終章 3

 雲が金色に、青空は深い色に移り変わりつつあった。真昼の風に臆病な自分を吹き流して、エルセリスはオルヴェインと向き合った。

「約束を果たすよ」

 と、勇気を振り絞ったのに。

「待った」

 手のひらを突き出して止められてしまった。

「振られるのにも勇気がいるんだ。ちょっと待て。心の準備をするから」

 そう言って何度か深呼吸した後、「よし」と頷いて自分を励ましたようだった。

「覚悟ができた。聞こう」

「じゃあ言うよ。――私は、あなたが好きだ」

「うん、すまなかった。これまでの所業が、…………え?」

 何を言われたか遅れて理解し始めたらしいオルヴェインが、どんどん目を丸くしていくのをエルセリスは愉快な気持ちで眺める。

「……なんて言った?」

「大嫌いだった。昔のあなたが。でもいまは……好きだよ、オルヴェイン」

 人を好きでいることは難しい。許せなかったり嫌いになったりすることは、日常を生きていく上でごく当然に抱く気持ちだ。けれどそれもまた日々を過ごすうちに氷解するときがやってくることもある。人が変わろうと努力することで、その瞬間は想像よりもずっと早く訪れる。

 エルセリスが笑っていることを事実だと確かめて、オルヴェインは力が抜けたようだった。額を押さえてふらついているのでよっぽど参ったらしい、脱力しながら言われた。

「嫌われていると思ってた……」

「昔はね。いまは違う」

 偽らざる本心を口にできるとこんなにも心が晴れやかだ。

 するとオルヴェインはまだ信じられない様子でぽつりと漏らした。

「……本当は聞きたくなかったんだ。いつ死ぬともわからない俺には、お前を幸せにすることができないと思っていたから」

「人は誰だっていつか死ぬんだよ。そのときがいつかなんて誰にもわからない。だから大事なことはいま言うんだ」

 そんなこともわからないのかと少し呆れ、同時に、ずっと死に恐怖して虚勢を張っていたであろうことを思って息をこぼした。

「幸せにしてくれなくても勝手に幸せになるから。安心して生きなよ。あなたが元気で自分らしく生きてくれる、それだけで十分だから」

「……お前は昔から男前だな」

「根が素直なのが取り柄だからね」

 差し伸べていたはずの手はいつの間にか握られていた。

「お前のそういうところがずっと好きだった。性別や年齢に関係なく、みんなに笑いかけるお前に、俺はずっと救われていたんだ」

 引き寄せられるまま一歩進み、胸に抱かれそうになっているところでじっと見上げると苦笑された。

「目、閉じろよ」

(……え、そういうこと!?)

 慌てて目を閉じると吹き出すのが聞こえて目を開けた。

「どうして笑うんだよっ」

「世慣れたように見えてそういうところは学んでこなかったのかと思うと、嬉しくてな」

 馬鹿にしていたが、彼の言う通り、周囲に平等に接してきたエルセリスは色恋沙汰の初歩も応用もまったく知らずにきたのだった。身についたのは上手な人の躱し方だけだ。

「そういう人を馬鹿にするところが嫌いだ」という台詞は、軽く触れ合った唇の間で消滅した。

 絶句するエルセリスを怖いほど見つめて、彼は言った。

「目」

 端的に。命令するみたいに。

 すごく真剣な顔で言われたら、勝手に目が閉じていた。

 唇が重なる。

 触れ合う感覚は見えないところに連れ去られていくようで怖くて、どきどきした。子どもの頃入ってはいけないところに忍び込んでいくような、初めての場所に踏み入ったときの胸の高鳴りに似ていた。

「……っ!!」

 気付けば力を込めてオルヴェインを押し返していた。

 だが腕は緩まない。がっちりと捕まえられて、これ以上腕を突っ張ると後ろに倒れてしまいそうだ。

「あ、やっ、ちょ、ちょっと待って……!」

「嫌か」

「ちょっ、……こ、怖いから、ちょっと」

 待って、と弱々しく懇願するとオルヴェインは愕然とし、直後にエルセリスの胸に顔を埋めるようにしてがっくりと項垂れた。

「……昔の俺をぶん殴りたい。こんな可愛いやつを舎弟扱いとかなんてことさせてたんだ俺は」

「お、落ち込んでるの? あの、全部後悔する必要はないと思うんだ。喧嘩のときに『親指を握り込むな』って教わったの、結構いまでも結構役に立ってるんだ」

 ぺらぺら喋りすぎたのを悟ったのはオルヴェインの眼光が鋭くなったからだ。

「誰を殴ってるんだ?」

 しまった、昔の顔になっている。

 これ以上興奮させないように言葉を選びながら、笑い話になるように話す。

「あー……っと、時々暴走しちゃった熱心な人が暗がりで待ってることがあるから、そういうときにちょっと」

「ちっ」

(舌打ち!)

