夜の闇は谺すら返さない

 やはり、デュオニュソスの影響は消えない。それがため、しな子は念象力を取り戻し、更に強力になったわけであるが、意識してコントロール出来るものでもないらしい。どういうメカニズムで念象力が発揮されるのかおぼろげにしか分かっておらず、どれも仮説の域を出ないから、デュオニュソスがあるせいで何故しな子が意識を失ったり、自我を失ったりするのかも明確には分からない。赤部に出来ることは、しな子の身体をゆすり、声をかけてやることのみである。

「おいおい、お姉ちゃん、飲みすぎだろう。朱里ちゃん、冷たいおしぼり持ってきてやりな」

 同じく常連らしい客が、しな子を気遣う。

 朱里が素早くおしぼりを取りにキッチンに入り、すぐに赤部に手渡す。

「ごめん、朱里ちゃん。いつになく、こいつ、飲みすぎたらしい」

「そうね、しな子ちゃんが自分のことをあんなに話すなんて」

 しな子の顔は、酔いつぶれていると言われれば納得するほど、自然に赤らんでいる。

「カシスオレンジでこうなっちゃ、世話ねえわ」

 赤部は朱里や周りの客にそう明るく言いながら、しな子の頭を自分の膝の上に置いた。

「ごめんな、朱里ちゃん。お勘定頼む。こいつが動けるようになるまで、少し休ませてやってもいいか」

「ええ、そうしてあげて。救急車呼ぶなら、言って下さいね」

「はは、大丈夫さ」

 しな子は、また浅い眠りに入っている。赤部は、しばらくそのまま様子を見た。

「大丈夫かよ、姉ちゃん」

 心配したサラリーマン風の男が、ビールのジョッキを片手に赤部が座る座敷の縁に腰かけた。しな子の身の上話に鼻をすすっていたからであるが、美人でなければ、こうはならなかったかもしれない。

「俺の娘とそう変わらねぇんじゃないか、ひょっとして。苦労してんなぁ。俺も、次の休みは娘をどっか連れていってやろうかな」

 何か感ずるところがあるのか、ビールをぐいと飲み干す。

「これでもさ、頑張ってんだぜ、俺。それが娘の奴ときたら、カミさんと一緒になって、俺のこと汚いだとか臭いだとか。たまんねぇよな。まあ、それでも俺の大事な娘だ、苦労はさせたくねぇ。もう、来年、大学なんだ」

 赤部は、同情的な笑みを返してやりながら、しな子の額に当てたおしぼりを裏返した。その視線が、店の入り口の方に行く。赤部の位置からだと、腰かけて愚痴をこぼす男で入り口から入って来た者が見えない。しかし、いらっしゃいませ、と言う朱里に答える声に、全身の毛が逆立った。

「やあ、お姉さん。また来たよ」

 余裕を見せつけるような口ぶり。鼻にかかった、高めの声。今流行りの歌でも歌わせれば、カラオケで女性受けが良いだろう。そして、長い手足が、赤部の視界に。

「おや、赤部さん。奇遇ですね」

「てめぇ、川北」

 川北である。堂々と、高そうな秋物のジャケットを羽織り、カウンター席に腰かけている。

「あれ、赤部さんと川北さん、知り合い?」

 朱里が、驚いた顔をして二人を見比べている。

「ちょっとした、な」

「そう、ちょっとした、ね」

「何しに来た」

「何って、しな子に用があるに決まってる」

「気安く呼ぶな」

 赤部は、しな子の頭を膝から外し、折った座布団の上に置いてやり、ラッキーストライクを咥えた。懐に手をやり、拳銃の安全装置を外す。

「あなたとしな子がここによく来るというから、このところ通っていたんですよ」

「何のために」

 川北は、しな子の命を狙っている。マンションにまで押し入って、モデルガンで遊戯のように襲って来て、自らの存在と実力を誇示するだけし、去って行ったのだ。赤部には、川北が分からない。彼が殺し屋であることは明らかだが、殺し屋なら、自らの存在が人に知られてはならない。音もなく現れ、気付いたときには消えている。赤部の知る殺し屋とは、そういうものだった。しな子のことを殺し屋と言ったりするのは嫌いだが、しな子もその存在を知られることなく、標的を葬り去る。それが、川北に限って、今からあなた方に危害を加えますと宣言した上で、スポーツのようにしてでそれをやめ、立ち去ったのだ。どういう意図があるのか理解出来ない分、警戒心も強くなる。

