第1話 ことの次第

 ふわふわとした浮遊感の中、ぼんやりと意識が覚醒した。頬から冷たい地面の感覚が伝わる。どうやら俺はうつ伏せで横たわっているようだ。まだ頭にもやがかかったような感じがするものの、同時にすうっと澄んだような感覚もしていた。


 ああ、眠ってしまっていたのか。それも、かなり。


 ここ最近は忙しくて睡眠が十分に取れず、疲れが抜けていないことが当たり前だったのだが、今回は違った。頭の奥に感じる鈍い痛みのようなものは、眠りすぎてしまったからだろう。


 どうせなら、もっと眠っていたい――そう思って瞼を閉じたまま体勢を変え、もう一度眠れないものかと試みるが、意思に反して頭はどんどんクリアになっていく。


 ああ、これはもう目が冴えちゃうパターンだな、と思ったところではたと気がついた。待てよ、こんなにぐっすり眠っていたということは……?


「だああああああああ――ッ! 寝過ごしたあああああああああ――ッ!!」

「きゃあっ!」


 やらかしたという焦燥感と共に飛び跳ねるように体を起こすと、近くから聞き覚えの無い女性の叫び声が上がった。「え、誰!?」と一瞬焦ったが、そういえば会社の仮眠室で眠ったはずなので、他の社員も仮眠中だったか、と思い至る。


 眠ってる中、こんなでっかい叫び声を聞いたらそりゃあビックリするよな。急いで謝ろうと、俺は女性の声がした方へ向き直って口を開いた。


「す、すみません! 他の方もいるとは気づか――」


 そこで言葉が一度途切れ、少し間が空いてから消え入るような声で「……なくて……」と続けた。言葉が途切れてしまったのは、向き直った先にいた女性が予想とあまりにも違っていたからだ。


 その女性は、少し離れたところでふわりと宙に浮いていたのだ。


 いや、宙に浮いているのも驚きなのだが、服装もスーツなどではなくギリシア人だかが着ていそうな、白い一枚布のゆったりとしたワンピースのような服を身に着けていた。髪は透き通るような真紅のロングヘアで、先の方を布で束ねてゆったりと体の正面側に回しており、目の色も髪と同じく綺麗なルビー色だ。宙に浮いているので正確には分からないが、背丈は160センチほどだろうか。


 女優のような整った顔立ちに困惑を浮かべ、あわあわと動揺しながら俺の方を見つめている。絶叫しながら飛び起きたと思ったら、次の瞬間には俺が固まって黙り込んでしまったので戸惑っているのだろうか。


 と、とにかく何か言葉を続けなければ、と思ったところで更なる違和感に気付く。女性の背後が――いや、背後どころでなく、周囲全てが真っ暗闇に包まれていた。自分と女性のいる周辺だけが、不思議とぼんやりと明るくなっている。


「え、あれっ!? か、仮眠室じゃない!? どこだここ!?」


 戸惑いの声を上げてキョロキョロとしていると、女性がハッとした表情になり、「お、おっほん!」とわざとらしい大きな咳をした。そして端正な顔をより一層きりりとさせ、言葉を続けた。


「お前はもう、死んでいますッ!!」


 一発決めてやったぜ、という顔で俺をビシッと指差し、高らかに宣言をする女性。そして――


「……は!? し、死んだ!? は、え、いつどこで!? 何時何分何秒何曜日地球が何回回った時!?」


 と、突然の死の宣告でパニックを起こす俺。


 え、ということはここは天国なのか? それとも真っ暗だから地獄!? 真面目に生きてきたのに!?


「あああああアアアアア――ッ! 話の順番間違えましたああああああああ!!」


 女性はキメていた顔が瞬く間に崩れ、あわわわと情けない表情になり、腕をぶんぶんと振り回しながらも「え、えっとですね!」と話を続けようとする。


「死因は疲労と偏食と睡眠不足で仲の良い上司は杉下さんでお酒が飲めなくて心臓がびくんびくんッて感じで、したがって漫画と甘い物が好きで仲の良い後輩は吉田さんで杉下さんは臭いがきついですよね? 名前は牧野新太郎まきのしんたろうさんで、特典が抽選で寝付きが悪く転生出来ます!」


