六 喜多村由梨江の異世界教室

 津村稔は夢を見ていた。

 メルセルウストに召還させられる前の夢だ。

 あの賑やかで、幸福で、穏やかな日々の思い出は、とても暖かで、心地が良かった。

 だから自然と目が覚めて、自分が元の洞穴の中にいることを確認してしまった時、稔は酷く陰鬱な気持ちになった。

 今の生活こそが夢なんじゃないのか。そんな風に思いたかった。

 額を触ると、二本の角が生えている。これが現実だと冷徹に主張しているようだった。

「おはようございます」

 声が聞こえて、稔は振り返る。喜多村由梨江が女の子座りをしている。

「おはよう」

 稔が挨拶を返すと、由梨江は微笑みを浮かべて言う。

「良い夢を、見ていたんですね」

「え?」

「だって、寝言で言っていましたから」その時の情景を思い出したのか、くすっ、と由梨江は笑う。「雫さん……ですか? 元の世界の友達ですか?」

 その名を聞いた瞬間、稔の中で数々の思い出が去来した。

 暖かな気持ちになる。幸せを思い出す。けれどそれは一瞬の事で、今は遠くに過ぎ去った過去でしかなかった。

「……俺の、彼女だったんだ。雫は」

 ぽつりと漏らすように言った稔の言葉は、まるで一滴の雫みたいに儚かった。

「そう……だったんですか」

「ああ。と言っても、一週間ぐらい付き合ってからここに連れ去られたから、まだ全然だよ」

 稔は自虐的に口角を上げた。

「……よかったら聞かせてください」由梨江は優しい微笑を浮かべたまま提案する。「雫さんの事や、向こうでの生活の事を。大丈夫です。今日は時間がたっぷりとあります」

 その言葉にうまく乗せられたのか、稔は話の前後も脈絡もなく、思いつくままに喋り始めた。

 暴力的な妹。雷声の母。猫アレルギーの父。悪友。学校。趣味。それから、幼馴染みで大切な恋人の事について。

 由梨江は辛抱強く聞いていた。時に相づちを打ち、疑問を尋ね、稔から上手く話を聞き出している。

 稔はたくさん語った。こんなに話をしたのはずいぶんと久しぶりな気がする。だけど止まらない。由梨江に話せば話すほど、心の奥底にある膿が吐き出されていくようだった。

 どれぐらい話したのだろうか。稔は話疲れて、キリのいい所で口を止めた。まだまだ語りたい事は多くあったけれど、さすがにずっと喋るのは大変だった。

 二人の間に沈黙が流れる。とても穏やかな時間に感じられた。

 やがて由梨江は、

「幸せだったんですね」

 陰のある言い方でぽつりと言った。

「うん。幸せだった」

 間違いないなく、稔はそう言い切れる事が出来た。あの幸せを続ける事が出来るのなら、何だってしてみせるとさえ思う。だから、

「やっぱり、俺は元の世界に帰りたい」

 と言った。

「でも、私にはその方法が分かりません」

「うん。でも、きっと何か手立てがあるはずだ。だってこの世界に連れて来られたんだ。逆だってありえるはずだ」

「私だって、伊達に長い間ここにいたわけではありません。そう言う事はもちろん何度も考えました。召還魔法の仕組みは、おそらく魔法の力でワームホールのような穴を開いて、私たちの世界とつなげたんだと思います」

「わーむほーる?」

「SFの作品で聞いた事はありませんか? 簡単に言えば、ワープをするための方法の一つです。二つの空間に穴をあけて、トンネルでつなげる事で、遠く離れた場所に時間をかけずに行く事が出来るようになる、という考え方です。あなたも見たんですよね? あの黒い長方形を」

