第3話 何が俺に起ったか?

 懐かしい匂いがする。


 その懐かしさの正体を探ろうと記憶を辿ると、子供時代のことを思い出した。


 幼馴染のあっくんやケンちゃんと一緒に汗と泥にまみれて公園や山を駆け回ったり、女子に犬のウンコを投げつけてボッコボコに袋叩きにされたりした、疲れ知らずで怖いもの知らずだった、失われし大いなる時代の記憶。


 そうこれは――かつて慣れ親しんだ、土と草の匂いだ。


 匂いの正体に行きつくと同時に、俺は目を覚ました。


 開いた目に飛び込んできたのは一面の青空だ。俺は、地面に大の字で寝転がっていた。背中に地面のざらつきを感じる。ぽつんと浮かんでいるお日様が俺の体の表面をじりじりと照らしているが、さほど暑くは無かった。日本で言えば五月くらいの気温だろうか。


 上体を起こして周囲に目をやる。見えるのは草、草、草……そしてわずかな木々だけ。いつかテレビで見たスコットランドだかアイルランドだかの草原に似ている気がする。


「……どこだ、ここ……」


 思わずぽつりと呟く。いや、転送されてここに来たのだから異世界なのだろうということは一応分かっているが……本当に草と木しかない。それ以外には、遥か前方に小高い山みたいなのがあるだけだ。


 目を細めて山の様子を見てみると、斜面にごろりといくつかの岩が転がっているのが見えた。ハハハ、良かった、草と木以外にも岩があったよ……と、そこでふと疑問がわいた。


 俺、こんなに視力良かったっけか?


 再び目を凝らし、山に転がっている岩を観察する。じっと見つめていると、岩の表面のざらつき具合まではっきりと見て取れた。これは……マサイ族もびっくり仰天の視力な気がする。そのまま空を見上げてみると、遥か上空を小さな影が飛行しているのが見え、「お、鳥さんかな?」と思わず頬が緩む。


 しかし、そのまま小さな影を凝視していると段々と細部が鮮明になっていき――それは鳥などでは無く、翼の生えたトカゲのような生物、つまり「ドラゴン」である事がばっちりと見て取れた。顔が引きつるのを感じながらも、まぁ実質鳥みたいなもんだよな、誤差だよな、と自分に言い聞かせて目線を下に戻した。


 こりゃ一体どういうことだろう、と考えていると、エルカさんが言っていた「強靭な肉体」という言葉を思い出した。もしかしたら、このすんごい視力は「強靭な肉体」になった結果かもしれない。となると、視力以外にも聴力とか嗅覚も良くなってて、ひょっとしたらコウモリやイルカみたいにエコーロケーションとかも出来るかもしれないぞ!?


 ちょっとワクワクしてきた俺は、とりあえずその場で耳を澄ましてみる。おお、はっきりと聞こえるぞ、これは――


 さわ……さわ……


 うん、草が風になびく音しかしませんね。


 少なくとも近くに動いている生き物はいなさそうだ、ということは分かったな。気を取り直して、お次は鼻をくんくんとさせてみる。おお、かなりはっきりと匂うぞ。これは――


 うん、土と草の匂いだけですね。


 少なくとも近くに潜んでいる生き物もいなさそうだ、ということも分かったぞ。先ほどより更に進展したな!


 ……俺は最後の望みをかけ、がばっと両腕を広げてなんか超音波が出せそうな良い感じのポーズを取った。さあ、超音波よ、周りの状況を教えておくれ――!


 うん、何も感じないですね。


 どうやら俺の体から超音波は出ていないようだった。ひょっとしたらそういう魔法を使うことが出来るのかもしれないが、エルカさんに魔法の使い方を一切教わっていないので使いたくても使えない、という悲しい状況である。


 と、そうだよ。エルカさんだよ。


 溜まってる仕事が落ち着いたら様子を見ると言っていたし、こちらから何かアクションを起こせば気づいてもらえるかもしれないじゃないか。俺はそう思って立ち上がり、空の方へ向かって大声で叫んでみた。


「エルカさーん! 聞こえますかーっ!? もし聞こえてたら、さっき鼻かんで捨てたティッシュみたいなやつこっちに送るか何かして反応くださーい!」


 しばし、反応を待ってみる。


 だがティッシュのようなものが送られてくる気配もなく、相も変わらずそよぐ風に、草がさあっと気持ちよさそうに揺られているだけであった。そうだ、念のため「アレ」もやっておくか。


「『エルカさんは出来る』――ッ!」


 ついでにもう一丁!


