第16話

 太陽が南天に輝く頃には、国中が大騒ぎだった。

 女王軍を打ち倒し、反乱軍は王宮から凱旋した。瀕死の重傷を負い、エリスの魔法によって治療されたとはいえ、完全に体力が回復していないディーンは仲間に支えられながら反乱軍の勝利を謳った。それを聞いた民が皆、夜が明けたばかりだというのに家から飛び出してきて反乱軍を称えた。男たちは反乱軍として戦いに赴いた者たちを激励し、女たちは急いで家の中に戻り、身支度もほどほどに料理の準備を始めるのだった。今日は自由の勝利の宴──。

 この数日ろくに休んでいなかった反乱軍だったが、独裁王を打ち倒した歓喜に飲まれて今は疲れを忘れている。宴が始まるまでには全身についた返り血や汚れを清めて、一睡もしないまま飛び出していく。

 これから先、どれほどの苦労が待ち構えていることだろう。国を管理していたルーク王時代の重臣たちはほとんどが処刑されており、以後一切の内務を女王ひとりでこなしていたため、内政などをどうしていくのか、最初から皆で話し合っていかなければならない。今までに処刑された者たちの弔いもしてやりたい。

 けれど、それらはすべて今日という日が終わってからだ。今日だけは勝利の美酒に酔っても罰は当たるまい。苦しかった戦いの終わりであり、新しい歴史の始まりなのだ。

 そうして正午から宴が始まった。まだ心持ち顔色が悪いディーンだったが、これまで反乱軍を引っ張ってきたリーダーがこの祝いの場にいない訳にはいかず、半ば引きずられるようにしてアレクに連れて行かれてしまった。ディーンはやはり本調子でないのか、反乱軍の仲間や民に感謝の言葉を述べるに留まり、あとは微笑んだまま聞き役に回っていた。その代わりにディーンの戦いをずっと見ていたアレクが、聞きたがる者たちすべてに臨場感たっぷりにその戦いぶりを語って聞かせている。この半年というもの、ずっとどこか不機嫌そうな顔をしていたアレクでさえも、全開の輝くばかりの笑顔だった。

 暗雲がたちこめていたこの王国に、再び自由という太陽が戻ってきたのだ。誰もがその光を浴びて咲く花のように、弾けるように笑っていた。


 賑やかで笑いが絶えない、それはなんと平和な光景なのだろう。

 アープ家の二階の窓から宴の様子を眺めていたリグルは思う。たった数日この国に滞在しただけのリグルでさえ、あの重苦しい空気が辛かったのだ。この半年の間、この国で過ごしてきた民にとって、今日のこの日はどれだけ待ちわびたことであろうか。そして改めて思う、そんな暗い状況で十年前に突然姿を消したシルヴィアを『国を捨てた』と、罵りたくもなって当然ではなかろうか。誇り高き翡翠騎士の団長でありながら、国のために力が必要なときにはいないだなんて。

「……リグルさん」

 傍らのベッドで横たわっているエリスが不意に声をかけた。ディーンを治療するのに一気に魔力を集中させたせいもあろう、緊張の糸が切れて急激な疲れに襲われたエリスはそのまま自室で休んでいた。リグルは宴に出るつもりはなかったので、動けないエリスに付き添っているのである。

「寝てたんじゃ?」

「うん、ちょっと前に目は覚めたんだけど」

 ベッドのすぐ横に掛けているリグルが頬杖をついて窓の外を眺めている間中、どこか彼は晴れ晴れとしない顔をしていた。何を思っているかまでは解らないが、楽しいことであるはずがない。ほんのわずかな間にあまりにもいろいろなことが起こりすぎて、エリス自身もまだ頭の中が麻痺した状態なのだ。父をかつて慕っていた者に殺され、母もまた救うことができず、女王が独裁に走るまでの胸中を聞かされた。そんなリグルが何を想っているかなどと──。

 覚悟していたこととはいえ、自分もまた両親を失った。それもあんな衝撃的な形で。父母の形見である魔法の粉を懐にしまいこんだまま、エリスはそっとそれに触れる。

 けれども、リグルを励ます言葉のひとつも出てこない。彼はそんなものは求めてはいないだろうが、それでもせめてさりげなく、何か元気づけるような言葉のひとつでも言いたかった。なのにエリスの内にその語彙がないのか、或いは今は彼女自身もまた空っぽなのか、言うべき言葉が見つからない。

