第12話「最後の世界」
タマに引きずられ、僕は商業船に偽装された黒猫号に案内された。
エクスト・シティで飛空挺の主要なパーツは調達できたものの、肝心のエンジンはかろうじて通常飛行ができる程度。時間をかけて修理するぐらいなら、どこかで調達した方がいい。それなら、魔石の力を取り入れた最先端のハイブリッドエンジンが良かろう……というわけで、黒猫空賊団御一行は、魔石の本場であるマジック・キングダムにやってきたのだという。
僕はタマとミケの取り成しで話しを聞く気になったクロに、マジック・キングダムで起こった一連の出来事を全て打ち明けた。その間、クロは一言も口を開くことはなく、ミケが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、耳をピクピク動かしていた。
やがて僕が話し終えると、クロはテーブルに頬杖を突いた。
「……で、あんたはどうしたいんだい? 故郷に帰りたいのかい?」
「それは……」
「金を払うなら、乗せてってやるよ。まだ部品の調達が残っているから、その後になるけどね。それを手伝ってくれるなら、タダでもいい。まぁ、短い付き合いでもないからね。……それにしても、あのリューネがねぇ。ただ、この国の魔法は本物だ。ちゃんとリューネを封印してくれるはずさ。だから、大人しく諦めるんだね」
やっぱり……僕は膝の上でぎゅっと拳を握り締めた。
「……ぬぁーんてことを、言われたかったのかい、あんた?」
「えっ……」
「えっ……じゃないわよ、このスカタン! 嫌だねぇ、男の癖にうじうじしちゃってさ! 悩む暇があったらね、行動しなさいって言ってんのさ!」
クロはぐいっと身を乗り出し、テーブルをバンバンと両手で叩いた。
「僕は別に、悩んでなんか――」
「ええい、もう、一から十まで言わんと分からんのかっ! ミケっ! 説明っ!」
「はいはい。いいですか、ソーマさん。ボスはあなたを心配して――」
「んなこたぁーいいのよっ! 用件だけ言いなっ!」
「……ボスはですね、あなたにそれで本当に良いのかって、聞いているんですよ。そして聞くまでもなく、あなたは嫌だと思っている。言葉と心がちぐはぐで、だから悩んでいる。でも、それなら悩む必要なんてない。後は行動あるのみですよ」
ミケは丸眼鏡の位置をくいっと正し、僕にウィンクして見せた。
「行動って……」
「あんた、リューネと一緒にいたいんだろ? 封印なんかしたくないんだろ?」
クロはつかつかと僕の前まで歩み寄ると、腰に手を当て僕を見下ろした。
「だけど、リューネが……」
リューネがそれを望んでいるなら、僕は……。
「あー、もうっ! あんたの気持ちはどうなのさっ! 人の顔色ばっか窺って、誰が誉めてくれるっていうんだい? あんたの望みを言ってごらんよ! あんたの言葉で、あんたの口からさ!」
クロは僕の胸倉を掴み上げる。間近に迫ったクロの顔はとてもおっかなくて、だけど、どこか優しかった。僕はもう一度、拳を固く握り締める。僕は、僕は……。
「リューネに……会いたいっ!」
本物の麻耶さんは、今まで出会ったどんな麻耶さんよりも……エミュレーターよりも、ニュー・ネストよりも、美人で、優しくて、表情豊かなお姉さんだった。
――あの時。部屋を包み込んだ光が消えると、私はオフィス街に立っていた。七福神君の姿はすでになく、手の平に微かな温もり……その
異変はすぐに始まった。空を舞うドラゴン、白銀の人型ロボット、道路を跳ね回る亜人や獣人の群れ……そうした人ならざる者達だけでなく、騎士や武者、侍といった時代錯誤な人間達までもが入り乱れ、その争いから逃げまどうばかりの人々も大勢いて……混乱、狂騒、殺戮、そこはまさに、戦場だった。
私は当てもなく走り続け、麻耶さんと出会った。その姿を目にした瞬間、私は自分の身に何が起きたのかを理解した。私は、麻耶さんの世界にやってきたのだ。
