第5話 先輩がお腹を空かせたその理由

「お邪魔、するわ……」

 インターフォンが鳴り響いた後、勝手知ったる声が脱力感を宿しながら玄関ドアを開く。

「あ、優衣先輩、いらっしゃい」

 太一が玄関で出迎えたのは一人の少女だった。

 冷静さを宿した顔立ちと優しさを帯びた目尻、ショートボブの艶やかな髪には花弁の髪飾り。春らしさを表現した桜色のニットワンピースは少女の色香ある女のラインを寸分も狂いもなく現している。

 生粋の女の匂いとは異なる甘く優しい匂いが太一の鼻孔をくすぐった。

「突然押しかけて、ごめん……」

 蔵色優衣くらしきゆいは近所に住まう一学年上の先輩である。

 見た目はポーカーフェイスの落ち着いた様で人との距離を開くタイプと思われやすいが先輩として相談に乗ったり、勉強を見てくれたりと面倒見が良い性格をしている。

 学業でも成績は学年首席、運動神経抜群、スタイルは出るところは出て、くびれているところはくびれていると男の性を刺激するほど言うことなし。

 面倒見が良く、頼れる人物である一方、料理だけが壊滅的にダメな面もあった。

「夕餉に入ろうと思ったら、冷蔵庫が空っぽだったのよ……」

「大丈夫ですよ。ちゃんと先輩の分もありますから」

 アパートの一人暮らしであるため時折、太一や未那が食事に誘うこともあれば、優衣自ら食事を求めて訪れることもあった。

「あ、優衣先輩、いらっしゃい」

 来客に気づいた未那が快く出迎える。

 それなりにつきあいの長い先輩後輩でご近所さんだからこそ、自然と名字ではなく名前で呼んでいる。

 太一も未那も一人っ子であることから、共に頼りになる姉には多少なりとも憧れがあった。

 別段に、優衣から、お姉さんと呼ぶように、と言われたことは一度たりともない。

 実姉がいるクラスメイトの話では、アゴでこきつかう暴虐極まりない理不尽と不条理の塊だと震えながら語っていた。

 義姉がいるクラスメイトの話では、四六時中、スキンシップをして甘やかしてくるから自制心と自堕落を抑えに抑えていると震えながら語っていた。

 結論、余所は余所、家は家で、家の数だけ姉なる形があると判明した。

「美味しそうな匂い……」

 リビングに足を踏み入れた優衣は唾液こみ上げる匂いに食欲をそそられ、テーブルに並べられた食事に胸を弾ませる。

「ほら、優衣先輩、冷めないうちに」

 テーブルの上にはメインのタンドリーチキンに主食の白米と味噌汁、後はバランスを考えたミニサラダが人数分並べられていた。

「本当にもう、頼りになる後輩がいて、私は幸せ者よ」

「優衣先輩、大袈裟ですよ」

 優衣は太一と対面する形で座れば、未那が太一の隣に座ったのを確認して、手を合わせた。

「はい、いただきます」

 箸を進める中、談笑が自ずと始まるのは必然だった。

「私が料理できれば二人に美味しいご飯作ってやれたのに」

「優衣先輩に料理させると僕が危ない」

「どうしてかしら?」

 料理下手のお約束といえば、レシピを自分なりにアレンジして独創的な料理を生み出す。

 食い合わせの知識を一切持たずして混ぜるな危険な料理を作り出す。

 優衣の場合、できた料理よりも、作ろうとする行動こそが問題だった。

「包丁を逆手に持つ、素材を切るんじゃなくって先端から刺してえぐる、魚を捌く時は目玉から刺す、え~っと他になんかあっけ?」

 太一は箸を進めながら隣に座る未那に尋ねる。

 尋ねる中、太一は近似したシーンを何処かで見た既視感に囚われるも、背筋に寒気が走ったので思い出すのを止めた。

「他にはね~」

「ふたりともやめて」

 声音を膨らませた優衣が止めに入る。

 折角の美味しい食事なのだ。

 みんなが笑える話ならともかく、笑われる話は料理の味を悪くする。

「これ以上、いじるなら料理を作るわよ」

「「それはやめて!」」

 太一と未那は幼なじみだけに息を合わせて制止する。

 タンドリーチキンをおかずに、間を置かずして次なる話題で談笑に花を咲かすのであった。


「うん、今日も美味しかった」

 抑揚のない声音は満足げに膨らみ、優衣はソファーに腰を下ろした。