「お前の父ちゃんコネ魔神――――――ッ!!」


 これは流石にちょっと言いすぎたかなと思い、叫び終えると同時にさっと頭を抱えてしゃがみ込んだ。びくびくしながら周囲の様子を伺う。


 しかし何も起こる気配は無く、ほっと胸を撫で下ろした。うん、全く聞こえてないっぽいですね、良かった良かった……って駄目じゃん! 気づいてもらえないじゃん!


 流石に少し血の気が引く。人里がどの方角にあるかもわからないし、肉体が強靭になってるっぽいとはいえ、飲まず食わずで当てもなくさまようのはリスクが大きすぎる。かといって、この原っぱのど真ん中で突っ立っていても状況は好転しないのも確かだ。


 どうしたものかと立ち尽くしていると、そういえば後方をちゃんと見てなかったなと気づき、振り向いてみる。すると、少し離れた所に小屋のような物があることに気が付いた。おお、小屋! ということは人が住んでいるかも。地獄に仏とは正にこの事か!


 俺は大急ぎで駆け出そうとしたところで、あれ、待てよ、とはたと足を止めた。


 人どころか動物すらいない原っぱのど真ん中に、小屋。


 ひょっとすると、もしかすると、これって……物凄く、不自然なのではなかろうか?


 空き家の可能性がかなり高いし、それどころかエルカさんの言っていた鬼だとか妖怪の家だとしたら――「おやまぁ良く来たオニねぇ」「なんでこんな所に住んでいるんですか?」「それはオニねぇ……お前みたいな間抜けを食べるためオニ!」「ヒャーお助けー!」――なんてことになってしまうのでは……。


 うう~ん、とその場で固まって悩んでいたが、結局、俺は小屋の方へ向かって走り出した。どの道、他に選択肢は無いしな。出来れば超善人の大魔法使いとかが住んでて、「おやまぁ、お困りかネ。ひとまず羊羹とお茶でもいかがかな、ホーッホッホォッーッ!」って感じでにこやかに出迎えてくれれば最高なんだけどなぁ。まぁこの世界に羊羹は無いんだけど。


 そんなことを考えていると、あっという間に小屋の前にまで辿り着いた。改めて近くでじっくり見てみると思ったよりもしっかりした作りで、小屋というよりちょっとしたログハウスという感じだ。妙に手入れが行き届いて小奇麗にされており、不安が募る。


 とりあえず忍び足で正面の扉に近づき、そっと耳を当てて中の音を探ってみるが、中からは何の物音も聞こえなかった。良かった、妖怪の類はいないようだ……人もいないってことになるが。


 嬉しいような悲しいような気持ちになりつつも、一応、扉をノックしつつ「この中に人間、もしくは人間以外の方はいらっしゃいますか~?」と尋ねてみた。エルカさんの言っていた翻訳機能が働いているなら言葉も通じるはずだが、返事は無かった。ということは……うん、誰もいないね。


 そして恐る恐る扉に手をやってみると、施錠されていなかったようで、ぎいっと音を立てて扉が奥へと少し開いた。うわっ、開いちゃったよ……どうしよ……。


 俺は覚悟を決め、恐怖を紛らわすために「本当にどなたもいらっしゃいませんよね~? ちなみに俺はこちらの世界に存在しない羊羹ってものばかり食べてたので、多分美味しくありませんよ~……あ、でも羊羹は美味しいんでそこは勘違いしないで下さい」とべらべら喋りながらゆっくりと扉を開け放ち、中を覗き込んだ。