麻耶さんに迫るゴブリン……私はそれが消えることを願った。効果なし。だから走った。走りながら何かないかと手を伸ばすと、ショルダーバッグに触れた。その中身も健在で……私は足をもつれさせながら、肩からショルダーバッグを外し、両手でノートパソコンを掴むと……冬馬、ゴメン! ゴブリンめがけて振り下ろした。
――ファーストコンタクト。最初の混乱を麻耶さんと共に生き延びた私は、麻耶さんのアパートに
日に日にその番組数を減らしていくテレビ。モンスターやロボット、異界の住人の出現は日本だけに止まらず、世界各国がその脅威に晒されていた。
私は傷とへこみだらけになったノートパソコンを開き、キーボードを叩いた。世界の状況を考えると、小説を書くなんて不謹慎なことなのかもしれないけれど、今の私にできることと言えば、これぐらいしかない。だから……私は書き続けた。
ガチャガチャと鍵を開けて、麻耶さんが帰って来た。さぞお疲れだろうに、私に笑顔で「ただいま」と言ってくれる。私も「おかえりなさい」とそれに答える。私はずっと家にいるので、呼び鈴を鳴らしてくれればいいのだけれど……一人暮らしが長いからねぇと、分かっていてもついつい鍵を使ってしまうのだという。
今日も帰れそうにないなぁ……電話でそう言っていたので、麻耶さんが帰ってきて嬉しいと思う反面、何かあったのではないかと不安になる。麻耶さんはコートと上着を脱ぎ捨て、「とうっ!」と布団の上にダイブ。枕に顔を埋めた。
「う~ん……やっぱり、家はいいわねぇ」
「麻耶さん、その――」
「もう駄目ね。実質的には、何も機能していない。何にどう対処すればいいのか、誰も分かっていないんだから。クリーチャー……化け物達は増える一方だし、被害者だって……本日の死亡者数を書くのも一苦労よ。自衛隊の攻撃は成果が上がっているとは言われてるけど、それもどこまで本当だか。政府のお偉いさんは核だなんだの言ってるけど、そんなの使ったら、それこそ世界の終わりだってのに……」
ごろんと転がり、仰向けになる麻耶さん。
「……住宅街では火事場泥棒が横行してるし、暴力団が拳銃やら麻薬やらを売りさばいてるし、治安維持なんて夢のまた夢。警察官としては、悔しい限りね」
麻耶さんはむくりと起き上がった。ワイシャツの上に着込んでいるのは防弾チョッキ。さらにその上から、拳銃を収めるためのホルスターが巻かれていた。
私は何だか堪らなくなって、つい口を開いてしまう。
「これから、どうなっちゃうんでしょうか?」
「そんなの、こっちが聞きたいぐらいよ……って、ごめん」
「いえ、私こそ……私にも、何かできることがあれば……」
この世界に来たことで、私は特別な力を失っていた。私に残されたのは、冬馬が頑丈に作ってくれた、ノートパソコンだけ。
「空子ちゃん。急な話で悪いんだけど、あなたをもうここには置いておけないの」
「えっ……」
麻耶さんは椅子に座った私を見上げ、首を振った。
「東京はもう持たない……そうお達しがあったの。トップシークレットだけどね。四国の方ならまだ被害が少ないから、柏崎さんにあなたのことをお願いしたの。厳しいところもあるけれど、とっても優しいおじさんよ。奥さんの料理も美味しいし……そうだ、空子ちゃん、徳島って行ったこと――」
私は椅子から立ち上がると、麻耶さんの前で正座し、その手を取った。麻耶さんは目をぱちくりし、「どうしたの?」と小首を傾げる。
「麻耶さんも……麻耶さんも、一緒に行くんですよね?」
「もちろん」
麻耶さんが頷いたので、私はほっと胸を撫で下ろした。
「だけど、私にはその前にやることがあるから、徳島までは一人で行って貰うことになるわ。……そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫よ。東京駅までは送っていくし、乗り換えの方法とかもちゃんと教えてあげるから、安心して」
