コードに込められた殺意

 廃屋に戻った。診察室の前にいた車椅子が音もなく振り返る。じっと、その上の女の素顔の部分だけを見つめた。不自然な動悸が俺の胸を叩いていた。


「わからないよう工夫してたけど、本当に気づかないと少し悲しいわね」


 左腕の義手が不自然に黒い髪をなでる。かすれた声だが、そのイントネーションには聞き覚えがあった。


「ごめんなさい。私も怖かったの。何も知らなかったから。あなたが今どういう立場で、何をやっていたのか。弟とどういう関係だったのか。何を感じて、考えていたのか。だからすぐには言えなかった」


 俺はその瞳をのぞき込んでいた。こんなに集中して人の顔をみつめたことはなかった。ひどく時間が長く感じた。


 女がコンタクトレンズをそっと外してケースに入れる。わざと黒い色にしていたのだ。その奥に現れた灰色と微笑んだ目の形に、身をこわばらせた。


「髪はウィッグよ。真っ黒な日本人のストレートにあこがれていて。ウェーブの髪はもう手に入らないし、それならと思って。ひさしぶりね。ショウ君。サクを探してくれてありがとう」


 何も答えられなかった。生身の右手が俺の頬に触れる。喉が締め付けられるようだ。その指が伝えてきたのは、ずっと前にティーカップを渡してくれたとき、かすかに感じた体温だった。


「今日からは2人で。よろしくね」


 抑え込んでいた恐怖が、怒涛のように湧き上がってきた。かすかな希望が吹き飛ばされる塵のように脳裏を離れていく。最も身近にいると思っていた男は、二度と戻れない場所に踏み込んでいたのだ。


「マドカさん……」

「違うわ」


 彼女が寂しそうに首を横に振った。


「木更津まどかは、アイルランド人の母が日本で義父と結婚したときにつけた名前なの。母が帰国して前夫と復縁した今、その名前の女性はもう存在しないわ」


「俺にはマドカさんだ」

「そうかしら。いいえ。そうね。私もそう呼んでほしい。ショウ君にはね」


 喉からはそれ以上の声が出せなかった。マドカさんが、静かに息をついてから話し始めた。


「起きたことを話すわ」


 *


 28年前。アイルランド人の女性ソニア・オハラが前夫との娘、つまりマドカさんを連れて留学し、その大学で講師をしていた弁護士、木更津恭介と恋に落ちた。そして結婚して生まれたのがサクだ。つまりマドカさんとサクは父違いということになる。


 そしてマドカさんが24歳の時。木更津恭介の経営していた事務所のシステムがハッキングでやられ、情報漏洩事件を起こした。従業員が客を装ったメールの添付ファイルをクリックしたことで顧客情報が奪われた。小さな事務所であっても、扱っている情報が高額であれば、その被害額は大きくなる。


 当時はその手の報道に関心がなくて見逃していたが、それなりにニュースになっていたそうだ。木更津恭介はこの事件で多額の負債を抱えて自殺した。夫を失った母親のソニアは帰国したいと言った。そしてマドカさんが一緒に行き、サクは残ったのだ。


「サクは英語を話せない。アイルランドで生きる道はない。それに事件を間近で見ていたこともあって、彼はセキュリティをやりたいと言い始めたわ。そのタイミングで彼には伸び盛りのベンチャー企業、ルーグ・セキュリティから声がかかった。しかも頼れるあなたも一緒に採用。迷う理由はなかったでしょうね。


 私は時々サクへ連絡をしたし、母からのメッセージもそえた。でも、彼は自分の開発に夢中で返事はこなかった。母は別れた父とそれなりにうまくいっている。寂しかったわ。いくら生まれた場所でも、私はアイルランドを知らなさすぎた。


 そして、私もセキュリティを始めてみようと思ったの。日本で縁のあったシャダイにもう一度入社して、夜はメイヌース大学でサイバーセキュリティの勉強を始めた。認められてからはダブリンに移り、イライジャ・マアムーンのチームに入ったのよ」


「ルーグとフェルディアの共同開発が始まったときに、サクはマドカさんに連絡してたのか?」


 俺はようやく口を開いて、傷んだソファに浅く腰をかけ直した。


「そうよ。久しぶりにサクから私に連絡が来たとき、私は喜んでイライジャに掛け合い、期待以上のものができると訴えたわ。すぐにハサウェイ氏からも連絡が来た」


 仮面の下の頬が震えていた。マドカさんは一度座りなおして、車いすの位置を直して話し続けた。


「けれど始めてからすぐに、彼は望むものが作れそうにないと言い始めた。世界中のいたるところでフェルディアが使われる日は来ないと。だってそうでしょう。検知ミスで間違って他人を攻撃をするかもしれないのよ。