 だから、声をかけた。だがまさか訊くわけにもいかない、何を考えていたのかなどとは。

「女王に……最期、何て言ったの?」

 リグルが女王との戦いに決着をつけたとき、エリスはようやくたどり着いたディーンの治療をしていた。魔法を唱え終わって眩暈を起こすまでの間に、リグルが女王に何かを言っているのが見えた。だが内容までは聞き取れなかった。

「うん……」

 どこか歯切れの悪い答えでリグルはそのまま何かを考え込むように黙り込んでしまった。エリスは事態を悪化させてしまったかと思いつつも、大人しくリグルの次の言葉を待つ。

「考えてたんだけど」

 うまくまとまりきらなかったのか、どこかすっきりとしない口調だった。

「ルーク王の最期の言葉は『シルヴィア』だったって言ってたよね」

「うん」

「思うんだけど、その続きがあったんじゃないかな」

「……続き?」

「俺は父上に『ジルベールに戻って【護れ】』って言われたんだ。そりゃあ意味なんて解らないさ。母上は翡翠騎士の名の由来は『永遠』、『ルーク王の最愛のひとの瞳の色だから』って言い残した。……ルーク王の最愛の人って、誰だと思う?」

 リグルに問われて、エリスは王宮で見かけた人たちを思い出してみる。それは幼い頃の記憶だったから思い出すのに時間がかかったが、ひとりひとり指折り数えていく。

 まず親友でもあった三英雄。シルヴィアは黒い瞳だし、アープ──父は青だった。ルークの両親は直接会ったことはないが、確か青かグレーのはずだ。ルークがグレーであり、ベルティーナが青だったから。

 緑色の、翡翠のような瞳をした者など、ひとりしか、いない。

「……」

「……その人を護るために『翡翠騎士』はあったと思うんだ。だからきっと、ルーク王は彼が一番信頼していたかつての翡翠騎士団長、『シルヴィア』に、もう先が長くない自分に代わって護ってくれって、そう言いたかったんじゃないかな……」

 シルヴィア……頼む、彼女を護ってくれ……。

 そう、言いたかったのではないか。

 ルーク・ジルベールもまたとうに故人だ。確かめられようはずもない。

「なんてね。俺の勝手な解釈かな」

 ルークは自分をよくかわいがってくれた。その人を悪く思いたくはないから、必死にかばおうとそういう考えをするのではないかと自嘲しながら軽くおどけてみせた。そんなリグルに、エリスはただ静かに首を横に振るだけだった。

「もう少し休んだほうがいいよ」

「リグルさんはいいの?」

「俺は平気だよ」

「そうじゃなくて……」

 目の前で母を失ったとき、リグルは泣くのは全てが終わってからとそう言った。だがすべての戦いを終えてからも誰かを気遣うか考え事をしているだけで、嘆いたり泣いたりという様子はない。何もかもの感情を我慢していたら気がどうにかしてしまうのではないか。

 そう言いたかったのだが、そっと微笑まれてしまうとその言葉は飲み込むしかできなかった。そもそも年上の男性に対して泣かなくてもいいのかなんて、失礼にあたるのではないか。

「えっと、そういえばルティナってどうしたのかしら」

 強引に話を逸らした。自宅に戻ってきたときには出迎えてくれたのだが、それ以来見ていない。リグルがずっとそばにいてくれてはいるが、ルティナがいれば彼女もまた見舞いにきてくれてもよさそうなものなのだが。

「ああ、彼女にはちょっと頼みごとをしたんだ」

「ルティナに? 何を?」

「花を摘んできてくれって」

 祝いの花なら放っておいても通り中に溢れ返るだろう。彼女に念を押して頼んだというなら、それは手向けの花なのだろう。

「ほら、もう休んで」

「はぁい」

 果たして眠れるだろうかと思ったのだが、やはり疲れているのか、目を閉じるとすぐにやすらかな眠りの底に誘われた。

「……おつかれさま」

 エリスのあどけない寝顔に、リグルはそっと微笑んだ。


 再びエリスが目覚めたのは夕暮れだった。西の空にも夜の帳が下りようというのに宴は収まる気配もない。開け放たれたままの窓から入り込んでくる風が少し肌寒かった。ふと見れば、リグルは窓のすぐ下で膝を抱えたまま眠ってしまったようだった。

