第25話 「完全」とは「終焉」

皆さんは「完全」「完成」などという言葉にどのような感想を抱くだろう。随分昔の話になるが「完全無欠のロックンローラー」という曲が受けた時代がある。私はこの曲の受けた時代の人間ではないがyoutubeでこの曲に出会った時「おもしろい名前だな」と思った。完全無欠だなんて誰もが憧れるロックンローラーなんだろうなと感じた。同時にそんなものはいないんだろうなとも感じたのだ。


「完全」それは非の打ちどころのないということでもはや俗にいう「神」と称される領域にあるということだ。多くが憧れる。理想を高く欠点のない「完璧」な自分を目指す人もいることだろう。私は今回の「完璧」「完全」などの言葉に注目し果たしてそれは目指すべき理想なのかということを考えることになった。私もわりと最近までこれらの言葉に一定の憧れを持っていた。それは理想として掲げるにあたって誰もが目指したいと思うものだろうと思っていたからだ。さきほど上げた「完全無欠」だってかっこいいではないか。しかし、この幼心の派生ともとれるこの理解は今回簡単に崩れる至った。あれらの言葉に共通する文字「完」。これは「終わり」を意味する言葉だったのだ。「完全」とは「終焉」だったのだ。これ以上どうすることもないということだった。これに気づいたとき私の中の憧れは崩れた。「終焉」憧れているなんて何て寂しい人間かと思ってしまった。中二病かと。


例えば「完全な社会」。これは「終わった社会」ということだ。人々の欲望が満たされる完成された社会なんて確かに生まれるわけがない。唯一可能だとすれば人間から欲求を排除するしかない。さらに人間がこれでわかったこともある。人間は完全無欠にはなれない。なれるとしたら死ぬ時だと。人間は永遠に不完全なのだ。完璧になることはない。絶対にだ。むしろなってはいけない。なぜならそこで人間として成長が止まってしまうことになるからだ。完璧は向上心をなくす危険な言葉だ。可能性を排除する。人間の不確定性の排除に繋がるのだ。芸術においては完成がある。きっとあらゆる創作物には完成がある。行き過ぎれば「蛇足」であるとして「美」を損なうことになる。しかし人間は時共に常に変化している。流動性の高い生物だ。きっとあらゆる生き物がそうだろう。全知全能のパラドクスというものがある。これもまさに「完全」という言葉の否定だ。このような「完全」のもつ意味をディズニーの創設者であるウォルト・ディズニーは理解し「ディズニーは「Disneyland will never be completed. It will continue to grow as long as there is imagination left in the world.」(ディズニーランドは永遠に完成しない。世界に想像力がある限り成長し続ける) と言ったのだろう。私は最初これほどまでに資本主義を美化した言葉はないと皮肉交じりに考えていたが、今となってはそう言えなくなっている。それは完成してはいけないものなのだ。完成したということは人間の想像力の成長が止まってしまったということに繋がるのだから。


多くの可能性を持ち合わせ人生の不確実性に悩む人間は多いことだろうが、それを脱却しようと完璧を求める必要はない。完璧はそれから先の自分の否定だ。人間は失敗と隣り合わせであるし多くの矛盾を抱えなくてはいけないものだ。しかし、それでいい。何も不思議ではない。人間は完璧ではないのだから。完全にはなれないのだから。だから理想は高くても決して完璧などは求めてはいけない。それは決してたどり着くべきゴールではないからだ。理想の達成は短期的なゴールであり新たなスタートだ。完璧という言葉の持つトリックに騙されず不完全であることを楽しむということもまた人生の楽しみだ。

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