 セキュリティの歴史は検知率向上の歴史である一方、誤検知率を低下させる歴史でもある。アンチウィルスが間違って動作しただけでも不便でしかたがないのに、つい間違って他人を攻撃しましたなんて話にならないわ。


 結局、売るためには検出率を犠牲にしなければならない。けれど、その意味がサクには理解できなかった。彼は私にシャダイの経営にもっと圧力をかけるよう言ってきたわ」


「……それまで、あいつはほとんどマドカさんと話してなかったんだろ? 突然そんなこと言いだしたのか」


「大きな組織の遅さが、彼には理解できていなかったのよ。シャダイと組めば自分の製品を世界に出せるという、とてもシンプルなシナリオを期待していたんでしょうね。もちろんそんな力は私にはない。いえ、誰にもないわ。加えて作る方も多人数になって管理が難しくなっていた。彼の焦りは拍車がかかっていった。


 そしてある時を境に、彼はフェルディアを反撃ツールではなく、ハッキングツールとして完成させる方向へ切り替えたのよ。それを使って大規模な人災を起こすことで、クー・フーリンを普及させるほうがいいって。そして……」


 マドカさんが一度喉を水で湿してから続けた。サクがセールスも開発管理もわかっていなかったのは、俺たちが奴をそういう舞台から遠ざけたからだ。そこで大きなほころびができていたと、ようやく理解ができた。


「俺にメールでもしてくれればよかったのによ」

「したわ。返事がなかった。もうショウ君には彼女でもできて、今さらなのかなって勝手にため息をついていたわ。でも今はわかる。そのメールはサクがブロックしてたのよ。他の連絡先も」


 唖然とした。俺がパソコンをつけっぱなしの時にスパム報告とブロック機能でも使えば確かにそれは可能だが、考えたこともなかった。


「ブロック? なんのために?」

「集中させるため。それぞれに自分の仕事をされるためよ。でもさすがに変に思ったわ。私はサクやショウ君と話し合うために日本へ行こうとした。するとサクは私をアイルランドから出さないように、ダークウェブからの情報を利用してパスポートを無効化した。偽造品を大量に入手して売ったのよ。問い詰めても返事は来なかった。


 そして弟は化学物質を入れた機器を送付して人を集め、スカイプで電話会議を招集した。実機の周囲に人が集まったタイミングで、ウェブカメラで様子を見て爆発させる……メンバーの半数は即死。私はこの体になったわ。偶然助かったイライジャも自殺した。私も生きていると知られたらまた殺されると思った。そして自分のために初めてハッキングの技術を使って、法を破って日本へ逃げたの」


「なんでサクがマドカさんを殺そうとする? 親父が殺されたからってなら、理屈がおかしいだろ」


 気を落ち着けてそれを聞いた。


「わからないわ。私にはサクの思いをすべて受け止めることはできなかったから。ただ、弟は復讐は考えていなかったと思う。それよりも、技術を悪用されないために、対抗する力を創ることに夢中だったわ。それが彼のイデオロギーなんでしょうね。フェルディアを完成させて警告しなければ、この国の人には気がつかないって」


「おかしいとしか思えねえ。そんな極端な思い込み、ガキの……」

「たとえそうだとしても」


 マドカさんが俺の言葉を遮った。


「どんな子供っぽい思い込みであっても、やろうと思えばできる。ITというのはそういうものよ。省力化においてこれ以上に優れた分野はないもの。刺し殺したり撃ち殺したりするよりも、はるかに小さな殺意で実現できる。正気の人間でも何人も殺すことができるわ」


「それは正気って言わねえよ」


「いいえ。もし、弟が頭を打ったり何かの病気でおかしなことを言っていたとしたら、私にフェルディアのことを相談しなかったはずよ。正気を失った人間は逡巡しゅんじゅんしない。


 たしかにサクは父やアーロン・スワーツを殺した理不尽を許さなかった。それでも、技術が本当に自由なのか、自分がやっているのは単なる悪事なのか、毎日のように悩んでいたわ。彼が宗教家だったら落第よ。誰も信者にはならないわ」


