4-1 騒乱の帝都

 ラフィアは、人の世に干渉することを好まない女神だ。

 人の世のみならず、命あるものすべて、己が意志で進むべきと、幾度も唱え続けた。


 しかしながら、人の世、ラフィアの目の届かぬところで、異端なる神がみが暗躍しはじめると、偉大なる女神とて信念ばかりを述べ続けるわけにもゆかなくなった。妹神セルフィラとの争いを経て、セルフィラ信奉者たちの世を乱しかねない行いを目にした彼女は、人に力を与えることを決意する。

 意志が強く、心清らかな人間を一時代に二人だけ選び出し、彼らに己の一部を授けたのだ。

 それは世界の伝統となり、理に溶けこんだ。神の力を分け与えられた人々は、後の世に数々の伝説を残してゆく。


 彼らはやがて、ラフィアが持つ色違いの翼になぞらえて、『金の翼』『銀の翼』と呼ばれるようになった。



     ※



 軍の中で最初に異変に気づいたのは、夜の見張りに立っていた兵士だった。

 かりかり、かりかり。猫が爪を立てるような音が、繰り返し響くのだ。兵士は不思議に思ったが、許可なくその場を動くわけにもいかない。ひとまず、同じ夜番の同僚に相談してみたが、彼も首をひねるばかりだった。

 野良猫か何かだろう、と結論付けて番を続けた。しかし、爪とぎの音はやまないどころか、しだいに大きくなっていった。いよいよ、いぶかるだけでは済まなくなった兵士は、火の入った角灯を音のする方へかざした。そして一瞬後、己の行いを悔やんだ。

 火の明かりを受けた闇に浮かんだのは、異形の影。一見、熊のようにも思えたが、その輪郭ははっきりしない。両目ばかりが欲望と生気に満ちてぎらついていた。その熊は、兵士と目が合うなり、口を大きく開いた。威嚇する蛇のような声が響いたと思えば、恐怖に顔をひきつらせた兵士が逃げる間もなく、体を跳ねさせた。

 鈍い音。光る爪。飛び散る黒。激しい痛みと血のにおい――兵士が最期に感じたもののすべてである。

 哀れな兵士の断末魔が夜の暗幕を引き裂く。一拍遅れて、けたたましい警笛が、あちこちで鳴り響いた。


 鋭い笛の音に耳の奥を貫かれ、キリクはなかば本能的に飛び起きた。昼間の暴動対応で疲れ切っていたはずだが、眠気というものをまったく感じない。

 部屋を見渡せば、ほかの三人もすでに起きていた。彼らが顔を見合わせると同時、再び笛が鳴り響く。それに重ねて、野太い声が幾重にも連なって届いた。

『陸軍総司令部より通達。市内に正体不明の獣が侵入。番兵数名が襲われ死亡』

『非常事態を宣言する。総員、ただちに出動せよ』

『繰り返す。総員、ただちに出動せよ!』

 一拍の間もあかず、あたりに重々しい足音が響いた。闇に閉ざされていたはずの寮に、一斉に明かりが灯る。キリクたちが、冷静に状況を見ていられるのもそこまでだった。

 非常事態の一語をきっかけに、少年兵たちの頭の中は有事のそれに切りかわっていた。すばやく軍服に袖を通し、四人全員で部屋を飛び出した後は、それぞれの所属に分かれて走った。寮の入口で銃を担いで剣を差す。濃紺の群に押しつぶされそうになっても、気にしている場合ではない。

 皇室師団の本部に足を踏み入れてから、大声を張り上げながら駆け抜ける軍人と何度もすれ違った。先ほどの、野太い声の主は彼らだ。キリクとロベールは、しきりに非常事態を訴える彼らに一瞥をくれるも、すぐにディーリア中隊の群を見つけてそこに飛びこんだ。すでに隊長が、各員に指示を出しているところだった。

 改めて隊長に状況を尋ねれば、予断を許さぬ時であろうに、しっかりと教えてくれた。

 突如、謎の獣が軍の本部前に現れて、番兵を食い殺してしまったのが、事の発端。それを皮切りに、帝都じゅうで獣が確認された。その実数は把握できていないが、かなりの数らしい。すでに帝都は大変な騒ぎになっているようだった。

 皇室師団のしゅたる任務である皇族の警護は、別の隊に任されるらしい。ディーリア中隊は、いくつかの班に分かれて住民の避難と『獣』への対応を同時に行う。キリクが振り分けられたのは第三班、獣への対応を任される、いわば最前線へ出る班だった。幸いというべきか、班長はパウルス伍長だ。

 第三班は、住民の避難完了を待ちつつも、獣の様子を見るために市街へ出ることになった。その際、ステラが直接、彼らにあるものを配った。キリクは、ずしりと重いそれを見て、目をみはる。ヴィナードが昼間に持ってきた通信機だ。

「帝都近郊までなら通じるわ。ただし、元素エレメルが偏ったり乱れたりしてる場所――魔導術が使われたばかりの場所では繋がらなくなるから注意して」

「了解」

 パウルス伍長が、好奇心をおさえきれないといわんばかりの表情で敬礼する。そんな彼でも、いざ外に出て獣の足音を聞くと、表情を消した。キリクも、まわりの隊員と一緒に生唾をのむ。姿は見えない。それでも、息遣いや爪を立てる音が間近に聞こえる。なにを考える間もなく鳥肌が立った。

 街の中を見渡せば、尋常でない状況に気づいた人々が、暗闇の中に出てきていた。家の明かりは消えたままだが。街灯の光と人々の持つ炎が音もなく揺れ、帝都の通りに美しい画を描いている。だが、他方で、闇の深いところからは火のついたような泣き声がした。湿った風に乗って、錆ついた生臭さが漂ってくる。キリクは、自分の手が震えていることに気づき、急いで押さえつけた。