「うん」

 と、稔は頷いた。

「おそらくあれがワームホールだと思います」

「じゃあ、あの四角を通れば、元の世界に戻れるかもしれないんだな」

「そうなります。ですが、色々と問題があります」

「問題?」

「はい。私たちではワームホールを発生することができないんです」

「けどさ。それは魔法の力で作っているんだろ。だったら、手術で魔法が使えるようになっているなら、方法さえ分かれば出来るようになるんじゃ」

「無理です」

 由梨江はとても強く否定した。稔にはそれがどうしてなのかが分からない。

「……どうして?」

「言い忘れていた事なんですが」由梨江は申し訳なさそうに前置きしてから続ける。「手術をしても、私たちには一つだけしか魔法を使える事ができないからです」

「一つだけ、だって?」

「はい。例えば私は回復魔法しかつかえることができないんです」

 他にはなにもできません、と由梨江は言う。

 稔は愕然としながらも、それでも信じられない思いだった。

「練習すればさ、他のだって……」

「……そうですね。どうして他の魔法が使えないのか。それを説明するには、魔法について知る必要がありますね。……本当は明日からにするつもりでしたが、魔法について、この世界の事について、私が知っている限りの事をあなたに教えます。それから、この世界の言葉も」


「ここメルセルウストには、地球にはない気体が存在しています。私はそれを魔素と訳しています。そしてこの世界の人間には魔力器官という臓器があるそうです。魔力器官とは、大気中に漂っている魔素を取り込み、自らの魔力に変換する役目を負っています。魔力は魔法の源です。つまり、魔力を使って魔法を行う、という仕組みになっているわけです。どういう風に魔力を使っているのかは、どうにも感覚的なものらしくて……すみません、私にはよく分かりません。理論的にはいくつかの仮説があるそうなんですが、あの男が言うには、どれもロマンチストが作り出した空想の産物らしいです。

 とにかく、私たち地球の人間がこの星で魔法を使えないのは、つまり魔力器官という臓器を備えていないからなんです。

 魔素の性質は、他にもあります。高濃度の魔素に長い時間身をさらしていると、生き物は身体に異常な変化を起こします。火を噴くようになったり、巨大化したり、吹雪を発したりなどが主立った変化ですが、他にも様々な変化があり、全てを把握している人はいないようです。そうやって変化した生き物は、いわゆる魔物と呼ばれる存在になるわけです。

 魔物の中には再生能力に特化しているものがいます。私にはその魔物の細胞を至る所に埋め込まれていて、魔素に反応して細胞が再生能力を発揮しているんです。なので、私の魔法は人工的に植え付けられたものであり、自動的に行われるものなんです」

 ここまで説明してくれた由梨江に、稔は疑問をぶつけた。それは自分自身にしか使えないのか。他人を回復する事ができないのか、と。

 由梨江は首を横に振って、「いいえ」と応える。それから左右の手の平を稔に見せた。一見、何の変哲もない手の平。しかし次の瞬間、無数の小さな孔が、彼女の手の平に空いたのだ。そしてその孔は、淡く発光し始めた。

「これは魔力孔と呼びます。魔力孔は、私の意思で自由に開閉でき、開いている間は回復魔法が発動しています。この光は、回復魔法の光なんです。

 おそらくですが、私に移植された細胞が、魔素の影響を受けている間中、回復魔法が常に発動している状態になっているんだと思います。だから、私の意思で再生を止める事はできないんです。もしも再生が止まっている場合があるとすれば、それは何らかの理由で魔素の影響から外れている状態になっていると考えられます。

 回復魔法しか使えない理由。それはつまり、回復魔法以外の機能を植え付けられていないからなんです」

 それから、と由梨江は続ける。

「昨日の手術中、津村さんは覚えていないようですが、何度も死にかけたんですよ」

 稔は、唐突とも言える由梨江のその言葉に衝撃を覚えた。

「ですが、私が回復させる事で、どうにか治療する事ができました。あの時は、本当に生きた心地がしませんでした。本当に、本当に……」

 その時の様子を思い出したのか、由梨江の顔は青ざめていた。

「……ごめんなさい。あなたが苦しんでいるのに、止める事ができなくて。あなたが痛がっているのに、痛みを和らげる事ができなくて……。本当に、ごめんなさい」

 ひたすら謝る由梨江に対して、稔の胸の内から沸々と怒りが湧いてくる。

 彼女は何も悪い事をしていないのに。彼女は自分を卑下する必要なんてないのに。それでもなお謝ろうとする由梨江の姿勢。そうさせたのは全てあの男なのである。だから稔は、怒りを押さえ込む。