 眩暈を起こさないように静かに身体を起こし、エリスは窓の外を少し覗いてみた。この付近にはあまり人はいないが、どこからか賑やかな声が聞こえてくる。兄は今日は帰ってこられないかな……と思いつつ、そっと窓を閉める。

 自分に付き添ったまま、やはりリグルも疲れていたのだろう。その場で座り込んで眠ってしまうなんて。その姿に微笑んで、エリスは自分がさっきまで着ていた毛布をリグルにかけてやろうと屈みこんだ。

「……ははうえ……」

 聞き取れるか否かというほどの小さな声でリグルが呟いた。おそらくは寝言なのだろうが、あまりのか細さにエリスはぎょっとしてリグルの顔を覗き込んだ。

「……っ」

 リグルの閉じられた両の瞳から、一滴の涙が頬を伝っていた。

「……私の前でくらい、大声で泣いたっていいのに……」

 父母から厳しく躾られて、リグルは人前では決して泣かなかった。転んでも悔しくても、歯を食いしばってじっと耐えた。思えば英雄と呼ばれた父に『男が泣くな』と言われていたのかもしれない。

 そんな彼は悲しみとか苦しみとかを、人前で──いや、それを表現する手段を知らないのだろう。だから大切な人を失った悲しみでさえ、夢の中でしか涙を流せないのだ。或いは泣きたかったのかもしれない。叫びたかったのかもしれない。それらをずっと抱えたまま戦って、戦いが終わった後も反乱軍の仲間や幼馴染のエリスにさえ気を張って、たったひとりで抱え込んでしまうのだ。

 この人は真実誰かに心を許せるのだろうか。

 両親から自分の感情を制御することを躾られた彼が、無防備な感情をありのままにぶつけることができる相手が、存在するのだろうか。

 できればいつか、自分がそんな存在になれますように。

 エリスはリグルの涙をやわらかい唇で拭うと、そのまま自分もリグルの隣で膝を抱えて、一緒に毛布にくるまった。


「……?」

 頬に触れた温かい感触に、ふとリグルは目を覚ました。ぼんやりとしたままの思考で、床に座り込んで寝てしまったという状況を把握する。思っていたよりはるかに疲労がたまっていたのだろう、身体はだるく、頭が冴えない。どれだけかぼんやりとしていて、ようやく毛布が掛けられていることに気が付く。

「エリス?」

 自分にもたれて、エリスもまた床で座り込んで眠ってしまっていた。同じ毛布にくるまって、すやすやと寝息を立てている。

 このままその姿勢で眠っては後々辛かろうと、エリスを抱えてベッドに戻そうと思ったのだが、なんとなく……リグルはそうする気にはなれなかった。

 しあわせそうに眠るエリスの横顔にそっとくちづけると、彼女をそっと抱き寄せて、リグルは改めて毛布にくるまって眠りに落ちていった。

 外の賑やかさから隔離されたように、その部屋にあるのは静かな寝息だけだった。


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 それから半日ほど時を遡る。

 反乱軍が謁見の間で歓喜の声を上げている頃、最後の翡翠騎士団長ラスフィール・アルシオーネは息絶えた主君を抱えて広い裏庭に出ていた。そこにはささやかではあるがルーク・ジルベールの墓がある。そのすぐ裏で、ラスフィールは剣と素手で土を掘り返していた。

 数年前にルーク・ジルベールが崩御して重臣たちを処刑した後あたりから、女王はよくこの墓前で物思いにふけることがあった。何かを語りかけるようでもあり、何かを聞き取ろうとするかのようでもあった。半年前に発病するまでそれは続いた。

 思えば、女王もまたルークを愛していたのではないだろうか。

 家族を祖国を自由を尊厳を、奪った仇が死に臨んだときの言葉が憎き者の名だからといって、とっさに命を奪ってしまおうと思うほどの激情にかられるものなのだろうか。それはやはり、心のどこかで彼を愛していたから──愛されたかったからではないだろうか。

