1. 準備

 昨日の帰宅後、日課というよりもはや習慣の夜稽古からは早めに引き上げておいた。普段は気にも留めないが、痣や傷が見えるところに付いていれば先輩を怖がらせてしまう可能性が…いや、きっと心配させてしまう気がした。今日に限り、やたら回避に徹する俺を父は怒鳴り飛ばし、弟は不思議そうに理由を聞いてきた。

 「今日ほんとに気ぃ入ってないね。俺でも勝てそう」

 「明日社の関係で会食する用がある」

 「うーん…仁兄はほんとに嘘つけない性格だよねぇ」

 「…は?」

 断じて今の会話に嘘はない。

 「そのために稽古早引けって間違いなく相手女性じゃん……ねっ」

 言い終わらないうちに超至近距離から無拍子で仕掛けてくる弟を捌いて転がす。運悪く場所は住宅家屋と道場との渡り廊下、つとむは俺より上背があって重いので結構な音が敷地内に響き渡り、道場の方から再び父の怒鳴り声が聞こえてきたので即退散する。後ろからぼやき声だけが追いかけてきた。

 「もー、ちょっとくらい不意打たせろよなぁ」

 「それだけ楽しそうな気配してれば誰でもわかる」

 「あーそういう……そだ、今日は俺のシャンプー使えば?けっこういいニオイするやつ」

 「…だから、別に」

 「カノジョに教えてもらったやつだから多分女性ウケいいよ。じゃね」

 それ以上深追いされることなく、後ろの気配が去っていく。義は家族随一の人当たりの良さとコミュニケーション能力を持ち、男女共に友人も多く、総じて交際経験も俺より多い。普段の物腰は今時の若者らしく緩いが、稽古の時には獣のような闘争心を見せ、その二つを併せ持つアンバランスさが弟ながら面白い。武術に対する真摯な姿勢は人一倍で、『普通の家庭』というものに憧れてサラリーマンを目指した俺とは性根が違う。何故親族が伝統なんぞというもののために俺の方に固執するのかがわからないが、これからの道場経営には義のような男が向いていると思う。

 …とりあえず、出来のいい弟のアドバイスは素直に聞いておこう。


 夜はあまり寝られなかった。こういう日に限って親族の深夜の説得、という名の闇討ちもない。ようやく効果がないことを悟りつつあるのか、それとも今日の腑抜けた俺に呆れたのかどちらかだろう。身体を動かす系の徹夜なら、子供の頃からわけもわからないままよく連行された山中修行やらで慣れている感はあるものの、頭を使う系の徹夜となると…情けないことに耐性がない。それが先日の宿直の醜態にも繋がっている。

 先月のある夜、俺は寝不足で寝惚けたというあるまじき理由で女性の先輩を引き倒した上、腕に痣をつけた。

 全てを話して懺悔した俺を、被害者のアキラ先輩は手放しでフォローしてくれた。

 武術の素人に暴力を振るいかけた事実に萎縮しきって我を失った俺に、先輩は怯えるどころか逆に手を取って励ましの言葉を掛けてくれさえした。

 三週間経った今でも、俺はあの時の先輩の笑顔と手の温もりを思い出す。怖がられても、怒られても、訴えられてもおかしくないほどのことをしでかした俺を前に、心から安堵させるような笑顔を向けてくれた器の大きさ。こんなに尊敬できる女性に出会ったのは初めてだったし、それだけの恩を受けておいて黙っているなんて俺にはできなかった。どんなことでもいい、何かお詫びをさせてほしいと頼み込む俺を先輩は必要ないと何度もたしなめたが、なんとか一度食事を奢らせてもらえることになった――それが今日だ。

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