「なんで。なんで、謝るんだよ。君が謝る必要なんてない。悪いのは、全部あいつだ。あの男だ」

「ですが、私は何もできなくて。ただあの男の言う通りにするしかなくて。あのままあなたを死なせてあげれば、あなたはもうこれ以上苦しい目になんか合わないのに」

 それは聞き捨てならない言葉だった。封じ込めていた苛つきが、殻を破って出て来たのを稔は感じ取った。衝動のまま、

「ふざけるな!」

 稔は怒った。

 突然の大きな声に驚いたのか、由梨江の肩が一瞬びくりと震える。

 稔は両手を伸ばして由梨江の肩を掴んだ。怯えた眼を由梨江は稔に向けた。

「俺は、死にたくなんかない! 死んでなんかやるものか! 死んだ方が良かったなんて、君が勝手に決める事じゃない!」

 由梨江の目に涙がたまる。それを見た稔は、はっとして、手を離した。それから、

「ごめん、急に大きな声を出して。でも、俺は感謝してるんだよ、君に。本当だ。君が治してくれなかったら、俺は今ここにこうしていられなかったんだから」

「でも、きっと後悔します。昨日よりも苦しい目に、これから何度だって合うでしょう。死んだ方がマシだって、思う事がきっと何度も起きるはずです……」

 どうしてこんなことを言うのだろう。稔は不思議に思う。けれど由梨江の悲しい瞳を見た稔は、その時急に合点がいった。今まで彼女が語った言葉が、表情が、瞳が、ある一つの答えを導きだしたのである。

「もしかして、君は死にたいのか?」

「……はい」

 俯いて呟いた彼女の表情は、恐ろしいほど深い絶望に彩られている。

「私は何度も試しました。藁を結んで紐状にして、それで首をくくりました。頭を岩に何度も打ち付けました。隙を見てナイフを盗み出して、首を斬ったことだってあります。でも、死ねないんです、私の身体は。いつだって勝手に回復してしまう。どんなに致命傷な怪我だって、たちまち治してしまうんです。私はこんな身体、嫌いです。魔法なんて、大嫌いです」

「……でも、俺は君の魔法のおかげで、命を助けられた。本当にありがとう。君のおかげで、君がいるからこそ、俺はこれからがんばれる気がするよ。それだけは、覚えておいて欲しいんだ」