 女性はもはや動揺を通り越し、わった目をしてゼェゼェと息を切らしながら必死に言葉を続けていたが、喋っている内容は支離滅裂だった。その女性はまだ諦めずに言葉を続けるそぶりを見せたが、俺は黙って見ていられず言葉を遮って「お、落ち着いてください! とりあえず深呼吸しましょう深呼吸!」となだめた。


「しっ、深呼吸ですか? すーっ! すーっ! すーっ! すうげへぇッ! ごほオッ! オッ、オエエッ!」

「いや吸いすぎでしょ!? 吸ったら吐いて! グゥーッと構えて腰をガッとして、後はバァッといってガシャーンと出すイメージで!」

「すーっ! はーっ! すーっ! はーっ!」

「そう! いいよいいよそのシャープが鋭い感じ! 君、センスあるね!」

「そ、そうですか? そんなに?」

「百年に一度の逸材かもしんないよ!」


 互いに混乱しているせいか訳の分からないテンションになりつつも、女性は「え、えへへ!」と笑みを浮かべ、「すぅー……はぁー……」とゆっくり深呼吸を続けていた。


 うんうん、これが心と心の交流、コミュニケーションというものだ。出会ったばかりだが、女性との間に確かな絆が芽生え始めているのを感じた。


 それからしばし女性が深呼吸する様を見守っていたが、落ち着いたであろう頃合いを見計らって俺は再び女性に声をかけた。


「……そろそろ落ち着きましたか?」

「は、はい、おかげ様で……みっともないところをお見せして申し訳ないです……びっくりするとすぐ混乱しちゃう性質たちでして……両親にも昔から『どうにかした方がいい』って言われてるんですけど、言われてもすぐに治るようなものでもないですしね……」


 たはは、と苦笑いする女性は先ほどよりも緊張が取れているようだった。そして、「そ、それでは改めまして」と背筋をぴんと伸ばして話し始めた。


「ええと、初めまして、牧野新太郎さん。私の名前はエルカ・リリカ。エルカと呼んでください。この空間で、転生する方の案内を担当している神です」

「……転生、ということは……やっぱり俺は死んだ、んですね……」


 語気の弱くなる俺を見て、女性の神様――エルカさんは少し悲しげな顔をしたものの、先ほどとは違って大きく動揺することはなく言葉を続けた。


「はい……死因は心臓発作です。疲労や睡眠不足によるストレスに、偏食や運動不足が合わさって、という感じです」

「あ、仮眠室なんかで死んじゃったということは騒ぎになってるんじゃ……」

「その辺は適切にさくっと事後処理しましたのでご安心を!」

「そ、そうですか。それなら良いんですが……」


 「さくっと事後処理」って言い方がなんか妙に軽くて気にはなるが、ひと先ずは安心だな。死んでるのを誰かに発見されて「牧野、仮眠室で永眠してるってよ」なんて言われたら困るしな。


「ご両親にも異世界で新たな生を受ける旨、及び『転生者遺族給付金』を継続して支給させていただく旨をお伝えした所、大変お喜びになられてましたよ! 特にお父様は『宝くじにでも当たった気分だ!』と小躍りまでなされて……」

「あ、あの糞親父ッ!」


 いかにもあの親父が言いそうな事なので、俺は思わず言葉を荒げてしまった。いくら俺が完全に死んでるわけじゃないとはいっても、「宝くじ」はねぇだろ「宝くじ」は!


 俺の苛立ちを感じ取ったのか、エルカさんはまた少し慌てていたが、


「しっ、しかしっ! 牧野さんは運が良いですよ!!」


 と、再びビシッと俺の方を指差し、顔を「キリッ!」とキメた。


「まぁ運が良いって言っても死んじゃってますけどね、俺! ハッハッハ!」

「うぐぅっ!」


 しかしエルカさんは俺の鋭い突っ込みでまた喋るのを止め、顔を赤らめながらプルプルと空中で震え始めてしまった。あらま、神様なのに打たれ弱いのな、この人。これは俺がしっかりとフォローしてあげなきゃな。


「ああっ、すみません! 話の腰を折っちゃって……どうぞどうぞ、俺に構わず話を続けてください」

「は、はい……ええっと、運が良いってのはなんていうか、相対的にって話であって、厳正なる審査の結果、これもまぁ恣意的なものといえばそうなんですけど、とにかく、牧野さんは特典つきで異世界に転生できることになったんですよ!」

