No.2 練習

「今日仕事は?」

 煙の漂う宙を見ていた私の頭上に、どこか尖った声が降ってきた。

「あ…昼からあるよ。でも早めにこいって言われてるから」

 手元の携帯に目を落としながら、ふぅん、と再び口から白い煙をくゆらせて彼は言う。聞いているのか聞いていないのか分からないが、けれどそのほうが都合がよかった。今日は違う予定が入っている。

 手に持ったままのコンパクトを控えめに開き、くすんだ肌に明るめのファンデーションをのせてきゅっと目元に力を入れる。腫れぼったいまぶたが一瞬持ち上がって、すぐに腰を降ろした。「身なりに気をつかわない女は女じゃない」、目の前の彼がずいぶん前にそういったのをふと思い出した。それから化粧品はもちろん、歯の矯正、髪型、果ては食べるものまで自分なりに気をつかってきたつもりだ。

「俺は今日、遅いから」

 吸殻でいっぱいになった灰皿に灰を落としながら、目線を合わせず彼が言う。私は「はぁい」と間の抜けた返事をしながら、ゆがんだ顔を鏡で隠した。


 朝から降り続いていた雨は午後には上がっていて、代わりにジメジメとした空気が漂っていた。このところ不安定な天気が続いている。大雨ならばまだしも、傘をさすかささないか迷うようなぱっとしない天気が特に多かった。吹きかけられた霧のような小雨から逃げるようにして見つけた木陰は人ひとり入るのが精いっぱいだった。隣で携帯とにらめっこしている女子高生の右肩は小雨にさらされてしまっている。申し訳ないとは思いつつ、もう少しで待ち合わせの相手がくると思うと動く気にはなれなかった。

『冷蔵庫にプリン入ってるから、食べてね!』

 きらきらとした絵文字を添えて送信ボタンを押す。規読がついたのを見るとほっと肩をなでおろし、同時に彼の顔が浮かんでチクリと胸が痛む。もちろんデートなんて浮ついた予定ではない。待っているのは不動産屋だ。都内で職場にも近くて安い物件なんて絶対見つからないと思っていたが、何件か見つかったという連絡が入ったので仕方なくシフトを変わってもらったのだ。今日はその下見に行く予定だった。

 しっとりと汗ばんだ腕に巻かれたピンクゴールドの腕時計は、待ち合わせの5分前を指している。

「どうも、お待たせしました」

 ぼんやりと行きかう人々を見ていると、ふいに少し高い声が頭上から降ってきた。はっとして顔を上げると、目の前にはカジュアルスーツを着た男性が立っていた。その表情は少しこちらの顔色を伺うような、心配そうな表情だ。

「あ、いえ、今日はよろしくお願いします」

 軽く頭を下げて、今度は男をよく見る。ストライプの生地が入った水色のワイシャツは、痩せている彼の身体をより一層細く見せている。目の下にはうっすらクマがあり、申し訳程度にのばしたヒゲはなんだかアンバランスで肌の色はすこぶる悪い。こんな炎天下に呼び出したことを申し訳なく思った。不動産屋に行った時はおじさんが対応してくれたからてっきりその人が担当すると思っていたけれど、こんなに若い人だとは思っていなかった。

「じゃ、さっそく、車はあっちに停めてあるので」

 男はそう言いながらターミナルにポツンと置かれた小さな車を指さした。私は軽く会釈をすると、男の後をついていった。

 車内はエアコンが適度に効いていて、先ほどまで生ぬるい湿気にさんざんさらされていた身体にとっては極楽だった。ミラーにぶら下がる芳香剤のにおいがきつく酔いそうなほどだったが、若い人が好みそうな匂いだ。

「駅から近いんですか」

「ああ…何か所かありますけど、一番近いところに向かおうかと」

 男は相変わらず不安げな視線をこちらに少し向けて、また前に向き直る。緊張しているせいかその表情は硬い。この様子だとお客さんと会話などできないのではないか、等と余計なことを考える。そうこう考えを膨らませているうちに、車は見慣れない細い道へ入っていく。大通りはすぐそばにあったが、裏道のようなところだ。もし駅から歩くとしたら、きっとここを通るのだろう。大通り沿いには確か広い公園が横にあり、その奥にはスーパーや薬局が何件か立っていたはずだ。立地はいいのかもしれない。しばらく道なりに細い道路を渡っていると、突き当りに小さなラブホテルが見えた。細長い建物の横にはやけに気取った筆記体でホテルの名前が刻まれていた。備え付けられている駐車場の入り口には、色あせた緑色が申し訳程度に光っているのが遠目からでも確認できる。安い物件だし、近くにそういう建物があってもおかしくないのかもしれない。