 ここで、発砲するわけにはいかない。先日の振る舞いからすれば、川北は拳銃は使わないらしい。だが得意であろう刃物をここで振り回すことは出来ないというのは彼も同じはずである。それを承知で、赤部としな子の前に姿を現したということは、危害を加える以外の目的があるということになる。

「灰、落ちますよ」

 言われて、赤部は煙草を口から離そうとしたが、乾いた唇にフィルターが張り付いていて、結局ジャケットに灰が落ちてしまった。

「ほら、言わんこっちゃない」

 赤部はくすくすと笑う川北の整った鼻筋をへし折ってやりたい衝動に駆られたが、堪えた。

「要件を言え」

 朱里は、二人の間柄がただ事でないことを察し、キッチンで素知らぬ顔をしてドリンクの準備をしている。

「お姉さん、オーダー」

 その朱里に、川北は気さくに声をかけた。

「ええ、ごめんなさい」

「コーラ一つね」

 馬鹿にしていやがる、と赤部は思った。しかし、これも心を揺さぶり隙を作るためかもしれぬと思いなおし、もう一本煙草を咥えた。

「なんだ、兄ちゃん、コーラだけかよ。出し巻きがオススメだぜ。あと、朱里ちゃんが注いでくれる生は、最高なんだ」

 愚痴をこぼしていた男が縁から立ち上がり、川北のところへ。

「馬鹿、やめろ――」

 赤部が制止しようとしたが、遅かった。

「申し訳ない、酒は好きじゃない」

 川北が、座ったまま、男の方を向き直った。男が、うっと声を上げ、床に崩れ落ちる。店の中に、悲鳴が響く。死んではいない、と赤部はすぐ察したが、勢いよく立ち上がり、革靴の踵を踏み、川北の前に立った。

