第19話

 街を少しばかり観光し、カスターニャ市へ戻る。

 レストラン『グアマンド』では、ダンに遊ばれて涙目になっているプリンセス・トルタが待っていた。暇を持て余したこの店の息子に、耳を引っ張られ顔を抓られ大変な思いをしたらしい。

 そのまま二階にある空部屋に泊まり込み、店の手伝いをして五日目の朝。

 オリヴィアは駅にいた。

 白いブラウスとブラウンのロングスカートは着てきたもの。黒のハンドバックとグレイの帽子はこちらで購入したものだ。宿泊代と交通費を稼ぐだけのつもりだったのに、店主の好意で少しばかり多めに包んでもらった。着の身着のままやってきたので、申し訳ない反面とてもとてもありがたかった。

「……もう、あと五分で汽車が来るわ」

 今日は少しばかり風が強い。そのようなことを感じながら、彼女は帽子のつばを抑えた。髪を縛って正解だったと思う。もしもそうでなかったら、髪の毛が顔に纏わりついて大変なことになっただろう。

「ああ、そうだな」

 彼女の見送りに対し、ウィルはあまり気乗りのしない様子であった。「面倒だ」「気が進まない」と直前までごねていた。オリヴィアは無理にこなくてもいいと言ったのだが、結局店主親子に言いくるめられ、今こうして、彼女の目の前に立っている。

「ごめんなさい。本当に沢山迷惑かけたわ」

「そんなこと欠片も思ってないだろ」

「思ってるわ。本当に感謝してる」

 などと言いつつも、実際は本当に、口だけの謝罪なのかもしれないと彼女は思う。なぜならまだ、ことは解決していない。

 唇だけで笑みを作り、ハンドバックを握りしめた。

「……大丈夫かしら」

 彼女は怖い。家に帰ることが、あの家で起こるであろう出来事が、怖くて怖くて仕方がない。

 彼女の小さな震えを感じ取ったのだろうか、ウィルは意味もなく耳を掻くと、ひどく気の抜けた口調でこう言った。

「気にするなよ。一応、こっちでも少しばかり、調べて置いてやるから」

「……ええ」

「なんならエドガーにでも連絡すればいいし……シャルルもいるだろ」

「……最後の人はいらないわ」

 明確な拒否に、ウィルが、ぷっ、と噴出した。それにつられて、オリヴィアも笑う。

「ねぇ。プリンセス・トルタは、あなたの元にずっといるの?」

「ああ。あいつ、差し押さえだから。暫く俺が預かっとくわ。担保代わり」

「大事にしてね。じゃないとあなた、呪われちゃうわ」

 彼女のジョークに、ウィルがにやりと八重歯を見せた。

 遠くの方で汽笛の音が聞こえる――そろそろ時間だ。周りにも人が集まってきた。

 強い風に負けないようにしっかりと帽子を被り直し、ウィルに向き直った。

「時間だわ。行かないと。プリンセス・トルタのこと、よろしくね」

 音だけであった汽車の煙が見えて、豆粒のような形が露わになる。そろそろお別れだ――あと八十メートル、あと五十メートル、あと十メートルという瞬間

「オリヴィア」

「え?」

 突如名前を呼ばれ振り向いた。瞬間、唇に触れた柔らかさに思わず心を奪われる。到着した汽車の中に、人々がどんどん吸い込まれていく。出遅れた彼女は、ウィルに押し込まれるかのように乗車した。

「ねぇ!」

 今のはなんだったのか、一体どういうことなのか、聞きたいことは沢山あった。けれどあまりにも突然すぎて、あまりに時間が短すぎて、何も言葉は出てこない。

 扉が閉まる瞬間に、ウィルは笑ってこう言った。

「どうしてもしんどくなったら、俺の名前を呼んで」

 どうして。なんで。色々と言わなければいけないのに、彼女が言葉を紡ぐ前に、扉は二人を分けてしまう。窓から姿を追いかけようとしても、汽車はあまりにも速くて彼の姿はどんどん遠くなるばかりだ。

 サングラスが完全に見えなくなって景色が山と川ばかりになった頃、オリヴィアはずるずるとその場に座り込んだ。誰にも顔を見られぬよう、帽子を深く深く被り直して、未だ新しい匂いの抜けないバッグに顔を埋めた。

(……煙草の匂いがした)

 初めてのキスはレモンの味などではなかった。ロマンの欠片も甘さもない、ただ触れるだけのキスだった。

『どうしてもしんどくなったら、俺の名前を呼んで』

 扉が閉まる直前、彼は彼女にそう言った。こちらの反論などまるで聞かないという態度で、あんなにも面倒くさそうにしてたくせに。

「……しんどくなったらって」

 熱を持った唇に、指先だけで軽く触れる。そのまま軽く動かして、ぎゅい、とバックを抱きしめた。

「……来てくれないじゃない、馬鹿」

 誰も聞き入れることのない彼女の呟きは、汽笛の音にかき消された。

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