 ラスフィールは少年の頃、初めてロゼーヌというひとりの女性を見た瞬間に心を奪われた。守りたいと、笑顔を見たいと思った。事実彼女のためならば何でもした。内密に旧モルタヴィア王族を暗殺したし、重臣たちの処刑もした。反乱軍を幾人も斬った。そして、師と仰ぐウュリア・シルヴィアさえこの手にかけた。どれだけ血に汚れても、彼女への想いだけは変わらなかった。

 ロゼーヌを愛していた。

 またロゼーヌも自分を愛してくれた。……ただそれは、友としてでしかなかったのだ。誰よりも信頼してくれていた。身分を超えて心を開いてくれはしたけれど、彼女の中で最愛の親友であったであろうけれど。

 それはラスフィールが真に求めるものではなかったのだ。しかし騎士としての誇りが彼にそれを許しはしなかった。女王が友として自分を見てくれたのは嬉しかったが、それを受けてしまえばどこまでも欲が出て、もっともっと彼女に近づきたくなる衝動を押さえきれなくなる予感がした。

 もう名前では呼んではくれぬのか?

 寂しそうに女王が言った。それでも自分は一線を画したまま陛下と呼び続けた。そうすることで女王の心を拒み、また自分を厳しく律した。

 自分の想いは女王の命令を遂行することで伝えるしかできない彼に、女王は最期に酷い命令をした。

 最期まで見届けよ。何があっても手を出してはならぬ──。

 例え自分がシルヴィアに殺されようとも……。

 守りたいと、笑顔を見たいと願う彼に、女王は自分が殺されるさまを見届けろと言ったのだ。それはなんと残酷なことだったろう。すぐにでも飛び出して彼女を守りたかったが、血が滲むほどに歯をくいしばって耐え抜いた。それが彼女の最期の願いだというのなら……。

 無言のまま土を掘り返し続け、ようやく人ひとり分ほどの穴ができた頃にはラスフィールの両手の爪ははがれ、痛々しく血を流していた。だがそれにはまるで構わず、ラスフィールは傍らに横たわらせたままの女王を抱き上げて、真新しい土の上に彼女を眠らせる。

「……私はずっと、あなたを愛していました……」

 初めて彼女を見たときから美しいとは思ったが、それはどこか歪なものであった。息絶えて今、冷たくなってしまった彼女は、それなのになんと美しい穏やかな笑顔なのだろう。暖かい日の光の祝福を受けた少女のような優しい笑顔で、女王は永遠の眠りについた。

「ロゼーヌ様……」

 二度と応えぬ最愛なる者に、ラスフィールはそっと唇を重ねた。最初で最後の、それが彼の告白だった。

 やがて東の空が明るくなってきた。長い夜はもう終わりを告げる。

 あまりにも長い、それはつらくもあり、しあわせでもあった夢のような時もまた、終わりを告げる。

 美しい彼女の姿を目に焼き付けるように瞬きもせず、ラスフィールは掘り返した土を再び戻した。指先の感覚が失われていたがその手を止めることはなかった。

 完全にその姿を土の中に隠してしまったロゼーヌに敬礼すると、ラスフィールは昇ってくる太陽を見つめ、朝陽の中に短剣を輝かせた。それは女王が常に肌身離さず持っていたものだ。

「ウュリア様……お許しください、あなたとの約束は守れそうにありません」

 剣を向けた自分に対し、両の手を広げてリグルを頼むとそう言ったウュリア・シルヴィア。そこに見た彼の想いに怖気づいて、斬りつけたまま生死の確認もせず逃げ出してしまった。こんな未熟者がついていなくとも、リグルはしっかりやっていけるだろう。

「私は申し上げました。この身はロゼーヌ様のものだと」

 この魂も、すべて捧げた。最愛なるただひとりのために。

「……今、お供します」

 ロゼーヌの短剣を、何の迷いも躊躇いもなく己の喉に突き立てた。それを引き抜くと、鮮血が弧を描いて飛び散った。その様子を眺めながら、ラスフィールは音もなくロゼーヌのすぐ傍らに倒れた。

「……?」

 白く小さな花が甘い香りを漂わせながらラスフィールの上に降ってきた。朝の光の中で、それはまるで天使の羽が舞い降りてきたかのようだった。

 こんな自分にも、天使が迎えにきてくれるのか。

 あたたかい光に包まれながら、ラスフィールはそっと目を閉じた。


 許されぬ罪も過ちも、すべてを消し去るように金色に輝く陽が昇る──。

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