「あれっ、さっきはなんか抽選って……あっ、何でもないので続けて続けて! まだいけますよ!」

「……抽選もしましたけど、ちゃんと私が審査もしたんですよ? 邪悪な魂の人が紛れ込んだらいけませんからね。牧野さんは審査を通過しましたから、清く正しい魂をお持ちってことなんですよ!」

「ああ~、なるほど。もしかしてストレスが溜まっちゃったのも、清く正しい魂を持ってたから頼み事を断り切れず、引き受けすぎてってことなんですかね……?」

「うぐぐぅっ!」


 エルカさんがまたまた言葉を詰まらせる。やばいぞ、フォローしてあげるつもりがなんだか反応が素直だから楽しくなってきちゃった。いじり甲斐があるっていうか。


 エルカさんはプルプル震えながら沈黙していたが、無理矢理に引きつった笑顔を作ると「そ、それで、ですね!」と話を再開した。おおっ、今度は一人で持ち直したぞ。短い時間ながら成長が見て取れるなぁ。


「て、転生先は剣と魔法と冒険と素敵な何かが入り乱れた奇妙奇天烈ハイカラな一大スペクタクルミラクルファンタジーの世界です! ドラゴンだとか妖精だとかヴァンパイアみたいな西洋のモンスターだけじゃなく、日本の鬼とか河童みたいな妖怪っぽいのもいるんですよ! ねっ、ねっ、男の方ってこういうの好きでしょう? 盛り上がってきましたか!?」


 エルカさんがぐいっと身を乗り出しつつ俺の同意を求める。「奇妙奇天烈ハイカラ」だの「スペクタクルミラクル」だのという修飾語のセンスはどうかと思うが、確かに剣や魔法やドラゴンという言葉には興味を惹かれる。昔はその手のゲームもやっていたなぁ。


「ほほう、ファンタジー世界ですか……あ、でもドラゴンやらがいるんじゃ、もし襲われたらまたコロッと死んでしまうんじゃ? それと、獣人みたいな人間以外の種族もいるんですか? その世界での言語は? 日本語以外だと英語と中国語をちょっとかじってるくらいなんですけど……あ、その辺は『特典』ってのでなんとかしてくれるってことなんですかね?」

「いやいや大丈夫ですよ、獣人とかもいますが翻訳機能は基本セットに含まれてますし、転生先の世界でさっくり死んじゃわないくらいには強靭な肉体も込み込みです。特典というのはそれらとは別に、転生するにあたって牧野さんの要望を出来る範囲で叶えてあげようということなんです! いえーい!」

「お、おおっ?」


 半ば無理やりテンションを上げているようにも見えるが、「いえーい!」の部分でハイタッチを求めてきたので、ついつられてパチンと軽快にハイタッチを交わした。


 エルカさんは「出来る範囲で」というが、そもそも転生まで出来ちゃうということは、その「出来る範囲」とやらはかなり期待できるのではないだろうか? これは胸が高まって来たぞ。


 俺がにわかにテンションが高くなってきているのを感じ取ったのか、エルカさんも元気を取り戻し、ふんふんと興奮しながら話を続けた。


「さぁ、お望みをどうぞ! 甘い物がお好きなようですから、王侯貴族や大商人として転生して甘い物に囲まれて暮らすとか、大果樹園の所有者とかいうのはどうです? 転生先の世界だと甘い物は結構貴重ですけど、こういう立場なら手に入りやすいでしょう。あ、でもそうなると糖尿病が心配ですから、病気と無縁の体もセットで――」

「いや、甘い物は別に好きじゃないですよ」


 俺は、調子良く喋っていたエルカさんの言葉をすぱりと分断した。


「え? え? で、でも羊羹ばかり食べてましたよね?」


 調子を挫かれたエルカさんは戸惑いながら手元を見て、指をスイスイと空中で動かしながら、「ほら、データにもそうありますし……」と呟いた。こちらからは何も無いように見えるが、どうやらタブレット端末的な物がそこにあるらしい。