「……はい」

「ああ、それと。今まで言えなかったんだけどさ」

「なんでしょう?」

「敬語、止めないか?」

「でも、それは」

 しどろもどろに由梨江は言う。

「俺、苦手なんだよ敬語が。それにさ、俺たちはもう運命共同体みたいなものだろ? だから」

 止めにしないかと稔は言った。

 由梨江は考える素振りを見せて、

「分かりました」

 と言った。

 けれど、稔はゆっくりと首を横に振るう。

 あ、と由梨江は何かに気がついたのか、驚いた声を上げた。それから、恥ずかしそうに小さく口を開けて言う。

「……わかった」

 稔は笑顔を浮かべた。ここに来てから初めて見せた表情であった。


「では次に、言葉を勉強しま……勉強しよう」

 勉強という二字を由梨江の口から聞いた瞬間、稔は即座に「いやだ」と言った。

「だめ。これは、津村君のためなんだから」

 由梨江は思いのほか強く主張する。

「勉強、嫌いなんだ」

「それでもやらないと。だって、この世界で生きて行く以上、言葉がないと不便だよ。それに、元の世界に戻りたいんでしょ?」

 稔はうろたえながらも頷いた。

「だったら、覚えないと。大丈夫、私だって覚えられたんだから。元の世界に戻るためには、言葉は絶対に必要だと思うよ」

「うう……分かった」

 こうして言葉の勉強が始まった。

 由梨江はとりあえず簡単な単語を稔に教えて、実際に発音させてみる。

 なんだかんだ言いながらも、真面目に取り組む稔を見て、由梨江はなぜだか楽しく思う。

 どうしてだろう。

 そもそも楽しいと思う事自体、ここに来てから感じる事がなかった。

 今までの生活では、モルモットとして実験を受けているか、日がな一日ただ無気力に過ごすかの繰り返しで、毎日死にたいと願っていた。死ぬ方法を毎日考えていた。

 それが稔一人来てからがらりと変わったのである。

 死にたいと思っているのは今でも変わらないが、しかし今すぐ死にたいと思わなくなっている。そのことに由梨江は少しばかり驚いていた。稔の存在だけでこうも変わるとは思っていなかったのだ。

 やがて勉強を終えて、まずいパルツを二人で食べて、眠たくなるまで雑談をした。

 大体、稔が話す事が多い。話題は日本にいた頃のものだった。

 そうして話し疲れて、どちらともなく横になると、由梨江は何となく稔の方へ顔を向けた。

 稔は背中を見せている。少し残念だったが、もしも稔が起きていて、こちらに顔を向けたらと思うと、何だか恥ずかしい思いをする気がした。

 彼の幼馴染みで彼女でもある雫と言う子の事が気になっていた。単純に羨ましかった。もしも由梨江が稔の幼馴染みであったなら、今とは違う風になっていたのかもしれない。例えば、稔の彼女が由梨江だったなら、とか。

 由梨江は稔と腕を組んで歩いている姿を想像する。

 大きな町でデート。楽しいショッピングをするに違いない。恋愛映画を見たり、美味しい食事だってするだろう。それから口では言えないあんなことやこんなことや。

 思わず赤面した由梨江は、藁の中へと顔を突っ込んで、音を立てずに足をばたばたさせる。

 酷い妄想だ。由梨江も分かっている。そもそもこんな所に連れて来られなければ、稔と出会える事自体がなかったかもしれないのだ。

 だけど、もしもと考えずにいられない。そうであったら良いのにと思う。そうすればきっとずっと幸せだろう。このおかしな世界で地獄のような目に合っても、希望を見失ったりしていなかったかもしれない。ちょうど、今の稔のように。

 まったく運命のいたずらと言う奴は、まるで予測がつかない。幸福も不幸も気まぐれに与えてくる。比重はいつだって五分五分じゃない。大抵どちらか一方に偏っている。

 だからどうか、稔をこのまま元の世界に戻して欲しい。頭に生えた角も、奇麗さっぱり消して欲しい。由梨江自身のことは、どうだっていい。どうせ戻っても、心配してくれる人なんていないのだ。母も父も、自分たちの娘の事を道具としか思っていない。クラスメイトたちは上辺だけの付き合いで、友達と言える人は誰もいない。だから稔が戻ってくれれば、何の迷いもなく死ぬ事が出来る。まだ試していない自殺の方法はあるのだ。あの方法なら死ぬ事がきっと出来るはず。

 でも、今はその時じゃない。あれを手に入れていないし、手に入れる方法も未だ見出していない。それに、今は稔がいる。少なくとも、稔が生きる意思を持っているうちは生きてみよう。