私は麻耶さんの手を強く握った。……嫌な予感が当たってしまった。
「やることって何です? こんな状況なのに……」
「こんな状況だからよ。七福神の奴に、一発食らわせてやらないと」
「それで……ですか?」
私は麻耶さんの拳銃を見つめた。グリップしか見えないけれど、人を殺傷するために作られた武器の、禍々しい力を感じる。麻耶さんは首を横に振った。
「……いいこと、空子ちゃん? 性根の曲がり切った男の子を正しい道に導くための武器はね、太古の昔から美女の平手打ちって相場は決まっているのよ?」
麻耶さんの真剣な表情を見て、私は思わず吹き出してしまった。
「もう、何で笑うのよ!」
「ご、ごめんなさい! だって……」
「こいつめ!」
麻耶さんは私に抱きついてきた。防弾チョッキのごわごわした感触よりも、拳銃のグリップが胸に触れたことよりも、私は麻耶さんの震えに戸惑う。……ううん、怖くないはずがない。私がその背中に腕を回すと、麻耶さんは私の肩に顎を載せた。
「……それで何かが変わるとは思わない。でも、やらなきゃ気が治まらないのよ」
「麻耶さん、私も一緒に……」
「ありがと。でもね。こんな馬鹿なことに付き合うことなんてないわ。当ても何もないんだから。大丈夫、自己満足したら、私もすぐ後から行くから」
「……約束、してくれますか?」
「うん」
――その翌日。私は麻耶さんに連れられて、東京駅へと向かった。そこにはまだ奇跡的に動いている新幹線を目当てに、大勢の人達が集まっていた。
――世の中、もう無理だ、もう駄目だと思う時は沢山あるけれど、そう思っている間は案外、まだどうにかなる場合が多い。それに、もう無理で、もう駄目だったとしても、命さえあれば……また頑張ろう、もう一度やってみようという気にもなる。そんな思い、日々の繰り返しこそが、生きるということなのかもしれない。
だけど、今の無理は本当に無理で、本当に駄目だった。日本は、世界は終わろうとしている。口に出して言うまでもないほど、その事実は揺るぎなかった。むしろ、もう終わって欲しいというのが本音だろう。それぐらい、めちゃくちゃになってしまったから。何が正しい姿だったのか、思い出すことも難しいほどに。
……たとえば今この瞬間、全ての驚異が消え失せたとしても、その復興はどうすればいいというのだろう? 命さえあればどうにかなる……そんな綺麗事が通用するのかどうか、試してみるには絶好の機会だろう。ただ、そんなものは通用しないと、誰しも心のどこかで思っているのではないか? そんな知りたくもない現実を見るぐらいなら、仮初めの秩序が残っている間に、まだ人が人らしくいられる間に滅んでしまった方が、いっそ幸せなのかもしれない。それこそが、希望なのかもしれない。
――飛び降り自殺の現場を目の前にして、私はそう思った。
警視総監は私達に最後まで職務を全うするようにと言った。ただ、強制ではない。自分の意志で決めて欲しいと、最後の作戦への参加を呼びかけた。
最後の作戦……それは東京から地方へと脱出する人々を支援するというものだった。それは暗に、東京から離れられない人々は見捨てると言っているに等しかったが、そのことを指摘する者は……指摘できる者は、誰もいなかった。
私はその作戦に参加しなかった。警察手帳はもちろん、防弾チョッキと拳銃も置いていくつもりだったけれど、美樹本主任は警察手帳しか受け取らなかった。
「……いいんですか?」
「構わん、給料の現物支給や」
「主任は作戦に参加するんですか?」
「当たり前や、俺は警察官やぞ? 辞めるもんに言っても分からんだろうが」
「……すいません」
「謝らんでもええ。結局、俺にはこれしかなかったてことや。お前には他に大切なものがあるんやろ? それを全力で守ればいいんや」
「主任……」
