4-3

 ——おお、戦場だ。

 寛治かんじは棒立ちになって、銃声が鼓膜を叩くのに任せている。閃光が一瞬明るく窓を照らし、ガラスの汚れをあらわにする。廃ボウリング場の中も煙っている。味さえしてきそうな硝煙の匂いがあった。

 映画みたいだな、と馬鹿げた印象を持った。

 パーカーの背中の裾を引っ張られて、寛治は振り返る。

「カンちゃん!」

 翔太が体勢を低くしながら、寛治の服をつかんでいた。

 立っているのは寛治だけだった。

 フランケン・シスターズは腰を抜かして、互いに抱きあっている。

 銀蔵じいさんは片膝ついていた。

 寛治は銃声のほうに視線を戻した。

 一人、例外がいる。香澄さんだ。香澄婆ぁは出入口にかなり近い位置にいた。身を伏せるなんて考えつきもしないのだろう。腕組みして殺戮を見ている。

 痩せていて、背筋の伸びた老女だ。

 短い髪は純白といっていい。

 銃声が小止みになって、婆ぁがかすかに動く音を聞いた。

 寛治のほうを振り返ったに違いない。

 呼ばれている、と思い、寛治は香澄婆ぁのそばに駆けよった。

「すごいですね」婆ぁはいった。

「ええ」

「音が聞こえて?」

「当然です」寛治は答えた。「銃声はまずいっすよ、もう通報されてます」

「銃声は漏れません。このわたしが利用する以上、結界は張ってます。わたしがいってるのは、あの娘の音」

「ああ」寛治はもちろん聞きとっている。「食べてますね、たぶん吸血鬼を」

「動物以下だわね、あの娘。狼だって死肉は食べない。でしょ?」

 この婆ぁの細首を締めながらレイプしたら面白いだろうな、と思いながら、寛治は返事をした。「もちろんです。狼男は吸血鬼の肉なんか普通は食べません」

「汚ならしい娘」

 あんたほどじゃないよ。寛治は胸のなかでつぶやく。

 どうせ股ぐら、ぬるぬるにしてんだろ。

 今夜は銀蔵じいさんが、果てる際に発する遠吠えをたくさん聞けそうだ。

「あの娘は伯爵さえ殺せるわね。きっと食べてしまう」

「あの女、なんすか? 床から湧いて出てきたけど」

 香澄婆ぁは、寛治の質問を無視した。

「今夜のうちに高原台をつぶしましょうね。あなたは、深沢さんを通じて犬目組を味方につけなさい。それとあなたの元恋人、えーと」

寧々ねねですか?」

「その娘を取り戻しなさい。いいわね? わたしたちと、それ以外になりますからね、この町は」

 よけいなお世話だ、糞婆ぁ。

 きっと上品な面で微笑んでいるのだろう。寛治はだまされない。したたるような下劣な匂いを香澄婆ぁから嗅ぎとっている。

 ——とはいえ。

 あの娘を召喚したのは気に入った。

 せっかく取り戻した眠り男を生贄にする、と聞いた時はどうかと思ったが。

 代わりにあんな化け物を呼び出した。そこだけは最高だ。

 ——わたしたちとそれ以外。

 確かにそうなる。伯爵の支配は今夜で終わる。

 

 仲間の身体が炸裂していた。血煙が広がり、手足が回転しながら散りわかれる。中心にいるのは全身を赤く染めた女だ。

 ホオジロは上空から俯瞰している。

 吸血鬼の視力で見ると、血液はとりわけ鮮やかに発色している。

 血でぬるついた裸の女が、銃弾をはじき返しながら、男たちに飛びつく。夢中になっているらしい手つきで抱きついていく。

 と、吸血鬼の身体が炸裂するのだ。血煙をあげて。

 ——助けにいかないと。

 そう思わなかったわけではない。

 けれどそう思うたびに、血塗れ娘が上空を振り返るのだ。ホオジロと目をあわせてくる。薄気味悪い視線だった。ホオジロは何度も背筋を震わせた。

 闘えない。

 結局、ホオジロは見切った。闘えば殺される。仲間たちは立派に立ち向かって死んでいくだろう。救ってやれない。仕方ない。今ここで自分が死ねば、誰が伯爵にこの危機を伝えるのか。