 由梨江はそんな事を考えながら、眠りに就いたのだった。


 そして翌日。

「この星には、大陸が二つあるの」

 と、由梨江は昨日に引き続いて講義を始めた。

「へえ」

「大きい方と小さい方があって、大きい方が私たちが今いる大陸で、ヒカ大陸って言うの。小さい方がドグラガ大陸で……」

「……あのさ、質問」

 稔は由梨江の話を遮って手を挙げる。

「どうぞ」

「昨日も気になっていたんだけどさ。そういう情報ってどうやって仕入れたんだ? こんな所にずっといたら、何も入って来ないと思うんだけど」

「……あの男に直接聞いたの。とても簡単だったよ。だって聞いたら大抵の事は何でも答えてくれた。ほとんど自慢話だったけど。それからこの星の地図も見せてもらえたよ。さすがに私たちがいる詳しい場所までは教えてくれなかったけど。魔法のことは、特に詳しく教えてもらえたの。あの男の専門分野らしくて、誰かに自分の研究成果を話したくて話したくて仕方なかったんだと思う」

「あーなるほど」

「話、続けてもいい?」

「うん」

 こほん、と由梨江は一度咳払いをしてから仕切り直した。

「大きい方のヒカ大陸には、主に人間が住んでるの。で、当然ながら幾つかの国がある。詳しい名前は覚えていないんだけど、今の所、関係は良好らしいわ。小さい方のドグラガ大陸はちょっと特殊で、原因は不明だけど、魔素がヒカ大陸よりも格段に濃いそうなの。そのおかけで魔物の数がとても多くて危険な場所と言われてる。当然、住んでいる人はあまりいないんだけど、それでも少なからずいるわ。ただ、魔素が濃いおかげでね、変異してしまった人たちもいるのよ。その人たちのことを、魔人って呼ぶの。魔物よりも危険な存在と言われているわ」

「なあ、なんで魔人は危険なんだ? 元は同じ人間だったんだろう?」

「私も実際に見た事がある訳じゃないから分からないけど。でも、何となくは想像できるでしょう?」

「……つまり、差別や偏見があるってわけか。それはここでも一緒か」

「そうね。魔法が使えるってだけで、基本的には大きく変わらないんだと思う。良い所も悪い所もね」

 どちらともなくため息を吐いて、再び由梨江は口を開ける。

「明日は、私の実験があるの」

「どういう実験?」

「……それは、その時にならないと分からないのよ。ただ、それは外で行われるから、津田君はここでお留守番をすることになるの」

「……わかった。正直、こんな所で一人でいるのは退屈で仕方ないだろうけど、我慢するよ」

「うん。ごめんね」

「謝るなよ」

「うん」

 それから言葉の勉強をして、軽い雑談を行って、一日を終えたのだった。


「じゃあ、行ってくるね」

 そう言った由梨江は扉を開けると出て行った。

 稔一人だけになった洞窟の中は驚くほど静かである。

 しかし暇だ。由梨江がいないだけで手持ち無沙汰になってしまう。

 どういう風に時間を潰すか稔は早速思案しはじめる。

 言葉の復習をするのもいい。ずっと寝てみるのも自堕落な極みで行いたくなる。だが、あの魔法学者のゴゾルがいない今だからこそ、やれることがあると思い至った。

 稔は扉を開けて一歩を踏み出した。左右に伸びた通路の両脇に提げられた燭台には、すでに灯が灯っている。

 右に行くか左に行くか。一瞬迷ったものの右に行く事にした。

 洞窟の中にいながら元の世界に戻れるのならそれに越した事はない。だが、それをあのゴゾルと言う男が許すわけがなかった。だから逃げ出す必要がある。

 出口までの道順は由梨江が知っているはずだ。しかし罠が仕掛けられている可能性は十分にある。それを確認しなければならないと稔は考えた。

 稔はゆっくりと歩いていく。薄暗い通路は曲線を描いているようで、先のほうはまるで見えない。このまま延々と続いているのではないか、そんな嫌な妄想が頭の中をよぎった。

 けれど実際に歩いても、同じような通路が連続していてまるで変化がない。それでも諦めずに稔が歩いて行くと、ようやく右の壁に扉があるのを見つけた。通路はその先にも続いているが、稔はとりあえず扉を開けてみる事にした。何か使えるものがあるかもしれないというほのかな期待を抱いていた。

