは思った)、別の機器とケーブルでつないだ。

 掌に収まるサイズの、箱形の機器だ。上部はつるりとした透明素材になっていて、タブレットとつなぐと、その場所がうっすらと光った。


「……これは?」

「指紋認証式のタイムレコーダーよ。これであなたの勤務時間を記録するわ」

 片手でタブレットを抱えたまま、そのタイムレコーダーとやらを、ツトムに向かって差し出す。

「指、出して」

「は……はい」

「別に噛まれたりしないわよ。ビクビクしないの」

 言葉とは裏腹に、どこか楽しむような語調だ。ツトムは右手の人差し指を立て、光る部分に指先を乗せる。


 ピッ。

 タブレットが小さな音を立て、指の下で光が点滅した。

「私のそばが勤務場所なんだから、私がこれを持ってればすぐに記録できるでしょ」

 手元でタブレットを操作しながら、整った鼻の奥を、ふふん、と鳴らしてみせる。

「あなたのために私の荷物が一つ増えてるのよ。光栄に思いなさい」

「そ……そうですね。ありがとうございます」

 どう答えていいやら。戸惑うツトムの顔を見て、今度はくすくすと肩を揺らす。


「素直なのも考え物ねえ。ほら、もう一度」

 もう一度、といってもツトムは指を少し、浮かせて、置き直すだけだ。

 小さな機器を挟んで、ルアとツトムの手が数センチの距離に重なる。機器さえなければ、手をつなごうと誘われているような体勢だ……もっとも、どちらもそのことに気づく状況ではないけど。


 ピッ。

 再び、タブレットが音を立てた。ルアが細く白い指を滑らせて、再び操作する。

「それじゃ、打刻するわよ」

 ピッ。

 三度目の電子音。

「……ん、よし!」

 タブレットの画面が持ち上げられて、ツトムに向けられる。


『10:53 若倉ツトム』

 今の時刻が大きく、ツトムの名前が小さく表示されている。

 つまり、これでツトムの初勤務が始まった、ということらしい。

「それじゃ、細かい話は私の家でするわ。合渡を待たせてあるから、来なさい」

 そう言って、さっさと歩き始める。決してこっちのペースに合わせようとしないお嬢様は大股に進んでいく。


「わ、ちょ、ちょっと待ってください」

 慌てて、そのあとを追いかける。ツトムが小柄な上に、ルアが長身で足も長いせいで、同じペースで歩こうとするとまた早歩きだ。

(この人に合わせてたら、筋肉痛になりそうだ)

 早歩きだけで筋肉痛になったら、15歳の少年としてはかなりフクザツである。

 ちらりと足下を見る。落ち着いたデザインの、艶のきいたローファーが数歩先を進んでいく。

 おいていかれないように、その背中を追いかけた。


 解雇だとか、減給だなんて話をするつもりは、なさそうだ。

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