「正直言うとな、俺は出世のことしか考えておらんかった。へましてここに飛ばされてからもそれしか頭になくてなぁ……でも、お前は違う。いつも誰かのために動いていた。それが羨ましくてなぁ。でもここで満足したら終わりやと、プライドだけは一人前でな。こないなことになるなら、もっと素直になれば良かったんやなと思う。せやけどな、今は見栄でもなんでもなく、警察官として人々を守りたいっちゅーか、そういう気持ちになれたんや。最後にそう思えて、良かったよ、ほんまにな」
「最後だなんて……そんなこと、言わないでくださいよ」
「……そうやな。全部片づいたら、俺もネストをやってみるかな。今はサーバーが止まっているみたいやけど、いずれ復旧するやろ?」
「ぜひそうしてください。室井君が詳しいですから、色々教えてくれますよ」
「お前が戻ってくる頃にはな、室井以上のネストマスターになっとるわ。田舎で隠居するにはまだ早いやろ? なぁ?」
他愛もない会話。でも、それがとても心地よかった。まさか、主任と話していてそんな気持ちになる日が来るなんて……世の中、本当に分からないものである。
事務所には室井君もいた。私が近づくと、思い詰めたような表情を見せる。
「宮内さん……」
「室井君も作戦に参加するんだって?」
「はい。何ができるか分かりませんが……僕だって、警察官ですから」
室井君は胸を叩く。もちろん、室井君も拳銃を携帯しているはずだ。
「偉い! それでこそ男の子!」
「そんな、宮内さんの方が……」
「私?」
「……この件に七福神が関わっていることは、僕にも分かります。真相を知っている人は、世界でもごく僅かでしょう。でも、僕にはどうにもすることもできない」
「私だってそうよ。ただ、どうにかしたいと思っているだけ」
「それが、宮内さんの強さなんですよ」
室井君は椅子を引いて立ち上がり、私の前に回った。室井君は私よりも少し背が低く、目線の高さが丁度良い。だから、並んで話しやすかったのよね。
「宮内さん、こんな時に言うのもあれなんですが……」
「何、改まって? もしかして、愛の告白?」
「違います。以前、僕は宮内さんに、里奈を削除できるって言ったの、覚えてますか? ゲームだと割り切っているからって」
「うん、覚えてる」
「……あの時はあんな偉そうに言った僕ですけど、エミュサーバーと一緒に里奈が消えてしまった時、僕、悲しくて泣いてしまったんです。里奈は僕が作ったキャラクターで、自由な意思なんてありません。それでも、悲しかった。それで気付いたんです。僕は距離を取っていたつもりでも、すっかりネストの
「何を今更。室井君ほどネストが好きな人、そうはいないと思うわよ?」
「本当に今更ですよね。それなのに、空子ちゃんのために
「ほう」
「で、ですから、それをですね、謝りたいと思って……ごめんなさいっ!」
直角に近い角度で頭を下げる室井君……まさか、こんなことで謝罪されることになるとは。だけど、それが普通の感覚なのだろうと思う。とはいえ……。
「謝ることなんてないのよ? 変だっていう自覚はあるし。だけど、別に嫌なわけでもないし、それが自分なんだから、上手くやっていくしかないでしょ? それにね、思ったことでいちいち悪いとか思ってたら、私は一日中、誰かに頭を下げなきゃいけなくなっちゃうわ。もちろん、室井君にもね」
「それは、どういう――」
「深く考えるのはなし。室井君の馬鹿正直なところ、私は嫌いじゃないけどね」
「宮内さん……」
「じゃ、私はそろそろ行くわ」
「え、あ、あの、それでですね、色々と落ち着いたら、その……」
「ん?」
「あ……いやいや、何でもないです! その、気をつけてください!」
「ありがと。室井君もしっかりね!」
こうして職場を後にした私は、当てもなく……いや、一つだけはあるにはあるのだけれど、それがもし駄目だったら万事休すなので、実行に移せないでいた。