「ええ、羊羹は好きですよ」

「え、やっぱり、じゃあ甘いものが好きってことで――」

「違います! 羊羹が好きだからって甘い物が好きだと一方的に決めつけないでくださいッ!」

「ひいぃッ!」


 思わず語気を荒げてしまい、エルカさんが小さく悲鳴を上げる。あっ、いかん、またやってしまった。後輩の吉田にも『先輩って羊羹のことになると人変わりますよね~(笑) 正直、周りはドン引きっすよ~(笑笑) 直で言うと怖いし面倒なんでメールで失礼しま~す(爆笑)』という具合に再三注意されていたというのに。


「す、すみません。昔から『牧野君って確か甘い物好きだったよね?』と好きでもない甘いスイーツを送られ、その都度『お返しどうしよう……』と悩まされた記憶があるもので……送ってくださるご厚意はありがたいことなんですけどね……」

「は、はぁ……い、いや、私の方こそ申し訳ありません! 神でありながら偏見を持って勝手に決めつけてしまうとは……今後はこのようなことは無いよう、細心の注意を払います!」


 へこたれずにふんふんとまた張り切っているエルカさん。さっきまでちょっとからかって楽しくなっていた自分が恥ずかしくなってくる。あんた、ほんまええ神様やで……。


「……あっ、そうだ、転生の特典を何にしたいか思いつきましたよ!」

「おおっ! なんですか? なんですか?」


 ずい、と期待に目を輝かせながら身を乗り出すエルカさん。そんなエルカさんに対し、俺は爽やかな笑みを浮かべつつ、胸を張って要望を告げた。


法久須堂ほうくすどうの羊羹をポンと生み出せるようにしてください!」

「えっ」


 ぴたりとエルカさんが固まったような気がするが、俺はあふれ出るパッションを止める事が出来ず、そのまま話し続けた。


「いやあ~、休みの日は勿論のこと、普段から出来る限り時間を作って、寝る間も惜しんで羊羹の食べ歩きに費やしてたんですけどね、比較的近所にある『法久須堂』っていう店の羊羹がこれまた素晴らしく絶品でしてね! 食べ歩き出来ない時は買い溜めしてあるそこの羊羹ばかり食べてたんですよ! あっ、聞きたい事は分かりますよ? 『それだけ羊羹が好きなら自分で作ったりはしないの?』と思ったでしょう? いやね、たま~に聞かれるんですけどね、なんていうか、それは冒涜っていうか、自分は羊羹を作る事を生業にしていないのに、本業の人を差し置いて作るっていうのはなんか違うというか……あ、でも老後になったら貯めたお金で田舎に移住して、畑でも耕しながら気が向いたら羊羹を作るのも良いかもな~、上手く作れるようになったら売りに出してもいいかもな~、なんて思ったことはありますよ! まぁその前に死んじゃったんですけどね! て、あっ、すみません、転生先でそういう生活を送れるかもしれないと思うとつい興奮しちゃって――」

「……せん」


 身じろぎ一つせず俺の羊羹トークを聞き入っていたエルカさんがぼそぼそと何かを喋ったが、あまりに小さい声で聞き取ることが出来ず、俺は咄嗟に「えっ、何ですか?」と聞き返した。


「……つ……ません」

「はい?」

「……つくれません」


 耳から入った「つくれません」という言葉が、俺の脳内で「ツクレマセン」と変換され、少し間を置いてから「作れません」という言葉と合致する。


 え――作れない? 何が?


 間の抜けた顔をしていると、エルカさんが伏し目がちにまたぼそりと呟いた。


「……羊羹は、作れません」


 ヨウカンハ、ツクレマセン。


 ……『羊羹は、作れません』?


「ええ――――――――――――――――――――――――――ッ!? なんでですか! なんでですか!? 嘘ですよね!? あっそうか『法久須堂』のがダメってことですか?! じゃあ一般的な羊羹でも構わないですよ!!」

「一般的な羊羹も、作れませんッ!!」


 俺の追及を払いのけるかのように、エルカさんは半ば自棄やけ気味な感じに叫び返した。俺は先ほどまでの滝だって登っちゃえそうな気分から一転して、ガラガラと足元が崩れ落ちるような感覚になる。


 一般的な羊羹も作れない? 嘘だろ? そんな理不尽なことが許されるのか?


