第3話 ライゼ

ジェイが急いで春の丘に戻ると、大木の下にぐったりとした青年が仰向けに寝かされていた。


『ジェイ、森の風が来たぞ。何があった? 誰だ、こいつ』


 駆けつけてくるジェイに向かってやさしい風が急いたように訊ねた。彼は息を乱しながら鞄を放り出すと、青年の傍らにしゃがみ込み、


「訳ありっぽかったんだ! 怪我もしているから連れてきた。様子はどう?」と早口で捲くし立てる。


『脈が乱れている』


 やさしい風の深刻な応えに、ジェイは頬に汗が伝うのを感じた。大量の出血を伴う怪我をした場合、足りない血を補おうと心臓は早く動く。次に頻脈、そして最後には静かに停止する。間も無く彼の心臓は動くことをやめてしまうだろう。なす術なく、残された選択はただ一つ、死を待つばかりと、彼の心臓は諦めの境地に陥ってしまうのだ。


そこに、二人の間の重い空気を追い払うように少女たちの声が口々に言う。


『意識が戻りそうだぞ、ジェイ!』

『あ、目を開けたわ』

『ね、聞こえる、お兄さん?』


 ジェイは「えっ」と声を上げると、身を乗り出して青年の顔を覗きこんだ。

 青年は喉の奥で小さく呻くと、眉間にきゅっと皺を寄せて至近距離にあるジェイの瞳を見つめ返した。


「……お前は、誰だ」


 力の入らない吐息のような声は、酷く聞き取りづらかった。

 目は開いているが、ちゃんと見えているのかは定かではない。それでもジェイは、一心に彼の瞳の奥を見据え、はっきりと言葉を紡いだ。

「僕の名前はジェイ。怪我をして死にそうだった貴方を町の外れで保護しました。僕にはあなたを助けることができる唯一の手段があります。あなたが何から逃げていたのかは知りませんが、聞かせてください。あなたに生きる意志はありますか」

 青年は、薄く開けた瞼の下の紅茶色の双眸を一瞬だけきらりと光らせると、長い睫を揺らして目を閉じ、


「……ああ」


 小さく、けれど確かに頷いて、再び意識を手放した。

その時ジェイは、胸の内で冷たい稲妻が弾けるのを感じた。


『あ、また寝ちゃったよ』

『早くしないと死んでしまうわ』

『おい、ジェイ』


 若草たちの声を遮るように、やさしい風が鋭い声で言った。


「なに?」


 ジェイはやさしい風を振り返らずに返事する。


『お前の言う唯一の手段って何だ』

「……説明が必要か?」

『質問しているのはおれだ』

「……君が考えていることと同じ手段を、僕は用いるつもりだよ」


 ジェイが大木を見上げて言うと、やさしい風は小さく息を呑み、彼の決意を受け入れるかのように傍へ寄り添った。彼が近くに来るといつも緑の香りがする。


「この人は生きたいと願った。しかし、もうすぐ死ぬ。今から医者に連れてゆく時間はない。僕が助けるしかない。それに、この人の生きたいという願いを叶えてあげられるのは医者じゃなくて、この僕だ」


 いつも穏やかでのんびりした彼の口から出た決意の言葉は、別人格の放った言葉なのではないかと言うくらいに重く、普段のジェイからは想像もつかないほどに大人びていた。

 やさしい風はジェイを弟のように思っている。能天気でへらへらしている、手を焼かないと何もしない、放っておけない弟。そんなジェイが時折見せる人間らしい正義感は、やさしい風が彼を評価する一面でもあった。


『……この木はお前のものだ。好きにしていい。誰も咎める奴はいない。お前の考えは正しいよ』

「うん……」


 ジェイはおもむろに立ち上がると、己の迷いを断ち切るかのように頭を振ってから、大木の一番低いところで分かれた枝に手を伸ばし、勢いよく地面を蹴った。細い身体は、ひらひらと軽やかに大木を登ってゆく。


『気をつけて、ジェイ』

『落ちそうになったら私たちが受け止めるわ』

『かっこいいぞ、ジェイ!』


 若草たちが口々に言い、ジェイはそれに「うん」「ありがとう」と応じる。

 時折バランスを崩しそうになりながらも、次の枝へ手を伸ばし、上へ、上へと登ってゆく彼の軽快な身のこなしはなかなかのもので、大地の守り人たる大木と、地上の民の少年が手を取り合い、心を通わせてダンスをしているかのように見える。