 それより、血だまりの中を転げながら惨殺にふける少女の能力・脅威を正しく評価する。この評価が高原台の未来を決める。三十分前の自分なら信じなかったろう。今や高原台は滅亡の瀬戸際だ。

  銃声の数は減っていく。

 やがて銃声は絶えてなくなり、裸の少女は四つん這いになりながら、吸血鬼の死体を喰いちぎりはじめた。

 ホオジロ は急上昇して、高原台へ急行した。

 ——何人かは。

 何人かは逃げのびているだろう。ただ香山は死んだし、アオジタ先輩も死んだ。それは見ていた。

 吸血鬼は仲間の死を悲しまない。死は、不死という呪いからの解放である。身体を失った吸血鬼の魂は、地獄の底の一番深いところで祝福を受けるであろう。

 ホオジロは涙を流さない。

 ——アオジタさん、死んだか。

 しかし、考えずにはいられなかった。

『吸血鬼は思考を途切らせちゃ駄目だ』アオジタはいったものだった。『考えてないと存在が危うくなる』

 だとしたら、アオジタ先輩はようやく思考の呪いから解放されたのだろう。

 地上に舞い降り、お屋敷の玄関を勢いよく押し開いて見たものは、騒然とした無秩序だった。ホールを走り抜けようとしていたダークスーツの三人組が、ホオジロを見て足を止める。

「ホオジロ!」

 三人は殺到してきた。

「アオジタさんと——」

「連絡が——」

「アオジタさんは」ホオジロは唾を飲みこんだ。

 早くも喉が乾いていた。血液を渇望しはじめている。禁断症状が始まったのだ。

「武器と血液を集めてください。アオジタさんは死んだ。アオジタさんだけじゃない、みんな死んだ、全員。急いで。遠野香澄が攻めてくる」

 三人組はわずかな時間、黙りこんだ。

 顔つきを引き締めて、一人がいった。「迎え撃つんだな」

「違う! 逃げるんです! さぁ、準備して、十五分、いや十分で! 早く!」


 夜明けから二時間がすぎた。白い日差しと木々の黒い影で、山道は縞模様になっている。舗装されていない道だ。車は揺れた。蛍光色の新芽が、あちこちで萌えている。黄緑の粉をふりかけたみたいだ。

『丘の上の白い家』とシロエリはうわ言でいったが、道の険しさが丘ではない。

 山である。山の上、というべきだろう。

「ここ左です」

 助手席のシロエリがいう。

 車は左折した。すでに対向車とすれ違えないくらい道は狭かったのに、入った道はさらに狭かった。モミらしい木の枝がフロントガラスを何度も叩く。

 車内は静かだった。誰も無駄口をきかない。

 シロエリが的確に指示する声だけだった。

「もうすぐです。もう、この辺で停めましょう」

 ヤモリ女が停車する。

「様子を見てきます」

「注意しろよ」

 モミの木の枝が、助手席のドアを圧していて、シロエリはだいぶ苦労しながら車を降りた。

 体をかがめて素早く道の先へ走ってゆき、まもなく歩いて戻ってきた。

 運転席の側へ回り、窓をあけたヤモリ女に首を振ってみせる。

「駄目です。匂いがありません。ここ三ヶ月は誰もきてないと思います」

 ヤモリ女は手の平で額をこすり、ため息をついた。

 めずらしく、まいっているらしい。

「ヤモリ女、元気出して。手がかり捜そ」

 半ば、からかうつもりで姫里ひさとがいうと、ヤモリ女は激しく反応した。

「うるせー馬鹿。落ちこんでねぇよ」

 ヤモリ女は運転席を降り、ドアを乱暴に叩きつけていってしまう。

 姫里も車を降りて、二人の後を追った。

「シロエリ、例の魔法のヒントってのは間違いねぇんだろうな」

「大丈夫です。彼女たちの記憶が確かなら、必ずあります」シロエリがヤモリ女に答えた。「姫里ちゃん、本棚の上に靴の入ってた空箱があるんだ。そこになにかあるはずなの」

「了解です。──おぉ、長野っぽい」

 進むにつれて視界が開けてくる。

 道の南側に森がなく、草原になっていた。登りはじめた陽光が朝露に白く反射して、細やかに透けるレースでもかぶせたみたいだ。地表付近はうっすらと靄に覆われていた。その上を、羽虫の集団が固まって飛び回っていた。