「エルカさん神様なんですよね!? なのになんで羊羹作れないんですか!? 神様なんですよね!? あ、羊羹職人が神様に劣ってるって意味じゃなくてですね」

「それは分かってます! ただ! 転生先の世界には! 羊羹が無いんです!!」


 ……羊羹が無い?


 そりゃ別の世界に行くわけだから、そういうこともあるだろう。しかし羊羹の材料は割とシンプルだし、神様ともなればそれくらいなんとかなるのではないか、と疑問が浮かび、口に出そうとした瞬間、それをエルカさんが手で制して言葉を続けた。


「物を無から作り出す『創造魔法』ってのはあるんですよ? でも通常は複数人で行う、かなり高等な魔法でして……ましてや向こうの世界に無い『羊羹』をピンポイントで作り出す『羊羹創造魔法』なんてのが……あると思いますか?」

「そ、それは……神様のスーパーウルトラハイパーゴッドパワーでこうなんとかミラクルマジックを……」

「残念ながら、私に出来るのは既存の魔法を授けることまでです……存在しない『羊羹創造魔法』を授けることは出来ないんです……」


 非情な宣告を突き付けられ、俺は体中からさあっと血の気が引いていくのを感じた。目の焦点がぶれ、視界がぐにゃりと揺らぐ。


「お、終わった……何もかも……俺の老後の夢……農場……田舎で一人暮らし……羊羹販売……」


 俺は余りのショックに涙を流す事すら忘れ、その場にがっくりと膝をついて茫然とうな垂れた。その様子を見ていたエルカさんは、アワアワとしながらも必死に話を続ける。


「あっ、で、でもほらレシピなら持ち込めるかもしれません! 小豆や天草といった羊羹の材料を異世界に持ち込む事は今回の転生では許可されてないんですが……転生先にも羊羹の材料に比較的近い物はありますから、それらを育てるのに役立つ魔法を覚えるなんてどうですか? 天候を操る魔法とか、水や土の魔法とか――」

「似た物じゃダメなんです……それは羊羹じゃないんです……もどきなんです……それに出来れば法久須堂のがいい……」

「うぐぐぐっ!」


 頑張って俺を慰めようとしてくれているのは分かるのだが、羊羹のことになると妥協出来ない俺はうな垂れたまま、ぽつりぽつりと言葉を続ける。


「すみません、俺の我儘ですよね……いくら神様とは言え、崇高で高貴な黒いダイヤである『羊羹』をどうにかしようって考えがそもそも間違ってるってことなのかも……」

「う、うう……」

「無理言ってすみません……神様にだって、無理なことくらいありますよね……」

「……む……り……」

「諦めて平和な国の貴族にでもしてもらって、のんびり領地経営しながら小さな畑でも作って暮らすってのも悪くないのかもしれませんね……ハハッ……」

「…………………………」


 と、そこでエルカさんの反応が全く無いことに気づき、しまった、言い過ぎたか、と慌てて謝罪しようと顔を上げようとすると――


「無理じゃなァア――――――――――――――――――――――――イッ!!」


 突然、エルカさんが大声で吠えた。


 驚いた俺は「どわぁっ!」ともんどり打って倒れ、尻を強く打ち付けてしまう。ずきずきと鈍い痛みを感じ、手でさすろうかと思ったところで、空間がびしびしと震え、肌が焦げるような感覚がし始めたことに気が付いた。


 慌ててエルカさんを見上げると、体の周りからは赤黒いもやのようなものが立ち込め、双眸はギラリと赤い光を発しながらこちらを見据えており、地獄の王がいたならこんな感じだろうかと思わせるような恐ろしい形相であった。その余りの豹変具合に呆気に取られる。


「え、エルカ、さん……?」

「なんでパパやママはすぐ『エルカには無理』っていうんですか!? 私は出来るって言ってるのに! 言ってるのにっ!!」

「ひいいっ!」


 エルカさんが叫ぶのに連動して、赤黒い靄がぼうっと炎のように勢い良く立ち上がった。その赤黒い靄が更にメラメラと大きくなってこちらに迫ると、熱さというよりも底の知れない寒気を感じる。つい先ほどまで俺とにこやかに談笑していたエルカさんが、実際の所は「神」という自分より遥か高みの存在であるということを嫌でも実感させられた。


 てかこの人、今、パパママって言った? もしかして地雷踏み抜いちゃった?