 かなり細い枝へと左手をかけ、これ以上登ろうものなら枝が折れてしまうというところまで来ると、ジェイはすぐ近くにあった葉の茂ったところに右手を差込み、指先に固いものが触れたのを確認すると、それをしっかりと掴んでもぎ取った。直径五センチ程の丸みをしっかりと握り締めて地上に飛び降りると、手の中でころころと小さく音が鳴る。

その時、ジェイの心臓が一度だけ大きく跳ね上がった。耳元ではっきりと聞こえた、乱暴なまでの鼓動音に一瞬だけ息苦しさを感じたが、ジェイはそれに気付かないふりをして、命の火が消えかけた彼の傍に正座する。


 ジェイが掌を開くと、胡桃を思わせる木の実が姿を現した。固い殻の中に入った実がころ、と音を立てる。胡桃よりは大きなそれは、見た目がそれなだけで全く別の代物だ。

 ベルトに差し込んだ折りたたみナイフで殻を割ると、中からしっとりと丸い実が転がり出てきた。乳白色に艶めいたそれは傷一つない完璧な円形で、ずっしりと重い。

 ジェイはそれを指先で小さく砕くと、青年の口元へ持っていった。

すぐ傍でやさしい風が息を顰める気配がする。


『食べてくれるかしら』

「この人に生きる意志があるのなら、食べてくれるはずだ」


 ジェイの細い指が青年の唇を割り、細かくした実が口内へと落ちてゆく。


「飲み込んでくれ。生きたいのならば、そう願って飲み込んで」


 砕いた実がすべて彼の口の中へ入ると、しばらくの間、何の反応もなかったが、一度喉が弱く上下したかと思うと次の瞬間、思いっきり噎せた。

 みんなが驚いて「わっ」と声を上げる傍で、青年はしばらく咳を繰り返し、気管に入った異物を正常な道へ戻すと、じきに大人しくなった。

 暫しの間、みんな黙って青年の様子を見守っていたが、若草が『大丈夫かな』と沈黙を破ったのをきっかけにその場の空気が弛緩したようだった。

しかしジェイは、安心すると同時に胸の奥底が重く沈みこむような感覚に襲われた。この感覚は……。


「わからない。様子を見るよ」


 ジェイは青年の身体に巻きつけた外套を解き、ブリオーを大きく捲る。脇腹に開いた穴からはあれだけ流れていたのが嘘のように血が止まっていた。

 ジェイの後ろから怪我を覗き込んでいたやさしい風が、


『こいつは生きたいと願ったようだな。さすが“アルルの実”だ。願いを結ぶのが早い』


 その言葉を聞きながらジェイは立ち上がると、「やさしい風、僕は水を汲んでくる。彼を見ていてね」


『ああ』


 春の丘から南へ数百メートル歩いたところには、サーデルバ山脈から流れてくる清らかな水があり、人々の生活水の殆どはそこから引かれてきている。

 ジェイは平たい大石の上にぽつんと置いてあった木の器を持って、川へ続く小道を歩いていった。


        ☆


 青年の名を“ライゼ”といった。

 異国の言葉で“旅”を意味する通り彼は旅人であり、遠い地から己の脚のみでこの国までやってきた、熱い心を持つ若者である。

 ライゼは大地を彩る青々とした若草が、風に揺れて小人たちの囁き声のような音を奏でるのを聞き、葉の隙間から差し込む陽射しが頬を白く光らせている昼下がりの風景の中で目を覚ました。

 霞んでいた視界が徐々にくっきりと輪郭を現してゆく様をじっと見つめながら、彼は呟く。


「おれ……死んでねえ」


 誰かに話しかけるような口ぶりに応える者はいない。

 起き上がろうとして左脇腹がひどく痛み、傷口から脳天に向かって駆け抜けた苦痛は、森の中で複数人の賊に襲われたことを思い出させた。


(おれはどうなったんだ。どうしてこんなところで寝ているんだ)


 首をこてん、と横へ向けると下に町が見えた。反対側を向くと、頂に白い雪を残した峰々が遠くまで続いていた。

 自力でここまで辿りついたのかとも思ったが、否、弾丸で脇腹を抉られた自分がこの高さを登ってくるのは不可能だとその考えを一蹴する。

 ライゼは怪我の痛みをこらえて上半身を起こした。その時、脇腹を穿った怪我が横になっていたときと比べ物にならないほどに痛んだので、口から悲鳴が零れるのを抑えることができなかった。