「ひっでえ……なんだこりゃ」

 班員の誰かが、呟いた。キリクは、はっとあたりを見回す。みな、動揺はしていたが、震えている人はほかにいなかった。きっと、この班のキリク以外の人々は、戦場を経験しているのだ。情けなさに耐えられなくなりそうだった。だが、今は自分を恥じている場合ではない。少年は、わきあがった苦みを、かぶりを振ってごまかした。

 キリクたち第三班は帝都の西側、西北区域大通りで武器を構える。帝都案内所の建物を借りて物陰で銃をにぎったキリクは、息をのんだ。通信機からは、状況を知らせる声が絶え間なく響く。なかには『交戦開始』の叫び声がいくつも混じっていた。その隙間に、イルフォード隊長の声を拾うと、不思議な安心感に包まれる。

 だが、そんなことを考えていられるのもわずかな間だけだった。西北区域の避難完了の報が入る。ほぼ同時、小さく銃声とうなり声が重なって聞こえてきた。

「来たぞ!」

 壁をはさんだ向こうから、班員のささやきが飛ぶ。キリクも小さく返して、銃に弾がこめられていることを確かめた。

 刹那、静かだった通りを甲高い音が駆け抜ける。獣の遠吠えだ。

 それはきっと、合図だったのだろう。どこにいたのか、奇妙な黒い獣たちは、一斉に市街へと躍り出してきた。キリクも壁のむこう側に確かな気配を感じる。すかさず、パウルス伍長から『応戦しろ』の合図が飛んできた。それを認めてすぐ、キリクは銃を構えた。黒をとらえ、発砲。高音と低音が入り混じった悲鳴が、あたりに飛び散った。

 たちまち、穏やかだった夜の帝都は戦場と化す。

 とどろく銃声に、キリクは思わず渋い顔をした。もはや、自分が撃った音なのか違うのか、判別がつかない。それでも彼は、がむしゃらに弾をこめて、撃って、走った。そして時には剣を抜き、おぼろげな影に斬りかかった。

 頬を熱がかする。キリクは飛びのき、近くの民家の陰に身を隠す。そこで一息に引き金を引いた。短い音と、獣の叫び。その後には視界の端で、黒いものが散る。それは、煙のようにも羽虫の群のようにも見えた。硝煙のにおいばかりが立ち込める。

 キリクは目をみはった。

 突然現れたこの獣たちは、血を流さないのだ。かわりに、黒いものをまき散らして消える。おそらく肉体を持たないのだ。だからこそ、輪郭がぼやけて見えるし、どこから出てくるのか予想がつかない。

「魔導術か……?」

 呟いてみたものの、だからといって答えが出るわけもない。キリクはあきらめて、巨大な蛇のような獣に銃口を向け、また、右の人さし指に力をこめた。

 

 獣の襲撃騒ぎは突然だった。だから、多くの新兵は、これが初の実戦だと気合いを入れる余裕もなかった。雰囲気にのまれ、正体不明の敵に翻弄されて、重傷を負った者も少なくなかった――というのは、キリクたちが後から聞かされた話である。

 そんな中で、ディーリア中隊の新兵たちは、キリクを含むほとんどが冷静に行動できていた方だった。常に班員と一定の距離を保って獣たちと交戦し、連絡を取りあって通信に耳をかたむけ、状況を判断する。大事な部分で突っ走らず、班長の指示を待つ。そういうことが、自然とできていた。時に恐れられたステラ・イルフォード中尉の訓練がのちに評価される、大きな理由のひとつとなる。


 とはいえ、本人たちに客観的な事実を気にしている余裕はない。キリクたちは、ただひたすらに獣たちを攻撃し続けた。彼らは地面から湧き出ているかのように際限なく現れた。

「もとを断たなければきりがない」

 ぼやいたのは、班員の一人だ。キリクもパウルス伍長も同意したが、伍長は同時に班員を諭した。

「それを調べるのは、本部に残ってる連中がやってくれる」

 俺たちは余計なことを気にせず戦うんだ、ということである。班長にそう言われたからにはしかたがない。兵士たちは、再び銃をとった。

 獣たちとの攻防は、いつまでも終わらなかった。終わりがないように思えた。

 だが、夜も底に差し掛かった頃、変化が起きる。

 突然だった。司令塔として残っていたはずの中隊長が、戦場に出ると宣言したのである。キリクは驚いたが、そのときは獣への対応に追われて、意味を考えるひまなどなかった。

 意味を知ったのは、またしばらく経った後のこと。

 前方から悲鳴が聞こえた。街路灯の明かりの下、黒いかたまりと班員が揉みあっている。キリクは、まわりに敵の目がないことを確かめると、灯りの方へつま先を向けた。しかし、彼が駆け出す前に、制止される。

「一等兵、来るな! こいつは」

 鋭い声に打たれ、キリクは一瞬ひるんだ。そのとき、影が大きさに似合わぬ俊敏さで、目の前の軍人を飛び越える。狼の形をしたそれは、たまたま見つけた小さな人間に狙いを定めると、口の端を歪めて牙をむいた。

 キリクは引き金に手をかける。考える前に発砲した。弾は黒のなかに吸いこまれたが、獣の動きは鈍らない。少年は、息をのんで固まった。


 一等兵、と再び呼ばれる。声に答えは返せない。

 牙が光る。銃は効かない。剣を抜くには時が足りない。

 もう、どうしようもない。そう思ったとき。


 キリクの視界を、一筋の白銀が横切った。

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