「表に出ろ、川北」

「どうして?まだ、コーラが来ていない」

「ここでドンパチやるつもりか」

「まさか」

「いいから、来い」

 血の気が多いなあ、と呟きながら、川北が立ち上がった。

「朱里ちゃん。しな子を頼む。それと、その親父さんには、救急車が要る」

「は、はい」

 朱里は、震えながら救急車を呼ぶべく受話器に手をかけた。その手に自らのそれをそっと重ね、

「コーラ、お願いしますね、お姉さん。氷が溶ける前に、戻ってきますから」

 先に立って歩き始めた赤部は、かっとなるのを抑えた。あまり得意ではないが、これでもライナーノーツ時代から感情をコントロールするトレーニングは積んでいる。


 裏手の路地を抜け、夜の公園へ。

「参ったな。今日は、やり合うつもりじゃなかった」

 川北が、ジャケットのボタンを外す。

 赤部が、拳銃を抜く。

 発砲。無論、射線に住宅などが無いことを確認した上でのことであるが、問答無用である。

 六発。それが全て外れた。

 もう一丁の拳銃に手をやるときには、もう川北はに入って来ている。

「あなたは、何度死ねば気が済むんだ」

 赤部の首に、冷たい感触。それに、仄かな熱。そして、薄い痛み。

「拳銃に頼っていちゃ、駄目だな」

 刃物を握ったまま、空いた左手で赤部のジャケットの中に手を入れ、拳銃を抜き取る。

「ほら、どうする?警察が来るぞ」

 奪った拳銃をひらひらと見せつけるようにして、刃物を引いた。

「眠り姫を起こすのは、あなたじゃない」

 ナイフを擬し、拳銃を放り捨てる。

 赤部の身体が、動く。

 腰を大きく捻り、頭も下げる。

 そのまま、後ろ足で回し蹴りを放つ姿勢である。

 体術において、ふつう、いきなりこのような大技で仕掛けることはない。

 素人か、と川北は眉をひそめた。

 川北が一歩退いたから、案の定、赤部の脚は空を切る。それが三分の二周したところで、更に斜め軸に身体が旋回する。

 膝を曲げ、踵を跳ね上げ、手が、くるぶしへ。

 そこからちらりと露出した二二口径。

 それを抜き、元の体勢に戻ると、川北の額に銃口が向いた。

「拳銃が二丁だけという思い込みは、ハリウッドの西部劇のせいか」

「――驚いた。戦い慣れているな」

 川北は、単純に感心しているらしい。どういう神経をしているのか、やはり赤部には分からない。もう秋だと言うのに、赤部は暑さとは無関係な汗を流している。それが、川北には全くない。呼吸の乱れが無いということは、心の乱れも無いということだ。

「このままじゃ、氷が溶けるまでに戻るのは無理そうだ」

 口の中で川北は笑い、刃物を仕舞った。

「一体、何が目的なんだ」

 赤部は、拳銃を降ろすことはない。

「それを説明してもいいが、それをしているうちに警察が来る。ここで、立ち去るさ。お互い、取り調べは面倒だろう」

 赤部も応じ、拳銃を仕舞った。

「もう一つも、片付けるのを忘れないように。三つも拳銃を持っていたが、あなたは後先考えずに発砲した。俺の胸を撃ち抜くほど落ち着いて引き金を絞れないような精神状態であるにも関わらず。刃物なら、俺を殺せていたかもしれないのにな」

 いや、と自分に向かって言うように、川北は続ける。

「そうしたら、ほんとうに俺があなたを殺していたな」

 そのまま、闇の中に消えてゆくのを、赤部はどうすることも出来なかった。その気になれば、川北の後ろ姿に飛び付き、首を捻って殺すことも出来た。赤部は、言わずもがな、この世界が長い。あれは、危険な男だと本能が警鐘を鳴らしている。放っておけば、いずれしな子に大きな危害が及ぶ。そう確信するほどに危険だと分かるが、どうすることも出来なかった。

 恐れ。赤部自身認めたくはないが、認めざるを得まい。

 この世界の人間としての本能が、川北を殺すべきだと訴えかけるよりも強く、一個の生き物としての本能が、川北と向かい合ってはならないと訴えかけて来るのだ。だから、今夜、川北が目の前に現れても、自分としな子に危害が無かったことに胸を撫で下ろさざるを得ない。

 しな子。

 赤部の思考が、そこに向いた。

 これも本能であろうか、嫌な予感がした。今夜の川北の行動は、余りにもおかしい。どういう理屈をもって考えても、説明の付かない行動である。

 駆け足で、居酒屋に戻る。


 打撃を食らったか何かで倒れた男は、救急車で運ばれた後だった。

「朱里ちゃん」

 息を弾ませ、朱里に声をかける。

「しな子は」

 座敷に、しな子の姿がない。

「しな子ちゃんは、さっき、車で帰りましたよ?」

「車で?」

「赤部さんとしな子ちゃんの知り合いって女の人が」

 赤部の顔が、青ざめてゆく。

「OL風の恰好をした、綺麗な人。赤部さんに頼まれたから、って。あれ――?」

 赤部は、そのまま店を駆け出した。

 しな子は、どこに連れて行かれたのか。

 自らの軽率と短慮を恥じた。

 全て、川北が仕組んだのだ。赤部を、しな子から引き離すため。

 しな子を殺すことではなく、しな子そのものを欲しがっていたのか。

 かつて同じようにしな子を求めた、パルテノンコーポレーションの松本のことが頭をよぎる。

 くそ、とどれだけ大きな声で叫んでも、夜の闇はこだますら返さない。

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