 オルヴェインは険悪な顔で呟いている。

「余計な虫がうろうろしてるのか。早く駆除しないと。さっさと宣言した方がいいか……」

「あの、身を守る術は心得てるから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

「心配するに決まってるだろう。好きな相手のことなんだから」

 苛立たしげな態度は彼の素の一部でもある。その態度が本音を口にしているという実感を強く覚えさせて、エルセリスは顔を赤くして黙った。

「護衛をつけよう」

「いらないよ!?」

「なんで」

 本当に護衛をつけかねない口調だが、たかだか一聖務官に護衛なんて大げさだ。伯爵令嬢としてであっても、と思っているとオルヴェインは不愉快そうに聞き返してくる。

「いやいや、護衛が必要なら実家に頼むし。なんだったら私が自分の稼ぎから出すしから」

「第二王子の婚約者に護衛をつけて何が悪い」

「……え」

「俺が告げて、お前が答えた。つまりそういうことだろう」

 エルセリスの脳内を凄まじい嵐が吹き荒れた。

(ええええええ――っ!? いや! 中途半端な気持ちで『好きだ』って言ったつもりはないけど! でも!)

 相手が第二王子だということを念頭に置いていなかった。

 本来ならばオルヴェインはエルセリスが傅くべき王族であり、聖務官としてならば従うべき上官でもあった。その愛の告白を受け入れたならば、エルセリスの身分は少々低いが越えられない壁ではないし、しかるべき椅子が用意されることは必然だ。

 まるでそんな未来を想像していなかったエルセリスが呆然としているのを、オルヴェインは心底おかしそうに笑った。

「お前らしい」

 思い出しているのは身分の上下など関係なかったあの頃のことかもしれない。あのときオルヴェンにはすでに自覚があっただろうけれど、幼かったエルセリスは身分の実感がなく、居丈高な彼のことを王子としてではなく仲間内の大将として見ていた。

「……物知らずって馬鹿にされてる気がする」

「そういうところに救われてるんだ」

 それでも自分の迂闊さにため息が出たが、救えているのならまあいいかと思うことにした。

 しかし現実は、山積みになった問題が待ち構えている。

 今度は優しく抱き寄せられるままに委ねたが、その腕の中でエルセリスは顔を覆った。

「ええと……婚約するなら両親に報告しなきゃいけないし、これまで避けてた社交界にも顔を出すようにしないと。婚約式するなら準備があるよね。アトリーナには事前に知らせなきゃ。あっ、仕事辞めるつもりないけどいいかな!?」

「すぐさま結婚するわけじゃないからな。兄貴が落ち着くまで待てって言われるだろ、多分」

「あ、そうか。アルフリード殿下にはまだ婚約者がいらっしゃらないんだっけ。だったらそちらが先か。なら婚約期間が長くなるし、ゆっくり準備できそうだね」

 オルヴェインが顔を背けた。

「……あんまり長くなると理性が保たなくなりそうだがな」

「何か言った」

「お前の剣舞が見たいから、仕事は辞めてほしくない」

 さっきと言っている内容が違う気がしたが、そう言ってくれて胸が温かくなった。今後どうするかは周囲も交えて話し合っていかなければならないだろうが、オルヴェインはエルセリスが聖務官を続けることを望んでくれるだろう。剣舞はエルセリスの人生の大きな部分を占める大事なものだとわかっていてくれるからだ。

「封印塔が完成するまでまだまだ忙しいし、いろいろ大変なことがいっぱいあるね」

「多難だが前途がみんなってわけじゃない。楽しみもある」

 前向きな言葉をオルヴェインから聞けて嬉しかった。

 好きな人がちゃんと未来を楽しみにしていることは幸せだ。一緒にいる甲斐があると思える。

「エルセリス」

 頬に手を添えてオルヴェインが告げる。

「お前のことが好きだ。愛してる。一緒に生きてくれ」

 その手に手を重ねて答える。

「大好きだよ。オルヴェイン」

 傷つけられた過去がなくなったわけではない。心が乱れているときにはそれを思い出して辛くなることもあるだろう。けれど傷は乗り越えられるし、時間は流れて自分の感じ方も変化する。

 だから、世界でいちばん大嫌いなあなたは、世界でいちばん大好きなあなたになった。

 未来に自分たちがどんな風に変わっていくのかはわからないけれど、きっと彼の言う通りだろう。

「これから生きるのが、すごく楽しみだ」

 今度は自然と目を閉じられた。



 そしてふたりの婚約は凄まじい反響を呼ぶのだけれど、多難な現実を乗り越えた先にはより良い自分と楽しい未来が待っていることを、封印塔国の恋人たちは知っていた。

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