「この仕事だって頑張って勉強して、頑張って頑張って試験に合格していざ面接ってなって、パパやママに『絶対に口利きしないでよ? 絶対だからねっ?』って念押ししても『どうせコネコネ言われるんだし口利きしてもいいんじゃないの?』って無神経なこと言うし、受かったら受かったで結局周りはコネだコネだって言うし……」


 赤黒い靄を体から放ち続けたまま、ブツブツとコネコネ呟いているエルカさん。あんたも結構苦労してたんだね……と親近感を覚えつつも、体のピリピリがちょっと洒落にならないことになってきているので、赤黒い靄を鎮めてもらおうと俺は立ち上がりながら恐る恐る話しかけた。


「あ、あのう……ちょっと考えたんですけど、さっきの天候とか水とか土の魔法でも良いかなぁって……いや、妥協とか諦めっていうんじゃなくて、なんていうか、俺が『羊羹だ~』って思えばそれが羊羹なんだ~っていう感じというかですね……」

「うるさいッ! 気が散るからちょっと黙っててくださいッ!!」

「はひぃっ!」


 取り付く島もないまま、エルカさんが叫ぶのと同時にゴオッと激しく燃え上がった赤黒い靄に押されるようにして俺は再び尻もちをついた。空間を占める圧力は更に強くなっており、もはや立つことすら難しいだろう。


 首筋につうっと冷汗が流れる。やっぱり全然運良く無いと思うんですけど……。


 どうしたものかと必死に考えていると、俯いて黙っていたエルカさんが「……ります」と何かを呟くのが聞こえた。尻もちの体勢のまま、なんとか「えっ、な、なんですか?」と聞き返す。


「……『羊羹創造魔法』、作りますッ!!」

「え、ええ!? でもさっき魔法を作るのは」


 無理だって――と言いかけ、慌てて口をつぐんだ。この状況から更に地雷を踏み抜こうもんなら、本当に跡形もなく消し飛んじゃうかもしれない。ひょっとしたら髪の毛はもう赤黒い靄にやられてチリチリになっちゃってるかも。自分では見れないし、靄の圧で身動きが取れないから確認の仕様が無いが。


 急に押し黙った形になったが、エルカさんは気にせずにそのまま言葉を続けた。


「正確には作るんじゃなく既存の魔法を組み合わせるって感じです。生み出すんじゃなくて、くっ付けるだけ。応用ですね。うふ、実はこういうの得意なんですよ。手持ちの札でなんとかするっていうんですか、抜け道を探すっていうんですか、うふふ、燃えてくるんですよね、うふふふ」


 うふふふふふふ、と不気味な笑い声が空間にこだまするにつれ、赤黒い靄はしゅうしゅうと縮んでいった。よ、良かった……機嫌が直ったようだ。空間の圧が引いて体の自由が戻ってくると同時に、すかさず手を髪の毛にやる。うむ、髪の毛も無事だ。


 そしてエルカさんは手元を見つめ、すいすいっと指を動かしたかと思うと、


「私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る私は出来る」


 と、俯いたまま呪文のように出来る出来ると呟き始めた。正直かなり引く光景ではあったが、俺のために魔法を組み合わせてなんとかしてくれるというのだから、目を逸らすのもなんだか悪いような気がして、チラリと見てはまたすぐに視線を外す、とこちらもこちらで挙動不審になってしまっていた。


 と、不意にエルカさんが顔を上げ、俺をじっと見据えたかと思うと、「『エルカさんは出来る』って言ってください」と真顔で要求してきた。やだこの神様怖い。


「え、エルカさんは、出来る……」

「声が小さあいッ!!」

「ひぃっ! 『エルカさんは出来る』!」

「もう一声!」

「『エルカさんは出来る』! 『出来る』! 『超出来る』ッ!!」

「よっしゃいいぞオラァッ!!!」


 俺はブラック企業の掛け声みたいなのを強制的に叫ばされ、びくびくしながらそっとエルカさんの表情を伺うと、当人は「ふん!」と満足げに鼻を鳴らし、一心不乱に手元をスイスイし始めていた。


 と、とりあえずはなんとかなった、のだろうか……。

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