 扉から差し込んだ光が内部を照らし出す。広さは十畳か十二畳ほどだろうか。部屋の真ん中には木で出来た長方形の机が一つと、机を挟む形で椅子が左右に一つずつ置かれていた。机と椅子以外には何も無い、随分と殺風景な内装だ。


 更にきょろきょろと中を観察すると、壁に少し様子が違う部分があることに気づく。突き上げ窓か何かかなと思い、ぎしりぎしりと足を踏み入れて近づいていく。


 と、そこで机の向こう側に何かが置いてあることに気がついた。入口からだと机に隠れて見えなかったみたいだ。生き物じゃない……よな? 近付きつつじっと見てみると、それは人間でも、ましてや妖怪でもなかった。そう、それは――俺の布団だった。


「……は?」


 予期せぬ事態に、素っ頓狂な声が漏れてしまう。びびりまくっていた事も忘れ、すたすたと布団に近づいて確認する。


 この染みは――間違いない。これは、俺が布団に横になって漫画の『ダブルピース』を読みながら羊羹とお茶を楽しんでいたら、誤ってお茶をこぼしてついちゃった染みだ。枕も手に取って確かめてみるが、愛用の枕に違いなかった。ちなみに枕についてる染みは水羊羹を落としてついちゃったやつ……改めて見るとかなり汚いな、俺の布団。


 果たしてこれはエルカさんがここに置いてくれたのだろうか? と考えていると、布団の上に紙きれのようなものが置かれていることに気が付いた。まさかと思い、慌てて手に取ってみると、紙には「牧野さんへ」と書きつけられていた。間違いない、エルカさんからの手紙だ。俺はそのまま手紙の内容を目で追っていった。


――牧野さんへ。

 これを読まれているということは、もう転生は済んだ、ということでしょう。

 老後は田舎で一人暮らしをしながら畑を耕したかった、と仰っていたので、ささやかながら農耕に適した土地と、雨風をしのげる建物を用意しておきました。

 建物の外観はシンプルですが、温度や湿度を一定に保つ魔法がかかっているので中はきっと快適だと思います。牧野さんの着ている服にも汚れが付きにくくなる魔法をかけておきます。

 また、羊羹の材料を異世界に持ち込む事は出来ませんでしたが、布団は持ち込み大丈夫だったので、牧野さんが使っていた布団と枕も一緒に送り込んでおきますね。

 牧野さんのデータに「枕が変わると寝付きが悪くなる」とありましたので、無いとお困りになるでしょう?

 汚れを綺麗に落とすことも出来ましたが、思い入れがあるかもしれないので止めておきます――


 エ、エルカさん……あんたって神様は、なんちゅうええ神さんなんや……。


 エルカさんの温かい心遣いに、思わず涙で目がにじんだ。さっきまで野原のど真ん中で一人心細く、子猫のようにびくびく震えていたのが嘘のようだ。布団の汚れは落としてくれても良かったけど。


 手の甲で涙をぬぐいつつ、手紙の続きを読もうと目を落とすが――文章はそこでお終いだった。


 あれれ、おかしいぞ? てっきり羊羹の出し方とか魔法の出し方も書いてくれてると思ったんだけど……あ、そうか裏面に書いてあるのかもな。そう思って手紙をひっくり返してみると、予想通り何かが書きつけられていた。良かった、やっぱり裏面に書かれてたかと安心し、読んでみる。


――なお情報保護の観点から、このメッセージは読了後に自動的に消滅します――


 えっ、消滅って――と思ったのと同時に、手紙が端の方からさらさらと粒子になり始めた。「ちょっ! 待って待って!」と喚きながら、粒子を必死に掴もうとするが、抵抗も虚しく粒子はするすると手から抜け出して行き、間もなく手紙は完全に無へと還ってしまった。


 俺は両手を何もない空間へ突き出した格好のまま、ぽかんとした顔でしばし立ち尽くしていた。それから、ぽつりと呟く。


「……は、ハイテクやね……ハ、ハハハ……」


 手紙と一緒に希望も消え去ってしまった俺は、乾いた笑いを漏らすのが精いっぱいだった。

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