 お腹を撫でるごとに服の上からの圧迫で腹部、それもへその凹み具合を服の布地が露わとする。

「もう、太一くんのご飯だけで妊娠しそう」

「優衣先輩、今度それ言ったらご飯抜きにしますからね」

 皿洗いをする太一は振り向かぬまま真顔で釘を刺した。

「頼りになるお姉さん先輩の冗談なのに、太一くんは真に受けすぎ」

 やる側はいつだって冗談であろうと受け手側はいつだって本気である。

 だからこそ、隣に座るかわいい後輩がほのかに怒りの波動を放っている。

「あんまり太一をからかわないでください」

 優衣は微笑みながら優しく未那を胸元まで抱き寄せた。

 風呂上がりの姿から察していたが、石鹸の柔らかな香りが鼻先に触れる。

「先輩で姉属性の生き物は、下の子をからかいたくてどうしようもない性分なの」

「太一をからかうのは構わないですけど、あいつ、追い込まれれば追い込まれるほど手痛い反撃してきますよ」

「あらら、幼なじみとしてと余裕かしら?」

「余裕と言うより経験による警告です」

 いたずら半分で誘惑して、しどろもどろする太一の様子を楽しもうと、踏み込む間合いを半歩でも違えれば、立場が逆転する経験が未那にはある。

 もっとも爆弾が爆発するように一瞬だけで、太一はすぐさま理性を取り戻しては気まずくなるのはお約束でもあるが。

「なるほど、未那ちゃんは太一くんに孕ませられるのね」

「お・こ・り・ま・す・よ?」

「目くじらたてない。かわいい顔が台無し」

「誰のせいですか、誰の」

「何よりも誰よりも先輩である私のせい。だからこそ、お詫びにぎゅ~ってしてあげる」

 優衣は優しく未那の身体を抱きしめる。

 胸に顔を埋めている未那は半ば不満げであるが時と共に安らぎを浮かべていく。

「二人の仲人は任せてね」

「それはあれに言ってください。あいつが目標を得て、その目標を叶えた時に」

「またおばさまとケンカしたの?」

 未那は優衣に答えぬまま谷間に顔を埋めていく。

 先輩の立場として家庭の問題は把握しているが、姉のような先輩であって本物の姉ではない。

 何よりも自分自身が抱える問題ではないからこそ、踏み込まぬよう境界を定めていた。

「何かあったら胸の一つや二つ、何度でも貸してあげるから」

「ありがとう」

「後輩の頼りになりたい先輩だから」

 優衣は優しく未那の頭を撫でる。

 胸を貸すなど容易く、先輩だから愚痴の一つぐらい聞いてなんぼである。

「優衣先輩は悩みとか、って聞くだけ野暮か」

「聞くだけ野暮。先輩の悩みは知っているでしょう?」

 今の世の中、コンビニや缶詰があるとしても、料理ができぬとなればそれだけ生活水準は低下どころか低迷を招く。

 下手をすれば食わねばならぬ料理で自滅する可能性も高い。

「完璧そうで完璧ってないのね」

「世の中そんなもの。誰でも得意があれば不得意がある」

 仲睦まじき優衣と未那のやりとりを背に受けながら太一は皿洗いを終えた。

 実際、洗うのはキッチンに併設された食器洗い機であるが。

「優衣先輩、今晩どうするの?」

 エプロンで塗れた手を拭きながら太一は尋ねる。

「今日は飛び入りだったから遠慮するわ」

 時折だが、夕食を頂いた後、優衣はそのまま涼木家に泊まることがあった。

 女の一人暮らしも推してか、家主からは、いつでもどうぞと了承を頂いている。

 もし泊まるとなれば、優衣を挟んだ川の字で三人仲良く寝るのが恒例行事となる。

 そうなれば男の太一に拒否権はない。

 年頃の男の子には自制心を崩さんとする拷問に近く、抱き寄せてくるからなおのこと男の苦悩は絶えなかった。

「今夜はしっかりと太一くんに慰めてもらいなさい」

 太一に聞こえぬよう小声で優衣は未那に囁いた。

 瞬間湯沸かし器のように顔を真っ赤にした未那は絶句している。

「それじゃ、そろそろおいとまするね」

 胸を貸す程度の意味なのだが、多感な年頃の乙女である。

 色々と想像してしまった顔をかわいいと優衣は思った。

 未那の頬に軽く口づけした優衣は立ち上がり、続けざま太一の頬に同じような口づけをした。