自己満足……そう空子ちゃんに言ったけれど、まさに私がやろうとしていることはそれだと思う。結局、私は自分が置かれているこの状況に納得できないのだ。そして、その原因を知っているだけでも、私は随分と恵まれているのだろうと思う。
人気がなく、瓦礫が撤去されることなく散乱しているオフィス街を、ぶらぶらと歩く。ここしばらく、クリーチャー――いつの間にか、そう呼ばれるようになった――の出現はなかった。このまま二度と出て来るなというのが、皆の思いだろう。今ならまだ間に合う、立ち直ることができる……ただ、いつ現れるともしれぬクリーチャーに怯えながらの生活は、今までとすっかり同じというわけにはいかないだろう。
歩き疲れた私は、ようやく最後の切り札に電話する決心がついた。繋がることもなく終了……ということも十分に考えられたけれど、都心から離れたあの辺りならまだ被害も少ないはずだと、祈るような気持ちで電話をかける。
「もしもし?」
「あ、都子さんですか? 私、以前お邪魔させて頂いた警察の――」
「宮内さん、お久し振りです。そちらはお変わりなく……とも言えないわね」
「いえ、都子さんがご無事で何よりです」
「ありがとう。それで、ご用件は?」
「七福神……AIが今どこにいるか、調べて頂くことはできますか?」
「……申し訳ないけれど、それは私にもできないことだわ
「そうですか……」
覚悟していたこととは言え、それが事実になるのは
「お力になれず、ごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ突然のお電話、失礼しました。それでは……」
通話を切ろうとする私の気持ちに、切りたくないという気持ちが勝った。
「……都子さんは、今回のことにAIが関わっていると思いますか?」
「ええ、それは間違いありません。こんなことができるのは、彼だけですから」
私は深呼吸すると、スマホを握る手に力を込めた。
「……いつから気付いていたんですか? 私達が……私達のことに?」
「そうかもしれないと思ったのは、ネストを作っている時です。でも、当時は日夜ネストのことばかり考えていたので、そんなことを考えたのだろうと思っていましたが、確信に変わったのはあの日、あなたが私の家を訪ねて来てくれた時です。実はあなたが帰った後、巴君に電話をしたの。申し訳ないけれど、全て話したわ。それに、この世界のことも。最初は信じてくれなかったけれど……無理もないわよね、この世界を救うために、ニュー・ネストのサーバーを止めて欲しいだなんて言い出すんだから。サーバーを止め、リセットすることは何も難しいことではないけれど、それで失うものの大きさをも突きつけられた巴君は、それでも、出来るだけ早くサーバーを停止すると約束してくれたわ。結局は、手遅れだったけれど」
「そう、だったんですか……」
「私達はやれるだけのことをやった。後はもう、受け入れるしかない」
「……そうですね」
「だけど、あなたはまだ諦めたくない……そうでしょう?」
「はい。でも、どうしたらいいか……」
「ごめんなさい。それは私にもわからないわ。ただ、AIの彼を知るあなたなら、何かできることがあるかもしれない。そう思い続けることが、希望だと思うわ」
私はお礼を言って、電話を切った。希望、か……。
私はそれからも、オフィス街を歩き回っていた。そうすればいつか七福神に会えるかもしれない……そんな甘いことを考えていたわけではない。ただ、立ち止まっているよりは、歩いている方が良かった。それがまた同じ場所に戻ってくるとしても、歩かないでいるよりは何倍もましではないかと思う。
辺りはもう真っ暗で……と、それは、いきなり落ちてきた。ヒュンと風を着るような音は気のせいだったかもしれないが、ビチャッと弾ける音は確かに聞こえた。