 ワンルーム、三万円。

 「いつでも逃げられる場所は必要だよ」、市役所のおばさんに勧められたシェルターも、友人とのシェアハウスも断った。けれど口々に言われるその言葉は頭の片隅にずっと残っていて、先週休日出勤と偽って不動産屋に足を運んだ。

 何件か回ったらきっと気が変わるだろう。あの部屋に戻りたくなるだろう。そしたらまたご飯を作って、彼の弾くちょっと下手くそなギターを座って聞いて、夜は背中を見てまた眠ることができる。

 そんなことを考えながら窓の外を眺めていると、先ほどのラブホテルの看板がすぐそこまで近づいてきた。何ともいえぬ違和感に足に力が入る。まさか、そのまさかだった。男の車はあろうことかそのホテルの目の前で速度を落とし、ゆっくりと滑り込もうとしている。ぎょっとして男のほうを見るが止まる気配はない。

「ちょ、ちょっと何してるんですか!」

 私の慌てた声に驚いたのか、男は細い肩を鳴らして振り向いた。

「え、いやあの、ホテル、」

「何考えてるんですか、ふざけてるんですか!」

 思わず声を荒げると、男は困ったような驚いたようなそんな表情で私を見る。「大きい声出してごめんなさい」、そう私が呟くと車はホテルの前で停車した。私たちはそのままお互いを見ている。車のすぐそばを清掃員の女がじとついた目で見ながら通り過ぎていく。はたから見たら入るか入らないか迷っているカップルだ。その姿が滑稽で声をかけようとした瞬間、だって、と男が声を出す。

「だって、真由さんが言ったんじゃないですか」

 真由、聞き覚えの無いその名前に私が目を丸くしていると、男はもっと目を丸くする。そういえば会ったときに名刺などもらっていない。スーツ姿にてっきり不動産屋だとすんなり受け入れてしまったが、本来助手席に乗っているこの状況もおかしいのではないか。私は急いで手元のカバンから携帯を取り出した。着信5件。すべて不動産屋からの電話だ。そして、ちょうどまた不動産から着信がきている。

 では一体目の前のこの貧相な男は誰なのか。

「私、あの」

 真由という人物ではない、そう言おうと思った瞬間、男のほうもシャツポケットから携帯を取り出した。細い指がまるで針金のように携帯のボタンを押す。ごくり、男の喉仏が細い首の中で波打った。どうやら事態を把握したらしい。私たちはまたお互いを見合う。くぼんだ目の下に一つ、ほくろが見えた。最初に目をそらしたのは男のほうだった。

「すみません…人違い、みたいで」

 そうでしょうね…、私は言葉を飲み込んで小さくうなずいた。

「困っ…たな、八雲先生に…報告が…」

 どうしよう、どうしよう、彼は何度もそう言ってモゴモゴと言い淀む。

 八雲、先生?

 聞き返すのも難で、ただただ私は彼の挙動不審な動作を横目で見やるしかできなかった。ここで降ろせばいいじゃないか。簡単なことなのに、どうやら彼にはそれができないらしい。

 ホテルの外観はつい最近のものというより、だいぶ年期の入った様相だった。ラブホテル、なんて。以前高熱を出して自分では動けず、彼に車を出してもらって病院へ行ったことがあった。その帰りに、寄ったっけ。結局インフルエンザや他の病気なんかじゃなくただの風邪で、それなのに彼の時間を割いてもらったことが申し訳なかったのだ。けれどいつもより熱い身体を喜んでもらえたことが嬉しかった。そんな気がする。

 こんなときになぜそんなことを思い出すのだろう。蜃気楼のように続くアスファルトの瞬きを眺めながら考えていると、隣の青年が大きく深呼吸をした。

「あの、付き合ってくれませんか」

「は?」

突然の言葉に思わずまた乱暴な言葉が出てしまい、「ごめんなさい」と口を抑える。

そんな私の反応など気にもせず、青年は足元に置いてあったカバンからおもむろにデジカメを取り出した。

そしてそれを持つと、ゴクリと聞こえそうなほどに生唾を呑む。

「練習に、付き合ってくれませんか」

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