 目を閉じて言葉を区切りながら、ささやくように彼女が続けた。俺はソファに沈めた体を動かさずに、じーっとコンクリートがむき出しになった床を見つめていた。


「サクはなんでそれを俺に話さなかったんだろうな」

「話そうとしていたわ。何度も」


「そうして欲しかった」


 マドカさんが、車椅子を動かして俺の横に並び、左手を優しく包んで指を絡めた。何度か言葉を飲み込む気配を繰り返してから、彼女が続けた。


「サクはね。ショウ君に全てを打ち明けるには、弱すぎたの」


 エアコンが自動で止まり、しんと部屋が静寂に包まれた。知っている場所なのに、どこにいるのかもわからないように感じた。押し寄せてくる苦しさをかき消して、腹の中の胃液が駆け出さないように抑えた。


「友達だと思ってたのによ」

「友達だったわ。誰よりも大切な。だからその関係を崩すことを恐れたのよ」


 浮かんでは消える回想が流れ去っていくのを見届けて、俺は小さな声で、わかったよと言った。かつて3人でいたころ、その関係を壊したくなくて、マドカさんにどうしても告白できなかったのを思いだした。


「別の話をさせてくれ。まず、マドカさんは俺を試したんだよな? 俺が役に立つか、信頼できるか、そういう事を知るためにラクシュを経由してこんな複雑なテストをしたんだよな?」


「そうよ」

「なんでそんなに遠回りなやり方をしたんだ。ラクシュを通じて俺に直接つないでくれれば良かったのに」


「ラクシュミー・シャンディラはこの一連の話を何もしらないわ。巻き込めない。私はアマテラスに移ってから、以前ルーグのメールで名前を知ったラクシュミーをフェイスブックで検索して、クリシュナ・コーポレーションに行ったという情報を見たのよ。そしてクリシュナの営業に流して、彼女の仕事にしてくれと伝えただけ」

「だとしても、こんなやり方を選んだ理由にはならねえ」


 それを聞くと、マドカさんは悲しそうに俺に見た。


「さっき言った通りよ。怖かったの。きっとあなたは協力してくれると確信していた。初めて会った時、あなたとサクが楽しそうに話していたのを見た時から、本当のことを言っても大丈夫と思っていた。それでも怖かった。挨拶もせずに別れて長い年月が過ぎていたし、私はこんな姿だし。この話を伝えられるかを知るための時間が欲しかったの。私は臆病だから。でも、いやらしい方法であなたを試して、すがることになっても。私はやっぱりあなたに会いたかった。弟のことを伝えたかった」


 体を起こして、マドカさんの瞳を見た。少年の頃にあこがれていた、あの笑顔が重なった。


「次に会うときは、せめて変わっていない部分だけでもあなたに見せたかった。この仮面はね、私の女としての精一杯の意地よ。右目だけ見たって思い出すわけないのにね。驚かせてごめんね、ショウ君」


 沈黙の中にぽつんと、取り戻せない過去がこちらを見つめている。もう認めるしかなかった。


「あいつを追う方法はないのか?」


 彼女はそれを聞くとかすかに首をかしげ、目を俺のパソコンへ向けた。ネットにつなぎ、マドカさんにマウスを渡す。


「彼がどこにいるのか、どういう生活をしているのかはわからないわ。でも手がかりはある。私が渡せる最後の情報を写すわね」


 マドカさんがパソコンをたたく。Webサイトへ接続した。


GitHubギットハブのプライベートリポジトリか」

「そうよ。フェルディアの……」


 開発者がよく使う、自分の書いたプログラムを記録しておくサイトだ。全世界に公開することもできるし、課金すれば自分や少数のグループだけで共有することもできる。マドカさんが貯蔵庫リポジトリの一つに入るため、パスワードを打ち込んだ。膨大な量のコードがそこに書かれていた。


 マウスを受け取って、中身をいくつか開いた。コメントに特徴が出ている。間違いなくサクの文体だった。


「彼がどれだけ世界を憎んでいるのかの証拠よ。読み取り専用リードオンリーなら誰でも見られるわ」


 マドカさんが更新キーを押した。


「増えてるな……」

「ちょうど何かを作ったんでしょうね」


「ものすごい早さで作ってるぞ。これ、動くのか」

「ええ。すぐにあなたのパソコンでも使えるわ」


「なんでサクは、これを見えるようにしている?」

「自分以外に誰も使っていないと思っているからよ。アクセス履歴なんて見てもいないんでしょう」


 プログラムは刻一刻と更新されていた。着々と完成へ向かっている。引き返すことはできない。この事実を認めるなら、やるべきことは決まっていく。


 俺はサクを殺すことを考え始めていた。

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