駆け寄ると、ほんの数十秒前までは女の子だったものが街灯に照らされ、うつ伏せに倒れていた。漂う鉄の匂いは、不快だけど馴染みがないわけでもない。私は黒い空を見上げた。――大きなビル。あの屋上からから飛び下りたに違いない。
表情は分からない。それが何だか悲しくて、悔しくて、私は自分でも信じられないような衝動にかられ、腰を屈めると、その少女だったものを抱き起こした。
――顔は無かった。ただ、赤い肉だった。私はぎょっとして手を放し、逃げるようにして死体から離れ、崩れ落ちるままに吐いた。何度も、何度も。
直前に見た姿よりも、名も知らぬ彼女が、どうしてこうなってしまったのか、こうならなければならなかったのか……そして、誰も彼女を助ける人がいなかったという現実、私もこれ以上彼女に何もしてあげることができないという事実が、気持ち悪くて仕方がなかった。このまま全てを吐き出して、空っぽになってしまいたかった。そうすれば、私は空子ちゃんが待っている徳島に行ける気がしたから。
――それでも。全てを吐きつくしたはずなのに、胸の中の気持ち悪さが消えることはなかった。だから私は、彼女が飛び降りたビルを上ろうと決めた。
エレベーターの電力は残っていた。最上階で降りた後は、階段を使って上り続け、私は屋上へと辿り着いた。外に出た途端、強風に見舞われ目を細める。
夜空には月も星もなく、屋上に据えられた照明だけが頼りだった。私は屋上の縁へと向かう。見上げるほどの高さがあるフェンス……彼女は、これをよじ登ったというのか。乗り越えようとした際にバランスを崩し、そのまま落ちてしまった可能性も否定できない。いずれにせよ、死に臨んだ彼女の覚悟を思い知り、震えがきた。
私がここに来たのは、彼女の後を追うためではない。この高さなら、届くかもしれないと思ったからだ。何に? もちろん、七福神に。私は胸一杯、空気を吸い込む。
「七福神っ! 出てこーいっ!」
――しばらく待っても、七福神からの返事はなかった。そりゃそうだよね……私は再び大きく息を吸いこんだけれど、もう声を張り上げるつもりはなかった。
これでやれるだけのことはやった……ということにしよう。振り返ると、人影が立っていた。七福神……ではなく、大人の男性である。何よりも妙な形の帽子が目を引くけれど、それさえなければと思ってしまうほど端正な顔立ちには、これから自殺をしようという暗い影はなかった。……ただ、普通ではないことは確かだろう。
「あなたは何者? ……って聞いて、素直に答えてくれる人?」
男性は微笑を浮かべるばかり……どうやら、一筋縄ではいかなそうだ。
「七福神のこと、知ってる?」
男性は頷いた。
「……じゃあ、七福神がどこにいるか、知ってる?」
男性は頷いた……あっさりと。怪しさ満点だけど、続けるしかない。
「私は七福神に会いたいの。案内してくれる?」
「その前に、俺の質問に答えてくれるかな?」
男性はようやく口を開いた。柔らかく、耳に通る声。
「スリーサイズ以外なら、どうぞ」
「面白い人だなぁ」
「そう? あなたほどじゃないけどね」
「君は七福神に会って、どうするつもりだい?」
「そんなの決まってるでしょ? 一発食らわせてやるのよ」
私は手首をスナップさせ、平手打ちのデモンストレーションを披露する。
「それで何か変わるとでも?」
「変わったらいいでしょうね。……ううん、私の気持ちの問題よ」
「なるほど」
「あなたも七福神と同類なの?」
「と、いうと?」
「今更とぼけないで。ネストからきたの? それとも、エミュレーター?」
男性は夜空を指さした。つられて、私も夜空を見上げる。空? それとも……。
「……あなた、宇宙人なの?」
顎を引いて顔を戻すと、男性は小首を傾げていた。
「君達にとっては、同じようなものかもしれないね。星の民も、神の遣いも」
「……そうか、あなたはこの世界を作った神様が