「牛がいるはずなんだよ、姫里ちゃん。いこう」

 草原と道の間に、線路の枕木で作ったらしい柵がある。シロエリが、またぐような気安さで柵を飛び越した。シロエリは、体の線にフィットするニット、アウターはスエードのジャケットという格好だ。長い足をスキニーデニムで包んでいる。

 ヤモリ女もジャンプで越えていった。タンクトップとTシャツのレイヤード、ボトムは着古したデニムだ。平然とサンダルを履いている。

 姫里だけは、ジャージを汚しながらよじ登る。トップスはパーカー、靴はコンバースのスニーカーである。

 草露で靴を濡らしながらシロエリを追いかけると、草原が途中から斜面になっている。眼下に絶景が広がっていた。重なりあって続く丘陵を、もこもこと森が覆い、所々に牧草地がひらける高原の風景だ。牧草地に、四頭のホルスタインが草を食んでいた。丘陵は次第に色褪せながら山々に続き、かすかに、山間の市街地らしい広がりまで見渡せた。

 線路の枕木を埋めこんで作った階段を十段ほど下ると、白い家があった。

 ヤモリ女が、ポケットに手を入れて家を見上げている。

「なんかずいぶん──」

 シロエリはいいかけて、黙った。

 白い家は廃屋同然のボロ家だった。ベランダの柱がかしいでいて崩落しそうだ。屋根に草が生えているし、なにより汚い印象を与えるのは、ほとんど剥げている白のペンキだ。

 姫里はシロエリの様子をうかがった。

「あの子と同期した白い家は本当に素敵だったのに。あの子の記憶のなかでは、天国みたいな場所だったの」

「新築のころの記憶、とか?」

 シロエリは首を横に振る。「たぶん、たぶん、あの子、自分の記憶を美化してる」

 大きな音がして、姫里は首をすくめた。

 ヤモリ女が、白い家のドアを蹴破った音だった。


 廃屋は、ほんの数十秒ほど姫里にわくわく感を与えた。

 本来、入ってはいけない場所にいるという興奮と、見てはいけない他人の生活の痕跡を盗み見る背徳感を。

 興奮はすぐに醒めた。寂しい光景だった。腐りかけた屋内である。キッチンと食堂と、寝室らしい部屋。トイレとタイル張りの風呂場もある。めぼしい物は見当たらなかった。屋内は薄暗く、窓から差しこむ光線が白く濁って見える。

 古い冷蔵庫と洗濯機。野鳥のガイドブック。籐椅子。

 すべてがほこりを被っている。

「人造人間たちは、遠野香澄のことをばぁばって呼んでます。はっきりとはわかりませんが、人造人間たちはばぁばのことを良く思ってないみたいなんです」

 シロエリがいう。

「人造人間たちは秘密のうちにこの家を買いました。同期した記憶の印象では、香澄の財産をかすめとっていたみたいです。遠野香澄から逃げ出すために。たぶん、彼女からひどい扱いを受けてたんです」

「シロエリ」ヤモリ女がいった。「同情してねぇだろうな」

「いいえ」

「それでいい。もう忘れろ。やつらは敵だ。例の魔法のヒントってのはどこだ」

「そこです」

 シロエリの指差す本棚の上に、厚紙の箱があった。ヤモリ女が箱を取り、蓋を投げ捨てる。A4 のコピー用紙が二枚、入っていた。一枚は三つ折り、もう一枚は四つ折りだ。ヤモリ女が取り出した四つ折りのほうを、姫里はのぞきこんだ。