「待って! 起きちゃ駄目ですよ。大怪我をしてたんですから」


 押し殺した悲鳴の間から聞こえた若い声は、山々の連なりが広がる方から放たれた。

 痛みで全身が震えるのを押さえつけながら、声のした方を向くと、ふわふわとカールした金の髪を白日の下に煌かせた、自分より五歳ほど年下と見える少年が小走りでやってくるのが見えた。手にした器には何かが入っているらしく、それを零さない程度に足を速めている。

 貫かれるような痛みに顔を歪めていると、少年は木をくり貫いて作った器を差し出してライゼの傍らへ膝をついた。

 彼は一度、透明の水が入った器へ視線を落としたが受け取ろうとはせず、少年を睨むような目で射抜き、「お前は誰だ」と言う。


「ジェイ・エイリク・リフェールです……。森の近くの小道であなたが倒れているところを保護させていただきました。これ、飲めますか?」


 ジェイが静かな声で丁寧に言うと、彼はもう一度、器を見、そっと受け取る。


「ありがとう」


 第一声で冷たく突っぱねるような言い方をしてしまったことにばつの悪さを感じながら、使い込まれた器に満たされた水で喉を潤した。

 水はひどく冷たかったが、大地の潤いと森の緑たちの深く甘やかな香りが満ちていて、とても美味であった。今思えば、ライゼは一日以上、何も口にしておらず久方振りの飲食は彼に心の潤いを与えた。


「……美味い」

「そうですか、よかったです」


 ジェイが警戒心を微塵もちらつかせずににっこり笑うので、彼はどんな顔でこの少年に向き合えばいいのかよくわからなかった。ライゼは気まずそうに地面に視線を落としたまま、歯切れ悪く口を開く。


「お前が助けてくれたって?」

「はい」

「……ありがとう。おれはライゼってんだ」

「ライゼさん」

「その名の通り旅人だよ。金星国ヴェヌスから来たんだ」


 金星国ヴェヌスにはこの大陸の首都があり、春の丘がある水星国メルクとは、サーデルバ山脈を国境に敷いた隣に位置する。


「遙々サーデルバ山脈を越えてきたのですか」

「ああ。静かな道を通りたくてな。山脈越えは自然ばっかで煩くなくていいぜ。そんなこと言って山脈から続く森を通ってきたせいで、賊に襲われたんだがな」


 傷が痛むのか、ライゼは少し顔を顰めながら言った。


「傷はどうですか」


 ジェイが訊ねると、彼は自分の腹に布が巻きつけられているのにたった今気がついたようで、驚いたような顔をした。


「これ、お前の?」

「はい。布がそれしかなかったので」

「悪いな、汚しちまって」

「かまいませんよ」

「弁償するよ」

「えっ、でも……そんな必要は――」

「いい。する」


 ジェイは助けたことへの見返りを求めていたわけではないが、持っている外套がこれ一枚だけであったこと、自分には新しいものを買うだけのお金がないことを考えて、彼の言葉に甘えることにした。


「すみません、気を使わせてしまって」

「いいよ。恩人だからな」


 ライゼは小さく笑いながら外套を剥ぐと、着古したブリオーを捲り上げて傷を覗き込んだ。次の瞬間、あっと声を上げる。


「見ろ、ジェイ!」


 ライゼは思わず声を荒げて、大きく肉の抉れた脇腹を指差した。


「あんなに出ていた血が止まっている! しかも傷が少し良くなっているように思うぜ」


 ジェイはずい、と前屈みになって怪我を覗き込むと、やけに白々しい口調で、


「わぁ、そうですね」


 そのわざとらしい演技はライゼにももちろん伝わり、怪訝そうな顔をする。

 胡乱げな視線が向けられていると気付いたジェイの顔が不器用に笑うが、その笑顔はひどく引き攣っている。

 しばらくの間、辺りは沈黙に包まれることになったが、その間もジェイは自分の背後を気にするような素振りを見せたり、手をわたつかせるなど挙動不審だった。

 ライゼはそんな恩人の様子に疑問を抱きながらも、深く追求することはせずに、


「お前の手当ての仕方がよかったんだな、きっと」


 と、この話を締めくくった。


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