「あ、優衣先輩、送るよ」

「大丈夫。太一くんは未那ちゃんの側に居てあげなさい」

 男の子らしく顔を赤らめる太一の耳元で優衣は優しく囁いた。


 太一は隣家の涼木家に下宿している。

 両親が海外主張で留守であること。

 隣家の家主が看護師であるため夜、年頃の娘を一人にできぬこと。

 防犯ために信頼ある男を下宿させる……など矛盾した建前。

 保護者たちの企みなる本音は一つしかなかった。

 私室として太一に宛がわれたのは一階の和室。

 この和室の真上は未那の部屋であり、下の部屋に物音が伝わるのを気にしなくて良いという家主の配慮であった。

「太一、太一、タイチ~」

 タンスから出した寝具一式を抱えた時、戸越しに未那の呼び声がした。

「どうしたの?」

 夜の更けた時間に未那が二階の自室から降りてくるなど珍しかった。

 返事=ノックだと外より扉は開かれる。

 松葉杖を突いた姿は変わらずとも未那は薄手のパジャマの上にカーディガンを肩がけしている。

 髪はバレッタでまとめず肩まで広がっていたことで昼間とは違う女の顔を現していた。

「今夜の私は誰かさんのせいで無性むしょ~に機嫌が悪いです」

「それで?」

「機嫌の悪い私を鎮めるために太一には責任とって私の部屋で寝てもらいます」

 家主である母親は夜勤にて不在。

 一つ屋根の下に年頃の男女二人。

 これで事が起こせぬ男ならばヘタレとなじられるのがお約束である。

 何より女の口から責任を取るよう求められたのならば男として動かないのは恥だ。

「ちなみにお触りOKです」

 断れば機嫌がなお悪くなるので、太一の選択肢は<はい>か<YES>しかない。

「わかった、わかった」

 二つ返事で太一が承諾するなど未那から看破されている。

 畳の上に敷く予定だった寝具一式を抱える太一は二階への階段を昇る。

 昇りながら、布団はのではなくものだと勘違いしていた時期を思い出した。

 思い出した理由は布団を抱えていることが生んだ雑念だと結論付ける。

 未那の部屋は一〇畳ほどの広さながら本棚四つのお陰で歩行範囲は狭い。

 整理整頓がされていようと机の上には栞が挟まれた本が山積みとなっている。

 他にあるといえばベッドに鏡面台ぐらい。

 女っ気がない部屋だとしても勤勉さを現す部屋であった。

 太一は手慣れた手つきで未那と頭を並べられるようにベッドの隣に布団を敷く。

「よっと」

 敷き終わるなり未那は本来寝るベッドではなく布団へと仰向けに飛び込んできた。

「ほらほらほら、太一、荒ぶった私の機嫌を鎮めなさい」

 布団にその身を横にした未那は隣に寝るよう促してきた。

「拒否するなら、今ここでパジャマを自ら引き裂いて、あられもない姿の自撮りをおじさんたちに送りつけます」

「絶対喜ぶよ!」

 確固たる目標を持てぬことを両親が知っていようと、息子ならどうにかするだろうという期待と信頼を確証なく抱いている。

 もし女の身体を知ったならば心の支えと活力を得て、精力的に活動するのだと息子の前で断言する始末であった。

「さあ、寝るの? 寝ないの?」

 パジャマの胸元に手をかけた未那が自分を人質にして迫る。

 発情期の男なら今すぐダイレクトにダイブインだろうと太一の自制心が許さない。

 結局のところ未那に求められるがまま寝具を隣り合わせることであった。

「うん、素直でよろしい」

 太一と隣り合う未那は先までの不機嫌さがどこに消えたのやら、嬉しそうに顔を綻ばせている。

 その笑顔は太一の理性を蕩け溶かしそうなほど眩しく危険だった。

「あ、その前に……」

 確固たる目的にて理性を保持した太一は思い出すかのように半身を起こす。

 次いで未那を影で覆うように迫れば左右の五指を、わしわしといやらしく動かした。

「今日のお触りがまだだった」

「や、優しく、して、よね……」

 未那は目線を逸らしながら頬を仄かに染めては懇願していた。

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