第10話

 ウィルの帰還は、少しばかり間延びした日々をオリヴィアに届けた。

 ラミントンという菓子の名を持つクマのぬいぐるみは動くことをやめた。朝日が昇り太陽が暮れ夜の闇が世界を喰うまで、ベッドの上から延々と外を眺めていた。しゃべることは勿論、動いて誰かを驚かせることもぐるりと首を回転させることも一切ない。本当に、ただのぬいぐるみだ。

 アルビオンからやってきたエクソシストであるシャルル・ロワイエは、ウィルが去ってから一週間ほど滞在し、ラミントンが完全に活動を止めたことを確認して、クラブトゥール市に帰って行った。

「これでもうお嬢さんのぬいぐるみが動くことはないでしょう。もしもまたなにかございましたら、すぐにご連絡をください」

 シャルルの言葉にオリヴィアの父であるフリッツはひどく感激していたのだが、その一方娘であるオリヴィアは釈然としないものを感じていた。動くことのなくなったぬいぐるみもウィルの帰還も、彼女の胸に小さなひっかかりのようなものを与えていたのだ。

 よほど奇妙な顔をしていたのだろう、もう車に乗り込もうというタイミングのシャルルが、オリヴィアに視線を向けた。

「オリヴィアさん」

「あっ、はい」

「どうかしましたか? そんな悩むような顔をして……」

 トントン、と自分の眉間を叩くシャルルに、オリヴィアは思わず額を隠した。なんということだ。自分はそんなにもひどい顔をしていたのだろうか。

「ごめんなさい、今少し、考え事をしていて……」

 なんとか笑顔を作り上げたオリヴィアに、シャルルは同情するかのようにこう言った。

「オリヴィアさん、心配なのはわかります。恐ろしい思いをしてきたことでしょう。けれど、すべてはもう終わりました。僕が心配なのはあなたの心です。できれば、あなたのことをサポートしていきたい。今も、これからも、ずっと……」

 気が付かない間に手を握られているのは、これも一つの技なのだろう。ここにスティーブンが現れなかったらキスの一つもしていたのではないのかというようなタイミングで名前を呼ばれ、距離が離れた。が、シャルルは最後の一押しとばかりにオリヴィアの手の甲にキスを落とした。並の女ならば今すぐにでも溺れてしまいそうな美しい瞳を潤ませて、名残惜し気にその手を離した。

「もしも何かあったら連絡をください。どこにいてもすぐに駆け付けますから」

 そう言い残し車に乗り込んだシャルル。見えなくなるまで手を振り続ける彼のことを、オリヴィアはただただ見送った。

 客が在中している間は、屋敷全体が忙しく騒がしい――が、それが去れば静かなものだ。いつも通りポーレッドの怒声が屋敷全体に響き渡り、気難しい表情の父が出張を繰り返し、使用人達のモチベーションがそれらによって左右される。実のところ、これはあまりいい職場の条件ではないとオリヴィアは感じていた。けれどその反面、一時期よりも大分軟化されているとも感じていた。菓子の名を持つあのぬいぐるみがあちらこちら歩き回っているときよりは。

 まるで陽だまりのような暖かな日常を取り戻し始めた屋敷の空気に飲まれるかのように、オリヴィアもまた、以前の生活を取り戻しつつあった。

 家庭教師の下経営学を学び、時折父の仕事を手伝う。ポーレットから叱咤を受け、気まぐれでスティーブンの元を訪れ時間を潰す。牛のような柄の子猫の気が済むまで戯れては、ポーレットの目を掻い潜り部屋に戻る。時折友人の誘いを受けては街へ繰り出し、巷で流行しているスカートを購入した。流石は王都ホークウッド、ファッションからインテリアまで、流行を先取りしている。花柄のワンピースに白い帽子。髑髏ボタンのシャツは一体誰が着るのだろうと悩んだのだが、着る人が着れば似合うのだろうこういうものは。視線を感じて顔を上げる。そこには、黒いジャケット着てサングラスを掛けたマネキンがポーズを決めてこちらを見ていた。

 オリヴィアは時間を見つけては姉の部屋の片づけをした。

 掃除機をかけ、埃を落として机の上に雑巾を掛けた。布団を干す際、動かなくなったクマのぬいぐるみは椅子の上に着席させた。シャルルが施した床の落書きはオリヴィアの懸命なモップ掛けにも関わらず一向に薄くなることがなかったため、板を丸ごと全て貼りかえる羽目になった。

 ほどけかけたクマのリボンを結び直しながら、半ば誘拐される形でウィルの元に行ってしまった白いウサギは一体どうなってしまったのだろうと考える。クマのぬいぐるみ同様祓われたのか、それとも体よく扱き使われているのだろうか。もっとも、あまりよい扱いは受けているはずないだろう。

 ラミントンの名を持つクマのぬいぐるみは、大抵ベッドの上にいた。人の手を借り椅子の上、机の上など場所を変えつつも、いつのまにやらベッドの上に戻っていた。彼女は――オリヴィアはラミントンを“彼女”だと思っていた――もう一人では動けない。彼女が移動するのは、誰かが傍にいるときだけだ。彼女は今だ、姉の寝床で姉の帰りを待っていた。

 けれど、別れは突然訪れる。

 その日は朝から天気が悪かった。

 いつ雨が降ってもおかしくないというほどの曇り空の下、オリヴィアが外出をして家に戻ると、いつも通りベッドの上で姉の帰りを待っていたはずのラミントンが、どういうわけか姿を消していたのだ。

 室内だけではなく屋敷中ゴミ箱の中までも探し回ったオリヴィアに告げられた言葉は非情であった。

「ああ、捨てましたよ」

 ポーレットの一言は、オリヴィアに大声を出させるには充分だった。

「なんでそんなこと!」

「旦那様からのご命令です。事も済みましたし、もう、あのぬいぐるみも必要はないでしょう」

「そんなっ、あれはお姉ちゃんの!」

「オリヴィア様。シルヴィア様はもういらっしゃいません」

「でっ、でも――」

「旦那様からのご命令です。オリヴィア様とシルヴィア様が仲睦まじい姉妹だったことは、このポーレットもよく存じております。だからこそ、旦那様のご命令に従いぬいぐるみを処分させて頂きました。捨てることは忘却ではありません。シルヴィア様の宝物を捨てたからと言って、オリヴィア様とシルヴィア様の思い出が消えてなくなるわけではないでしょう。旦那様は今、悲しみを振り払い一生懸命前に進もうとしていらっしゃいます。ご納得下さいオリヴィア様」

 母が亡くなり、父が寄り付かなくなったこの家を実質守ってきたのはポーレットだった。機関坊なオリヴィアを宥め、体の弱いシルヴィアの面倒を見てきたのもポーレットだ。シルヴィアの体のことを馬鹿にされ近所の子供と大喧嘩したオリヴィアを叱咤しつつも抱きしめて褒めたのも彼女だったし、高い熱が三日三晩続いたシルヴィアの額を絶えず拭いていたのも彼女だ。

「オリヴィア様。ポーレットは、オリヴィア様のことを誰よりも一番大事に思っています。ポーレットの幸せはオリヴィア様の幸せです。それはきっと、天国にいるシルヴィア様も同じでしょう。どうか過去に捕らわれず、前を向いて歩いてください」

 真っすぐに告げられたポーレットの瞳はどこまでも優しく、どこまでもどこまでも温かく深かった。


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