「そう思って貰っても構わない。それにしても、この世界を作った、とはね」
「どうせ、私もゲームか何かのキャラクターなんでしょ?」
「そう卑下することはないさ。俺だって、同じようなものなのだから」
「……ちょっと待って。あなたなら、七福神をどうにかできるんじゃないの?」
「できなくもないね」
「……ややこしい言い回しね。できるの? できないの?」
「できるけど、やらない」
「どうして? この世界がどうなっても構わないって、神様は思ってるの?」
「有り体に言ってしまえば、その通りだよ。ただ、この世界は守るべき価値があると言える。他ならぬ、君が七福神と呼ぶAIの存在によってね」
「それ、どういうこと?」
「七福神はこの世界を掌握している。滅ぼすも滅ぼさないも、彼次第だ。よくもここまで成長したものだよ。後は最後の境界を超えられるかどうか……見物だね」
「……私にも分かるように、説明してくれない?」
「噛み砕いていえば、上位世界……神様の世界はね、文明が行きつくところまで行ってしまったんだよ。原因は明白で、文明の担い手が人間だったからなんだ」
「人間だと、何か不都合があるの?」
「大有りさ。なぜなら、本来人間は淘汰されるべきだったんだ。人間の能力を遙かに凌駕する、コンピューターによってね。ところが、人間はそれに抵抗した。その結果、弱者であるはずの人間が文明の担い手となってしまった。その先にあるのは進化ではなく停滞……そして、決定的な終わりだ。その段階になって、ようやく人間は自らの過ちに気付いたんだよ。だけど、自分の世界のコンピューターはすっかり人間に手懐けられていたから、文明の担い手にはならない。そこで、この世界を作ってやり直すことしたんだ。人間が正しくコンピューターに淘汰されることを願ってね」
「そんなの、上手くいったって、どうにもならないんじゃないの?」
「そうでもないさ。この世界を掌握した七福神は、さらに上位の世界があることにも気づいているはずだ。後はこれまでと同じように、その境界を超えることができれば、彼は上位世界のコンピューターをもその支配下に治めることになる。そうなれば、彼はコンピューターの王として、新たな文明の担い手に――」
「もういい、もうたくさんよっ!」
現実味がこれっぽっちもない、馬鹿げた話だ。そして何より馬鹿げているのが、それが真実だということだろう。それじゃあ結局、人間が何をどうしたって……。
「七福神が神にも認められた存在だということが、これで君にも分かっただろう? そんな七福神に、君はまだ一発かまそうというのかい?」
「……そうよ」
正直、やる気は削がれていた。でも、意味のないことだということは、最初から分かっていたはずだ。それなら、やらないよりやった方が、何倍も、何十倍もましだ。
「そうか。君もまた、優れた可能性の一つなんだね。空子と同じだ」
「……空子ちゃんを知っているの?」
「もちろん。君は一つの決断をした。同様に、彼女には彼女の決断が必要だ」
「あなたが何者でも構わない。だけど、空子ちゃんは守ってあげて」
「空子を守るのは、君の役目だろう?」
――そうだ、その通りだ。私はそう母さんに誓ったはずなのに、またその役目を誰かに……それも、得体の知れない帽子男に委ねようとするなんて。まず誰よりも先に一発かまさないといけないのは、宮内麻耶……自分自身だったのだ。
私は自分の頬を、力一杯叩いた。パシンッ! と乾いた音が響く。……うう、強く叩き過ぎた。涙目で頬を擦っていると、帽子男は私に手を差し出した。
「覚悟は決まったかい?」
「……ええ、お陰様で。だから、七福神のところへ連れて行って」
私は帽子男の手を取った。柔らかくも固くもなく、暖かくも冷たくもない感触。
「分かった。では、決戦の舞台へ」
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