 魔法円が描かれている。その下に日本語の走り書き。

『悪魔はこの地上に常に七十二。減りもしなければ、増えもしない』

 この文言は悪魔の説明に必ずといっていいほどついて回る有名なもので、価値はない。

 問題は魔法の図形だ。

 二重円の内側に十字、区切られた四つのスペースに記号が描かれている。

「魔法円か」ヤモリ女には知識があるらしい。

「うん。でも、レメゲトンじゃない」

 姫里はいった。レメゲトンは、おそらく一番有名で、強力で、使いやすい魔法書である。なんといっても日本語訳がある。

「メイザースとか、クロウリーの本に出てるやつだろ?」

「似てるけど、違うと思う。ホノリウスの誓書せいしょっていうのもあるんだけど、でもソロモン系って感じじゃない。大奥義書か、赤竜せきりゅうってやつかも」

「なんだそれ。どういう意味だ」

 姫里はヤモリ女の、エキゾチックな顔を見た。「黒魔術かも」

 赤竜、は魔法書の一つだ。大奥義書の異本とされている。ヴードゥーの呪術師も鶏の血を捧げてこの魔法書を使うらしい。

「香澄じゃねぇのか?」

 遠野香澄という魔女が今回の黒幕、という話を姫里は車の中で聞いている。

「違うと思う」

「じゃあ、誰だ」

「魔法円を使うのは普通、魔術師だよ」

 ヤモリ女は眉をひそめた。

 魔術師はモンスターではない。人間だ。伝統ある魔術結社に籍を置く魔術の修行者である。

 魔女は悪魔と契約して、悪魔に使役されるが、魔術師は逆だ。悪魔を使役する。

「もう一枚ありますけど」シロエリがいった。

 ヤモリ女は三つ折りの紙を広げた。

 ワープロソフトで印刷された、手紙のようだった。複数枚にわたる手紙のうちの一枚らしい。


『に興味あるのは理解できる。

 ひとつ、ヒントをあげよう。小悪魔だ。遠野さんがこの現象にどの程度お詳しいか、わたしは知らない。およばずながらの卑見を披露すれば、小悪魔というのは悪魔よりはるかに力の劣る悪魔のことだ。悪魔が百の力を持つとすれば、小悪魔は一の力しか持たない。

 小悪魔は、自分の力を勝手気ままに使う。悪魔が力を満々と蓄えて安定しているのに対し、小悪魔は力を放出し、力をどこからか取りこまないと存在を確定できない。人類の歴史上に、小悪魔や半悪魔の登場は多くない。かれらの存在はとても不安定だから。

 遠野さんの役に立つかもしれない、と思うのは、小悪魔が魔女との契約に応じるからだよ。悪魔は、魔女を契約で縛る。小悪魔と魔女の契約は正反対だ。魔女が小悪魔を使役するんだ。小悪魔は魔女の忠実な奉仕者となる。

 わたしはこの知識をボストンの魔女から聞いた。彼女は小悪魔の存在を確信しており、呼び出せる、と強く主張した。大金払って方法を聞き出したわたしこそ、いい面の皮だ。ボストンの魔女いわく、小悪魔の顕現には結局、悪魔が必要だ、というのだからね。

 それでも遠野さんにその方法をご紹介するのは、米国のサタニズム、特にラヴェイの流派は、英国のウィッカより信頼できるからだ。話半分にお聞きなさい。まず必要なのは』


 姫里は手紙を二度、読んだ。手紙の裏にも、鉛筆で書きこみがあった。一行の英文だ。筆記体で書かれている。

「ヤモリ女、英語できる?」

「おまえ、学生だろ。なんで出来ねぇんだよ」ヤモリ女は姫里が渡した手紙を受けとった。「英語じゃねぇぞ。なんだこれ」

 携帯の呼出音が唐突に廃屋に響く。

「わたしです」

 シロエリがスマホに出る。

 立て続けに別の呼出音が鳴った。ヤモリ女の携帯だ。ヤモリ女は手紙をポケットに入れた。

 電話口に話す二人が廃屋の隅へ散り別れると、驚くことに姫里のスマホも鳴り出した。母親からだった。

「もしもし」

『姫里?』

「そうだよ」

『あのね、姫里。落ち着いて聞いてね』

「落ち着いてるよ、わたしはね」

『お母さん今ね、高原台の人たちと一緒に、伊豆に避難してるんだけどね。もう二度と埼玉には帰れないかもしれないの。姫里も埼玉には帰らずに、伊豆に来てほしいんだけど、転校とか、大丈夫だよね?』

「転校——転校?」

『うん。星谷家の魔女、わたしたちのことだよ? わたしたちをすっごく嫌ってる遠野香澄って魔女がいてね。今、月夜市に帰ったら、わたしたちその、香澄さんに殺されちゃうかも』

「伊豆に転校? なんで?」

『伊豆はいいところだよ。温泉あるよ』

「知ってるよ! ちゃんと話して、どういう事情?」

『あのね、落ち着いて聞いてね……』

 姫里は黙って聞いた。

 ヤモリ女もシロエリも、やがて電話を切った。

 山奥の廃屋で、三人の女がそれぞれの顔を見つめた。

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