 扉には鍵がかかっていない。あっけなく開いた。

 稔は驚愕で目を見開く。

「そんな」

 その藁が床一面に敷かれた部屋は、さっきまで稔がいた部屋である。由梨江と共に過ごしている部屋である。

 稔は目を擦った。見間違いかもしれない。勘違いかもしれない。

 だけどどう見ても、そこは稔と由梨江が眠っていた部屋だったのだ。

 稔は扉を開けっ放しにしたまま振り返り、今度は左側の通路を走った。延々と同じような通路が続ていく。

 そして見つけた。今度は左側に扉があり、その扉は既に開いていた。

 部屋はやはり、稔と由梨江の部屋だった。ここに辿り着くまでの間に、道が分岐している訳でもなく、他に扉がある訳でもなかった。

 嘘だ。これは嘘だ。

 稔はわなわなと震え、それからまた通路を走り出した。

 だが結果は変わらない。何度も繰り返したが、その度に部屋に戻ってくる。

 なんだよこれは。なんなんだよ。

 稔は自分たちの部屋の前で膝から崩れ落ちた。

 右から行っても左から行っても辿り着くのは稔たちの部屋だ。少なくとも現状の稔がこのループから抜け出すのは不可能である。

 のそのそと立ち上がって部屋の中に入った稔は、そのままばたりと藁の上へ倒れ込んだ。

 恋人の雫や、妹の実花や、両親や、友人の事を想った。

 自分がいない事に対して、彼や彼女たちはどう考えているのだろう。今、なにをしているのだろう。

 寂しがっているのだろうか。悲しんでくれているのだろうか。心配してくれているのだろうか。

 少なくとも、稔は寂しい。苦しい。悲しい。

 帰りたいと切に思う。けれどどうすれば帰る事が出来るのか全く見当もつかない。

 もしかしたら、もう帰る事はできないのかもしれない。その可能性は認めたくないが高い。

 ふと気がつけば、稔の目から涙がこぼれ落ちていた。

 今まで封じ込めていた不安が、堰を切って溢れ出して、稔の全身を覆い尽くしていた。

 会いたい。みんなに。

 一人でいる事がこんなにもつらいことだとは思わなかった。

「……ちくしょう」

 両手で藁を握りしめる。強く強く握りしめる。爪が手の平に食い込んだ。痛みが走る。だけど構わなかった。

 手の平の痛みなど話にならないほど、心が痛くて苦しくて寂しくてたまらなかったから。

「……家に、帰りたいなぁ」

 稔の声は、誰にも届かない。




 

 由梨江とゴゾルは、実験を行うために近隣の村へ向かう途中だった。

 ゴゾルの一歩後ろを歩いて行く由梨江の首には、黒光りしている輪っかがはめられている。

 魔法が施されたこの首輪は、ゴゾルが合図を送るだけで、由梨江の首をきつく締め上げるのだ。由梨江が常時発動させている回復魔法の力のおかげで、自身はそれで死ぬ事はない。しかしそのかわりに、ゴゾルが合図を止めるまで、由梨江は死ぬほどの苦しみを気絶する事もできずに味わい続けることになる。比べる術はないが、恐らく三蔵法師が孫悟空の頭にはめた飾りよりも遥かに強力な代物であろう。

「ふん。やはりな。実験動物の行動は、どいつも同じだ」

 ゴゾルが発した独り言を聞いた由梨江は、彼の魔法で岩窟の通路がループしていると知っていながら、稔に伝えていなかったのを今更ながら思い出してしまった。

 今の状況下で稔が取る行動はきっと一つだけだろう。

「さてどういう実験をしようかな。楽しみだ」

 ゴゾルはちらりと背後に視線を送りながら、ほくそ笑んだ。彼の独り言は、わざと由梨江に聞こえるように言ったものだった。

 由梨江は嫌な予感に身をすくませた。

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